第38話 絵里の想い 思慕×慟哭
第38話 絵里の想い 思慕×慟哭
「……やっぱりここにいた」
今はもう一面に生い茂った夏草の香りがむせ返りそうになるくらい鼻につく空地。周りは建設工事用の遮音壁で覆われ、敷地内のあちこちに年季の入ったサビだらけの資材が放置されている。近隣住民の強い反対に遭い、結局着工される事のないまま忘れ去られた高層マンション建設用跡地。
そこに絵里はいた。
いつも決まって、その隅っこに建てられた作業員の詰め所用と思われるプレハブ小屋の裏に身を隠していた。
本来ならもちろんこの場所は立入禁止だ。親からも学校からも危ないから入ってはいけないと言われている。だけど小さい頃から絵里はそんな大人の忠告を聞くような子供じゃなかった。
ここなら誰にも気づかれない、ひとしきり泣いても変に思われない、そうやって俺達が見つけた秘密の場所。
忘れられた土地で、俺達は気の済むまで嫌な事を忘れられた。
「……馬鹿者。お前が来てどうする」
背を丸め体を低くした絵里は、土の上に小さくうずくまっていた。
……同じだ、昔から。
体のデカさ以外はあの頃から何一つ変わっちゃいない。
「強がるなって。俺が来ないとお前は泣くに泣けないだろ?」
キザな台詞を吐いて、俺は膝を抱える絵里の隣に腰を下ろした。
後ろの小屋に背中を預けると、しばらく空を仰ぎ、走ってきた息を整える。
「ところ構わず散々泣き散らしたお前が、よくもまあそんな事が言えたもんだ」
……確かに。
絵里に痛い所を突かれ、ヒーロー然と登場した俺が早速格好がつかなくなる。
しかし……な。
こうしてこの場所で二人肩を並べていると、不思議と心が落ち着いてくる。さっきまでの焦りや不安もどこか薄らいで、とても懐かしい気持ちになる。何をするにも、どんな時にも、ずっと一緒だったあの頃を思い出す。
いや、いつも一緒なのは今も変わらないか……
「知ってるか? こことうとう工事が始まるんだってよ。高層マンションの件は白紙になったけど、代わりに数十世帯は暮らせそうな集合住宅が建つらしい。ほら俺達の家の近所にもあるだろ? 遠野とか木梨とかが住んでた、あんな感じのだ」
小学校の同級生の顔がふと思い出された。いつも絵里にいじめられていた彼らは今、どこでどうしているんだろう?
「そうか……まあ高層マンションよりはよっぽど現実的だな。一体誰がこのせせこましい土地に、そんなバベルの塔みたいな訳わからん構造物を期待するんだ?」
絵里は膝の間に埋めていた顔をようやく持ち上げる。
よかった……涙の跡はまだ無い。
俺はこっそりと盗み見た絵里の横顔からまた視線を前へと戻し、
「だけどそしたら俺達はもう居場所が無くなるな……」
そんな感慨に浸る。
初めは近所の駄菓子屋だった。物心ついた時から親に連れられ、時に小遣いをもらって友達同士で、長年通った馴染みの店も、俺達が中学へ上がると同時に気づけばシャッターが下ろされていた。話を聞くに、店主のばあさんが具合を悪くし、それ以上店を続けられなくなったとか。さすがにその頃にはもう足も遠のき始めた頃だったから、即遊び場に困るという状況でも無かったのだけれど、薄荷を舐めた時のようにどこか心の中がすうっと冷えていくような気がしたものだ。
その後も学区再編により俺達の通った幼稚園が閉鎖され、よく遊んだ川は氾濫防止の堤防が築かれ近づけなくなり……そして今また一つ、俺達の思い出の場所が姿を消そうとしている。
仕方のない事はわかっている。時代の変遷と共に街の姿が移ろうのは仕方ない。むしろ変わらない事の方が問題だ。子供が成長するように、人類が進化してきたように、街もまた日々更新されなくてはならない。
そんなことはわかってる。わかってはいるけれど、やっぱり少し名残惜しい。
だけど絵里は、
「はっ、お前は泣きべそをかく場所に困るだろうな。だが大人の私にはもうそんなもの必要無い」
そんな俺のノスタルジーを鼻で笑った。
「必要無いって……お前それ全然説得力無いぞ」
