第3話 ストロベリー・ラブ
第3話 ストロベリー・ラブ
「大丈夫? 梨子ちゃん?」
「……へっ!? あぁもうお昼か! イヤ、全然気づかなかったーあはは……」
心配そうな表情で私を見つめる穂奈美。
どうやら気づかない内に午前の授業が終わっていたらしい。しかも私の机の上に広がっているのは一時間目の英語の教科書のまま。
いけない、まただ……
最近ずっとこんな感じが続いている。
「具合……悪いの?」
「ち、違うんだよ穂奈美ちゃん! 元気、元気!」
自分がへこむだけならまだしも、穂奈美にまで心配をかけてしまっていたなんて……もっとしっかりしなくちゃ!
「ナミナミ〜違うんだ、梨子のそれは恋患いだよ」
こ、恋患いっ!?
21世紀もすでに1割が終わってしまったという今日この御時世に、まさかそんな古風な言葉を女子高生の友人の口から聞くことになるとは思わなかった。
……まあ間違ってはないんだけど。
「そのトマトみたいに真っ赤に熟れたぷりちーふぇいすは図星だね、梨子」
「ううぅ……」
そう、この気持ち。私はこれを恋なのだと知っている。
――あれはちょうど一年前。新しいクラスにまだ馴染めなくて、教室の隅の席で縮こまっていた私に声をかけてくれた一人の男の子がいた。
「柊さん、中学校最後のクラスなんだから皆で仲良くしようよ。だから、ね?」
彼はそう言って私をまとまりつつあったクラスの輪の中に促してくれ、おかげで私は教室で浮かない程度にはクラスに溶け込む事が出来た。
こんな私にも構ってくれる人がいた……
その事実が私には衝撃的で、それ以来私は彼の事を意識せずにはいられなかった。
優しくされた。ただそれだけの事。
だけどそれまで男の子とまともに口を聞いたことすらなかった私の心を捉えるには、ほんのそれだけで十分だった。
――だけど、その恋は叶わなかった。
自分からどうする事も出来ない臆病者の私はただ遠くから彼をみつめるだけで、そしてそんな私の気持ちに彼が気づくはずもなく、モヤモヤしたやり場の無い感情をずっと抱いたまま……
卒業してしまった。
卒業して私は泣いた。
周りはみんな友達に会えなくなるとかそんな理由で泣いていたけど、私は違った。
彼に会えなくなるのが悲しかったというのもある。だけどそれ以上に何も出来なかった自分が悔しくて、泣いた。一年間もただウジウジするだけで終わってしまった自分が馬鹿みたいで泣いた。
そしてそんな事で泣いている自分が情けなくて、また泣いた。
もう二度とあんな思いはしたくない。
悔しくて、激しい自己嫌悪に苛まれて、そして私は変わろうと誓ったんだ――
「未来、穂奈美ちゃん……私どうしたらいいの!? もうイヤだよ……ツライの……」
吐き出した思いと一緒にそれは雫となって頬を伝って行く。
こんなところを見せたら余計二人を困らせるだけなのに、いくら拭っても溢れ出す涙を止めることは出来なかった。
「梨子……」
「梨子ちゃん、大丈夫」
子供のように泣きじゃくる私を二人はそっと抱きしめてくれた。
それはすごく優しく、すごく暖かで、ぐしゃぐしゃになった私の心にはきっと何よりもの特効薬だった。
********
「とにかくまずは沢北君ともう一度話をする。これで梨子の告白が成功する確率は大きく上昇するのだ」
「ほぅほぅ……確率上昇、と……」
「一度だけでなく、出来れば気軽に挨拶が出来る仲くらいにはなっておいた方がいいんじゃないかしら?」
「ふむふむ……挨拶が出来る仲……」
放課後、私の様子を見かねた未来と穂奈美の計らいで、急遽作戦会議が開かれる事になった。
学校近くのファミレスに場所を移した私達は、一番奥のテーブル席に陣取り、周りに同じクラスの子がいない事を確かめると、初心者のための恋愛講座は満を持して開講された。
アドバイザーは未来と穂奈美の二人。私は手帳に重要だと思われる事を書き留めながら彼女達の話にうなずく熱心な受講生。
「沢北君を狙う恋敵はきっと二桁はいるわ。他の子より少しリードしておかないと、いくら梨子ちゃんが可愛いからといって……」
「わ、私全然可愛くなんか……!」
「あー! 梨子は口を挟むな! キミは今日は聞き役に徹しなさい」
福田講師に咎められ、大人しく席に着く。
「やっぱりまずは会話から、よね?」
「そだね、とにかく沢北君のヴィジョンに梨子をもっと焼き付けないと!」
「告白するのも早い方がいいよね? 他の子が言い寄ってくる前に」
「うーん……リミットは二カ月ってところかな?」
当事者であるはずの私を抜きににして二人の話はどんどん加速していく。このまま置いていかれたらたまらない。
「ね、ねえ! でも会話っていってもどんな話をしたらいいの? いつ話しかけたらいいのかも……」
「ん? そんなのいつでもいいし、どんな話題でもいいんだよ」
きっと未来には私の質問の意味がよくわからないのだろう。さも不思議そうな表情を浮かべ、小首をかしげる未来。
そうは言っても……
「そうねぇ……例えば昨日のテレビの話とか、お昼ならお弁当のこととか?」
それではあまりにも私が不憫だと思ったのか、穂奈美がすかさずフォローを入れてくれる。
「テ、テレビってでも、私が話した番組を彼が見てなかったらどうすればいいの?」
「そんときは『あの番組面白いんだよー沢北クンも見てみなよー』とかで言いんだよ。梨子は考えすぎだなぁ」
そう言って、彼女達はクスクス笑い合う。
……私にはそれが出来ないんだよ、普通の会話が。
ただでさえまともに男の子と話したことなんかないのに、その上好きな人を前にしてなんて……私緊張で死んじゃう。
とにかく来週から頑張ろうという事になって、店を出たところで私達は別れた。
明日から土日の連休になるので、その間に沢北君対策に少し心の準備をしておきたい。
月曜日から戦争だ……
私は街灯の灯り出した大通りの道を一人駅へと向かって歩き始めた。
「あ、その前にノート買ってなくちゃ……」
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「お、もうこんな時間か……絵里、そろそろ帰るか?」
放課後の教室で無駄話に勤しんでいる内にすっかり陽が暮れてしまったようだ。
「いや、私はちょっと寄るところがあるから先に帰っといてくれ」
「わかった、じゃあな。ボン、お前も帰り道気をつけろよ。声かけられても知らないおじさんについてっちゃダメだぞ」
「それ、何歳の子に向かって言う台詞ですかっ! ……さようなら、名倉君」
背中越しにひらひらと手を振って俺は教室を後にした。
今日で高校生活最初の週が終わった。
感想は……まずまずといったところだろう。
絵里とボンのおかげで、今のところはまだ毎日退屈せずに済んでいる。
朝夕の読書も相変わらず充実している。中学のときは本を読む暇なんていくらでもあったのだが、高校に入って予習復習に時間をとられる身となっては、移動中に確実に読書時間を確保出来るだけでも本当にありがたい。
そこまで考えて、そういえば今朝ちょうど一冊本を読み終えたのを思い出した。
「ちょっと寄ってくか……」
俺は帰り道にある大型書店に立ち寄った。
店に入るとまず店内を隈なく一周する。それが初めて入る店なら尚更だ。
単純にどんな本があるかを眺めて回っているわけでは無い。
むしろ本と本の隙間を縫うというか、本棚と本棚の空間にこそ俺の関心はあるわけで……。
そうして店の中に俺を知る人物がいない事を確認してから、ようやく俺は目当てのコーナーへと移動する。それが常だ。
そう、俺は自分が本を購入する様子を絶対に誰にも見られてはならない。
なぜならそれは、気配を消す事に細心の注意を払いながら俺が向かった先、そこが「恋愛小説」のコーナーであったからだ。
告白しよう。
俺は重度の恋愛小説オタクである。というか、本はそれしか読まない。驚いたか? 驚いただろう。
一見、鉄の仮面で心を覆い、女などに現を抜かす哀れな雄犬共を嘲笑の眼差しでこき下ろしていそうなこの俺が、現実は女子中高生達がキャアキャア騒いでいる超俗っぽい「恋」だとか「愛」だとかに夢中で、毎朝声の限りヒロインの名前を叫びたい衝動に駆られながらも、時折頷いたり「なるほど……」などと小言を交えたりしつつ、あたかもマルクスの経済論やフロイトの精神分析学を愛読書としているかのように振舞っているのである。