真っ先にここに逃げ込んだその当人に言われてもなあ……
呆れる俺をよそに、絵里はやけに決意めいていた。
「今日が……最後だ」
少しの間を設けて絵里はそう言い切った。
その数秒に、絵里は一体どんな想いを込めたのだろう。どんな風に心を決めたのだろう。……どうすればそんなに強くなれるのだろう。
「ほらよ、これ」
俺はポケットから一枚の写真を取り出した。必死になってシワを伸ばしたけれど、やっぱり元通りにはならなかった、そんな哀しい写真。
「ど、どうしてこれを……!」
差し出された俺の手元を見て、絵里は思わず目を見張る。
「大切な物なら簡単に捨てるなよ。言っておくが拾ってくれたのはボンだからな、明日ちゃんと礼を言っとけ。あとそれから……俺もこの写真嫌いじゃない」
そんな事を言ってしまってから自分でも恥ずかしくなり、俺は目を逸らしたまま絵里の手にしわくちゃの写真を握らせる。
「また焼増ししてもらえるよう頼んどくから、それまでこれでガマンしろ」
しばらく絵里は呆然とそれを眺めていたが、やがて写真ごと胸に抑えつけるように手を重ねた。
「いい……私はこれでいい……」
「ダメだ。その変なシワのせいで俺が超ブサイクに見えんだよ」
俺は少し冗談混じりに絵里に笑いかける。
しかし彼女はそれに応えようとはせず、もう一度顔をうつむけてしまった。
「聞いたのか……?」
「……ああ」
何を聞いた……か。それを確かめたわけじゃない。だけどおそらく俺と絵里の考えてる事は同じだ。
この場所でなら、俺は絵里の気持ちがわかる気がする。それが当然だった、二人すれ違って行く前の、あの頃のように……
「それで……お前は今日何の用があってここに来た?」
それを訊く、つまり絵里はもう覚悟が出来ているのだ。
強いな……と、俺はまたしても思う。
「お前を振りに来た」
「……だと思った」
納得、悲観、憤慨、無念……様々な感情がブレンドされた絵里の溜息。
「……ったくなんでこうなるんだよ。15年間ずっと私は待っていたっていうのに。お前のそばで、お前が私を見てくれる日が来るのをずっと待っていたのに……なんでっ……なんで私じゃないんだよ……畜生……!」
「絵里……」
その震える肩を抱きとめてやりたいと思った。思い切り抱きしめて、いつかのように慰めてやりたい、一緒に泣いてやりたい。
……だけどそれをしてはいけない。そんなものは友情でも何でも無い。ただの俺の自己満足であり、身勝手な偽善だ。
責任の伴わない中途半端な優しさなんて、余計に絵里を苦しめるだけ。だから俺は触れてはいけない。身体中傷だらけにし、今も血を流し続ける少女の姿を目の前にしても尚、俺はただじっと見ている事しか出来ない。
……苦しかった、とても。
「だけどな……本当は薄々気づいてた。お前が私のそばから離れてどこか遠くへ行ってしまうんじゃないか……って。高校入学と共にお前は変わりたいなんて言い出して、あの芋米女に趣味の事を話したって聞いて……」
芋米女……芋か米かせめてどっちかにしろよ。
「正直脅えていた。あの女に夏樹が奪われるんじゃないかって、不安で不安で仕方なかった。……だから私はあの女が嫌いだった」
「なにもお前は最初から私の所有物だったわけじゃなけどな」そこだけ絵里は少しトーンを明るくする。
「本当は変わって欲しくなんて無かった。お前にはずっとそのままでいて欲しかった。そりゃ一番の望みはお前がそんなクソみたいな性癖をさっさと克服して、私を好きになってくれることを期待した。だけど私にはもうそれが叶わない事だとわかっていた。夏樹が一番初めに恋をするのは私じゃない、あの女だ、って」
絵里は毒を吐き続ける。言葉にする度にそれはもう一度絵里の身を焼き尽くし、そして蝕む。それでもいつかは全て吐き出さなければならない。心の底に澱として溜まっている内は、ずっと彼女を苛み続ける。未来永劫彼女を苦しめる。
だから自ら傷を抉る絵里を、どうして俺は止められる?
「だけど私にはもうどうする事も出来なかった。変わっていくお前の心を私はどうする事も出来なかった。旅行でも、誕生日でも、祭りでも、私はずっとお前のそばにいたのに、お前の一番近くにいたのに、私ではもうお前の心変わりを止める事が出来なかった。段々とお前が私を見てくれる時間が短くなっていく、その事に気づいた私はただ恐れた。夏樹のそばにいたい。いつしか私の願いはそれだけだったのに、そんなちっぽけな願いさえ、どんどん私の手からこぼれていくような気がした。夏樹がいなくなったら、私は一体何を頼りにして生きていけばいいのだろう……大人になったはずなのに、私は少しも一人立ち出来なくて、不安で、淋しくて、苦しくて、この胸は押し潰されるように日増しに大きな悲鳴をあげていったんだ」
淡々と語られ、次々に明かされていく絵里の真実の想い。
「そして今日を迎えた。とうとう恐れていた日が来てしまった。『話がある』とお前が言った瞬間、私はもう全てを悟った。だから私は何も聞きたくなかった。耳を塞いだ。なのにお前はそんな私に無理矢理残酷な現実を突きつけた。見ないふりをしようとしていたのに、強引に目を開かせた。私だって女なんだ……傷つく事もある、この馬鹿者が」
「その……悪かった」
他に詫びようも無かった。知らなかった……なんて言えない。知らない事が、結局は彼女を一番苦しめてしまったのだから。
「夏樹、もう一度聞く。私じゃ駄目なのか?」
きっとこれが最後の分岐点なのだろう。選ぶ道次第では、幼馴染の俺達にだって、また今とは違った関係が生まれるかもしれない。それもまだ間に合う。今からだって遅くない。
だけど……
「悪い、俺の心はもう固まってる」
ごめんな、絵里。俺、決めたんだ。
「……一生後悔するぞ、このバカが」
「ああ、そうかもな。こんな絶世の美女に告白されて、それを無下にしようとしてる俺は、おそらく歴史上類を見ない大馬鹿者だよ。最後の審判じゃきっと地獄に落とされる」
わかってるんだよ、絵里がどれだけイイ女かって事くらい。そんなこと、誰よりも俺が一番わかってる。
「だけど好きになっちまったものは仕方ない、どうしようもないんだ。お前もわかるだろ? こんなどうしようもない俺の事を好きだと言ってくれたお前なら」
結局俺は何も変わってない。傲慢で、自分勝手で、ずるくて、甘い。絵里を敵に回したくないし、嫌われたくもない。ちゃんと理解した上で、全部わかった上で、それでも俺の事を認めて欲しい。
……こんな俺でも絵里は許してくれるだろうか?
「ああ、なんだって私はこんなクズに15年も恋い焦がれてきたのか……人生最大の汚点だよ。お前のようなコンプレックスの塊かつ、もはや生きてるだけで罪としか言いようのない無能男なんかよりは、そこの水溜りで繁殖してる植物性プランクトンの方がまだよっぽど利用価値があるぞ」
おいおい……そりゃまた辛辣な……
「だけど私はお前が好きだ。ずっと一緒にバカをやって来た名倉夏樹という男を、私は世界の誰よりも愛してる。だから……お前の全てを応援する」
絵里は瞳の奥に強い光を湛え、真っ直ぐに俺の目を見た。それはとても力強く、俺の心を大いに奮い立たせ、ドンと背中を押されたような気分だった。
「ああ、ありがとな絵里。やっぱりお前は俺の親友で、唯一無二の幼馴染だよ。これだけは覚えておいてくれ。俺達はこの先もずっと一緒で、死ぬまで一緒だ」
「それが今から他の女を口説きに行こうという男の口にする言葉か?」
我ながら少し調子の良い事を言い過ぎたかと思い苦笑を浮かべる俺の首に、絵里は突然手を回してきた。
「えっ……」
一瞬の事だった。
目を閉じた絵里は、身体ごとグイと乗り出すようにして自分の顔を近づけ、戸惑う間もなくすぐに二つの唇は重なった。
絵里の薄い唇は少し湿っぽくて、ひんやりとしていて、きっと俺の知る絵里のどんな部分よりも柔らかかった。
「絵里……」
たっぷりと一呼吸分はそのままにして、やがて絵里は自分から顔を離す。呆然とする俺の前で絵里は再び目を開けた。
「おあいこだ」
「え?」
「あの芋米女だって、キザ男とキスの一つくらい済ませてるだろ? だからこれでおあいこだ」
そう言って悪戯に成功した子供みたいに、ニッと歯を見せる絵里。
なんだよそれ……全然ロマンチックでもなんでもないじゃないか……。お互い最初のキスだろ? お前はこんなんで良かったのか?