ああ、なんとでも言ってくれ。キモイ、吐気がする、ゴキブリホイホイに捕らえられ身動きの取れぬまま、誰にも気づかれぬままに死んでいくあの醜悪な茶色の卑小生命体のごとく惨めに死ね。
おーけい、どんな誹謗中傷も甘んじて受け入れよう。ベイビー、君の言う事はもっともだ。
きっかけは中学入学の時に親戚の姉ちゃんが譲ってくれた本だった。
使わなくなった教科書とか参考書の詰まった段ボール箱の中に紛れて、なぜか一冊だけカバーのかかった文庫本が。
どうせ姉ちゃんが間違って入れてしまったのだろうと思ってしばらく手もつけずにそのままにしておいたのだが、余程退屈していたのだろう、ある時ふとそれを手にしてみる事があった。
衝撃だった。
「僕と君と」とタイトルの書かれたその本は、今にして思えば何の変哲もないB級恋愛小説だったのだが、ちょうどその頃思春期に差し掛かるかどうかという時期にいた俺には少々刺激の強すぎる本だったらしい。
ある女の子が同じクラスの男の子に告白して、付き合って、初めて手をつないで、初めてのキスをして……
耳まで真っ赤にしながらもページをめくる手だけは止められなかった。
そしてそのまま時が経つのも忘れ、遂に最後まで読み終えてしまった俺はその劇的な結末に感動するあまり泣いた。
それ以来俺はすっかり恋愛小説の虜になってしまったのだ。
最近親戚の姉ちゃんに会う機会があり、何の気なしに文庫本が一冊紛れていた事を話してみた。すると姉ちゃんはこう言ったのだ。
「ああーあれ間違ったんじゃないんだよ。なっちゃんももう中学生だしそういう時期かなーと思って、私からのプレゼント♪」
なんと、あれは姉ちゃんの故意であり、厚意だった。
俺はそんな気まぐれによって「僕と君と」を読まされ、晴れてこんなイレギュラーな趣味を獲得するに至ったのだ。
うーん喜ぶべきか、否か。すごく姉ちゃんを憎みたい気持ちにもなるけど、事実それを唯一無二の楽しみとしている今日の自分もいるのだから、全く感謝しない気がしないでも無い。
ただ真実を知りがっくりと肩を落とす俺と、不思議そうにその姿を見つめる姉ちゃんがそこにいた。
********
「この本屋さんこんなに大きかったんだ……」
併設されてある文房具店で用事を済ませた私は、せっかくだからと書店の方も覗いて見ることにした。
前からそこにあるのは知っていたけど、中に入ったのは今日が初めて。
学校の体育館くらいの広さはあるだろうか。比較的需要のある漫画や雑誌ばかりでなく、一体この世に理解できる霊長類がどれだけ存在するであろう学術書や専門書の類までしっかり取り揃えてあった。
「へぇ……これから参考書なんか必要になった時はここで探せばいいかも」
特に今回は何か本を買う予定も無かったのでそろそろ店を出ようかと思ったその刹那、私の視線は今月の新刊の所にディスプレイされてある一冊の本に釘付けになった。
『叶う恋 25の秘訣』
「…………」
私は吸い寄せられるようにしてその棚へと近づき、本を手に取った。
『はじめに
この本は好きな人がいるのに上手く気持ちを伝えられない、距離が縮められない、そんな恋に悩める女性(男性)の為に書かれたhow toブックです。これから紹介する25の秘訣をよく心得、実践することが出来ればアナタの想いはきっと成就する事でしょう。そのためには決してためらわない――』
そこまで読んだところで私は慌てて本を閉じた。
な、何してるのよ、私は!
こんな本読んでるところをもし誰かに見られたら恥ずかしいじゃない……!
私は本を元の場所に戻し、さも興味がありませんでしたという風に肩をすくめてみせる。
もちろん誰も自分を見ている人などいないとわかってはいても、気恥ずかしさを紛らわす為にはこうでもするしかないのだ。
本当はその隣に置いてあった『恋愛上達読本』という本も気になったのだが、見なかった事にして私はその場を離れようとする。そこで、
あ……
向こうからやってくる一人の男の子とぱったりと目があった。
あの制服……ウチのだよね?
彼もどうやら私が西高の生徒であることに気づいたようで足を止めた。
いや、確かに足を止めたのだけどどうも様子がおかしい……。
彼はまるで凍りついてしまったかのように一切の動作を停止し、なぜかとても怯えたような表情を浮かべていた。
あれ、あの人どうしちゃったんだろ……こういうときは何か声をかけるべき……?
「あ! あの、西高の人……ですよね?」
普段ならとてもこんな事をしようと考える私ではないのだが、その時ばかりは高校生になって何か今までの自分と違うことがしてみたい! と、意気込んでいた頃なので思い切って話しかけてみたのだ。
話しかけてみて、しまった。
ああ、しまった。
まあなんと偶然に偶然が重なった事やら……。
「!!!」
私が一歩足を踏み出すと彼はカッと目を見開き、見るからにうろたえ、そして後ろに振り返り……
「えっ、ちょっ……!!」
全速力で駆けた。
な、何で逃げるの? 私なんかマズイことした?
そして何がなんだかわからないまま、私は逃げる彼を――追った。
********
なんで西高の生徒がいる!?
さっき店内を確認したときには確かに誰もいなかった。
あらかじめ欲しい小説には目星をつけておいたからほとんど時間は使ってないはずだし……どこか見落としたところがあったのか?
……はっ! まさか俺がこの織姫桃子さんの最新刊「ストロベリー・ラブ」を持って恋愛小説のコーナーから出てくるところを見られたのでは無いだろうな?
いや、そうに違いない! そうでなければどうしてあの女はこんなにも執拗に俺を追ってくる!?
大型書店のフロア全域をエリアとし、突如発生した手に汗握るデッドヒート。
陳列棚の間をかいくぐるようにして逃げ惑うも、追っ手はそう簡単には巻かれてくれない。
くそっ、なんだって言うんだ!
客とぶつかり、棚の商品をなぎ倒すごとに「すみません!」と大声で詫びることを忘れないでも尚、その走る速度を緩める事だけはしない。
チラと後ろを振り返る。
少し距離は広がりつつあるが、それでも女は全力で後を追ってきていた。
「うっ……!」
しかし、角を曲がって店の出入口の前まで来たところで俺はその足を止めた。
止めざるを得なかった。
しまった! このまま未精算の本を持って店を出る訳にはいかない!
しかし、かといってここでこのストロベリー・ラブを買わずにみすみす帰る事が俺に出来るか?
……いいや、無理だ。
駄目だ、もう逃げ場がない……。
どうする事もできずただあたふたと右往左往していると、さっきの女が息を切らして追いついて来た。
「ま……待って……っ……」
くっ、ここまでか……
腹をくくった俺は女の方を向き直り、その手に握り締めたストロベリー・ラブを目の前に突きつけた。
「ああ、そうだ! 俺はここでストロベリー・ラブを買おうとしたさ! 超甘甘ラブコメ小説作家として名高い織姫桃子先生のそのまた格別スウィートと噂される最新刊をな!」
こうなったらもうヤケクソだ! 開き直った方が恥も少ない!
「……バラすのか? お前は俺が長年ひた隠しにしてきたこの少女趣味を『ウチの学校にはハァハァしながら恋愛小説ばかり読んでいる変質者紛いのA級戦犯もの名倉夏樹という超ガチキモオタクがいます』などと言って校内中に言いふらしてしまうのだなぁぁ!? あああもう好きにしてくれ! 俺の高校生活はどうせ今この瞬間をもって、THE ENDなのだから……。そうだ最後に一言だけ言わせてくれ……『織姫先生、夢を見させてくれてありがとう』と……」
全身の力が抜け、俺はその場に膝から崩れ落ちた。
「…………へ?」
約2秒の間を置いて間の抜けた声をあげる女。それは予想だにしない反応だった。
俺はてっきり「白状したな、この悪党! この私が正義に誓って貴様を成敗してくれる!」とかそんなセリフが降ってくるとばかり思っていたのだが……いや、さすがにそれは嘘。
いまいち状況が飲み込めない、といった顔で俺とストロベリー・ラブとの間で交互に視線を往復させる女。
一体どういうつもりだ? 俺をここまで追い詰めておいてお前はなぜ次の行動に出ない?
衆目の前で大声をあげ俺を糾弾するだとか、携帯のカメラで犯行現場をおさえるだとか、色々とやり方はあるだろうに……まさかこの女!?