「さあ行って来い」
絵里は母親が子にしてみせるように、俺の両の頬を軽くはたいた。
「ああ」
それを合図に俺は立ち上がる。夢の時間もこれで終わりだ。
「私を振って行くんだ、絶対に失敗するなよ」
絵里は俺を見上げ、得意気にフンと鼻を鳴らした。
「その時は改めてお前に交際を申し込むよ」
「そんな都合のいい話があるか。死ね、この腐れ外道」
絵里の嘲るような物言いに、しかし自然と笑みがこぼれる。
やっぱり絵里はこうじゃないとな……!
「絵里……ありがとな!」
その言葉を最後に、俺はまた駆け出した。
伝えなくちゃいけない。
この想いを伝えなくちゃいけない。
沢北の、福田の、ボンの、絵里の、みんなの想いを背負って、俺はやらなくちゃいけないことがある。
もうここまで来てしまった。
どれだけ望もうと、今更元に戻らない。
何も知らずにヘラヘラ笑ってたあの頃にはもう戻れない。
だけど、何度だってやり直す事は出来る。ダメになったなら、もう一度作り直せばいい。バラバラに崩れてしまった積み木の家も、一から積み直せばもっと素敵な城が出来るかもしれないから。そんな風に俺達だって、もっと素晴らしい関係を築けるかもしれない。
今以上に美しく、今度は誰も悲しまなくていい未来が。
またみんなで笑って、集まって、そんな夢みたいな明日が。
だから俺は梨子に会いに行く!
会って、そしてこのねじ曲がった世界を変えてみせる!
********
「……しくじるなよ」
夏樹の足音が聞こえなくなったのを確認して、私もようやく重い腰を持ち上げた。
砂埃で白くなったスカートの裾を手で軽く払うと、脇に落ちていたカバンを拾うため身を屈める。
ポツリ。
その時手の甲に雨粒が当たった。
「降って来たか……」
私は陰鬱な気持ちで身体を起こした。
生憎今日は傘を持ってきていない。しかもここから家までだと、まだ走って10分はかかる距離だ。
早く止めばいいが……
雨宿りするべきか否か、そんな風に考え空を仰いだときだった。
え……?
私は自分の目を疑った。
見渡す限りどこにも雨雲らしいものは見あたらない。
それもそのはず、夕焼けが出る日は快晴なのだ。
「はは……なるほど」
笑う、しかなかった。
自分がこんなにも惨めだとは思わなかったから。
その時になってようやく私は、自分が泣いていることに気づいた。
世界が徐々に涙で滲み、頬を幾筋もの冷たい雫が伝う。
「……ったく、あいつがいる時に泣かせてくれよ」
顎から滴り落ちた水滴は、足元の土の上にみるみる染みを広げて行く。
「うっ……ヒクッ……」
無意識の内に抑え込んでいた感情の波と共に、次第に嗚咽が込み上げてくる。
「ううっ……夏樹……うわぁあぁぁぁ!!」
そしてそれは言葉にならない叫びとなって、私はもう一度その場に崩れ落ちた。
声をあげて泣いたのは、小学校の時以来だった。