「お前……俺がストロベリー・ラブを持って恋愛小説のコーナーから出てくるのを見てたんじゃないのか……?」
「ストロベリー……? 恋愛小説……?」
女は意味がわからないという風に首を傾げる。
そんな……俺はとんでもない思い違いをしていたらしい。
「ま、待て! じゃあどうしてお前は俺を追いかけた!?」
「えっ!? だ、だってそれは……あなたが逃げるから……!」
なんだとっ!? 逃げるものは何でも追いかけるのか、この女は!?
クソッ、理解出来ん! 全くもって理解出来んぞ、女!
********
「おい、いいか……お前はここで今日誰にも会っていない、何も見ていない。今から遡ること2分30秒の記憶の一切を忘却の彼方へと押しやるんだ」
「えっ? ちょっ……」
この男の子無茶苦茶だ! さっきはあれだけ自分から聞きもしない事をベラベラ喋っておいて、それを全部忘れろだなんて……!
「いいか、俺はこれからこのストロベリー・ラブを持ってレジへと向かう。お前はこのままこの自動ドアから外へ出て真っ直ぐ家へと帰るんだ。わかったな、では」
……結局買うんだ。
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落ち着け俺。冷静になって考えてみろ。
確かにこの女にマズイところを見られてしまったが、そもそもコイツは俺の事を知らない。
同じ高校の生徒だとは知っていても、1学年500人近くもの生徒数を誇る西高の事だ。何か決定的な情報を持っていない限り、俺という人間を特定出来る可能性は極めて0に近い。
人間の記憶というものは至極曖昧なもの。万一今後校内ですれ違うことがあったとしても、初めの一ヶ月さえ注意していれば、後はもう時間という絶対的強者が今日の記憶を前頭葉から葬り去ってくれるだろう。
確かに俺の趣味を知られてしまったことはマズイが、それが赤の他人であるなら何も問題ない。
赤の他人とは、言ってみれば空気も同然。空気がいくら俺の秘密を知っていたところでどれだけの支障があろうか。
そうだ女! お前は空気だ! 俺はお前の事を何も知らないし、お前は俺の事を何も知らない! さらばだ! 女!
「あ! あの……名倉、クン……っていうの?」
「……」
何故だぁぁー!? どうしてこの女は俺の名前を知っている!? お前は俺の事を知らない設定ではなかったのか!?
……そうか、今記憶という名のページを読み返してみてわかったが、不覚にもさっき取り乱してしまった際のドサクサに紛れて俺は最も基本的で、かつ最も決定的なその個人情報を自分の口から漏らしていたというのか!
ええい、なんたる失態!
********
え、どうしよう? この人またなんか落ち込んでる?
なんか落ち込んだり開き直ったり感情が豊かな人だなあ……。
なんかよくわかんないけど傷つけちゃったみたいだから、謝ろうと思ってつい呼び止めちゃったんだけど、逆に迷惑かけちゃったみたい……。
「あ、あの……ごめんなさい! 私……」
「言うなよ」
「へ?」
「絶対に誰にも言うなよ。もし誰かに言ったら――」
その瞬間、彼の眼光が急に鋭さを増した。
こ、殺されるっ!?
「い、言わない言わない言いませんっ! ぜぜ、絶対に言わないからどうかその、命だけは!」
お願い! これで許して……!
********
女は手に持っていたカバンを徐に漁り始めた。
何をするのかと思って眺めていたら、彼女はピンク色の長財布を取り出し、中からありったけの紙幣を抜き取って俺に差し出した。
「い、今の私の全財産です!」
な、何のマネだ……まさか俺が金を要求してるとでも……?
「いらん」
俺は顔を伏せたまま肩を震わす女の脇を通ってレジへと向かった。
あの様子じゃ誰かに話したりする事も無いだろう。
出くわしたのがあんなバカみたいな女だったのは不幸中の幸いだった。
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助かった……
安堵の息をついた私は、彼がレジへ向かっている間にそそくさと店を後にした。
なんか、変わった人だったなぁ……
あんなに澄ました顔して、冷たそうな人なのに恋愛小説が好きだなんて……
「ぷっ、ちょっと可笑しい」
また一段と暗さを増した空の色とは対象的に、店から出てきた少女の足取りは心持ち軽くなったように見えた。
この時初めて二人の人生は交錯した。
今はまだほんのすれ違った程度にすぎないが、それは確実にお互いの道に消える事のない痕跡を残していったのだった。