表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ナツキトリコ  作者:
第二部
38/41

第37話 ボンの想い 嫉妬×憧憬

 第37話 ボンの想い 嫉妬×憧憬


「いないか……」


 教室中を一通り見渡し、周りに不審がられない程度に小さく溜息をつく。

 大体想像はしてた。こうなる事もなんとなくわかってはいて、それでもゼロじゃない可能性とやらに僅かな希望を託してみたのだが、やはり現実はそんなに上手くできていない。


 梨子は今日も学校を休んでいた。彼女の席はもちろん、教室のどこを探しても、淡い栗色の髪の少女を見つける事は叶わなかった。

 福田も、神宮寺も本当は梨子の事を気にかけているのだろうが、あえてそれを表に出すようなことはしない。


「梨子? うん、今日も来てないね」


 そんな風に、少し不自然に自然を装う。きっと同じ室内にいる誰かさんを慮っての事だろう。


 沢北は今日も変わらない様子で席についていて、だけど俺達の誰とも目を合わせようとはしなかった。


 ……憂鬱だった。


 7月18日。

 明日金曜日は終業式。それが終われば遂に夏休み突入だ。毎日このクソ暑い中わざわざ外に出て行かなくて済むのかと思うと、いくらか心が安らぐ気がしないでもないが、待ちに待った夏休み! うひょ〜胸が高鳴るぜ! ってほどの感慨は無い。

 当然の事ながら休暇中平常授業は全てストップ。授業が無ければ学校に行かなくていい、行く必要がない、行けない……

 どこの部活にも所属しない俺のような狼藉者は、それだけで早速行き場を失ってしまうのだ。

俺にとって唯一の社会的交流の場が学校であったから、その窓口が閉ざされてしまえば途端に俺は一人になる。自由だが、少し退屈な日々が始まる。


 ……そして、沢北がアメリカに行ってしまう。


 沢北と、福田と話をしたあの日から二日続けて、俺は5組の教室に顔を出すようにしていた。なんとかして梨子に会いたい……ただその一心で。

 しかし彼女は相変わらず学校に姿を見せない。電話にもメールにも一切返事がない。沢北に別れを告げられたあの日以来、すっかり塞ぎ込んでしまっている。


 くそっ、どうしろってんだ……


 八方塞がりだった。

 福田との会話を通して、自分の梨子に対する想いに気づいた俺は、今はもう早く彼女に会いたかった。

これ以上誤った方向へ進んでしまう前に、また臆病風に吹かれてしまう前に、俺は梨子と真剣に向き合って、色々と清算しなければならない事がある。伝えなくちゃいけない想いがある。

だけどそれはあくまで俺個人の問題で、事態はもっと急を要していた。


 明日だ……それが過ぎればきっともう……


 俺は、どうしても梨子にもう一度沢北と会って欲しかった。会って、ちゃんと話をして欲しかった。その事自体にどれだけの意味があるのはかわからない。もしかしたら今以上にお互い傷ついて、それで終わるのかもしれない。

 結局そんなものは俺の傲慢で、ただの自己満足なのだとも思う。

 だけどそれでもいい。それでも俺は、梨子が恋をして、努力して、ようやく手にした初めての彼氏に、沢北春に、最後にもう一度会って欲しかった。

例えそれが梨子の勘違いの恋だったとしても、二人の間に流れた時間は紛れもない本物だったのだから。お互いを恋しく思う気持ちに嘘偽りは無かったのだから。

 彼らがこのまま終わってしまうのだけは見たくなかった。色々とスッキリしない想いを残したまま、尾を引くような別れ方をするのだけは、どうしても看過できなかった。それが沢北と梨子をくっつけた俺の責任でもある。二人の結末に、ハッピーエンドでないにしても、もう少しだけ救われるエピソードを用意してやりたかった。


 だからこうして今日も俺は梨子の姿を探し、福田から不在の報告を受け、肩を落として教室へと帰る。


「どうした夏樹? お前ここ数日変じゃないか?」


 8組の教室に戻ると、ボンと絵里が俺の席の周りを囲って、仲よろしく購買で買ってきたと思われるコロッケパンにかじりついていた。どうやら一緒にメシを食おうとしてくれてたらしいが、なかなか戻って来ない俺を待ちきれず、結局二人だけで先に食べ始めてしまったというところだろうか。……悪い。


「……そんなに変か、俺?」


 絵里の口の端についたコロッケの衣を指で払ってやってから、俺は自分の席にどかっと腰を下ろす。


「ああ、いつも以上に生気がない」

「なんで元から生気が無い前提なんだよ……」


 ツッコミにもいつものキレがない。


「名倉君、来栖さん。それじゃ僕そろそろ生徒会に行って来ますね」

「ご苦労だな、ボン」


 ボンは最後の一口を放り込むと、飲みかけのペットボトルのお茶を小脇に抱え教室を出て行った。


「お前もちょっとはあの頑張りを見習え。なんだそのザマは」


 虫でも見るような目で俺を蔑む絵里の視線。


 俺だって好きでこんなツラ下げてる訳じゃないんだけどなあ……


 その目を見返して軽く肩をすくめてみせると、俺はカバンから弁当を取り出し、遅くなった昼飯を始めようとした。

時計を見ると五時間目開始までにまだ30分は残っている。弁当箱を空にするだけなら十分な時間だし、その上少し余裕があるようにも思われた。


「……絵里、ちょっと付き合ってくれるか」


 良い機会かも知れない。

 ちょうどボンも席を外していて、絵里と二人きりになれた今、俺は彼女に話しておきたい事があった。


「?」


 何事かと小首を傾げる絵里を促すと、俺は彼女を連れて教室を出た。


 ********


「ほう……屋上なんて来れたのか」


 絵里はそんな感想を述べる。少し感心した風だった。

 俺達は普段使った事もない階段を一つ登り、噂だけには聞いていた西高の屋上とやらに初上陸した。

いつも梨子と沢北が一緒に昼飯を食べていたとかいうその場所に。


「よいしょっと……俺は弁当食うから、お前もどっかその辺に座れよ」

「言われなくてもそうする」


 屋上は少し風が強く、絵里はスカートがめくれ上がるのを気にしてかさっきからずっと裾を抑えつけていた。この辺りはさすがに女の子らしく、彼女のそういう仕草を見る度、俺は何故かホッと胸を撫で下ろすのだ。


「で、なんだ? こんなところに呼び出して、デートのつもりか?」

 

 ニヤニヤと悪意に歪んだ笑みを投げかけてくる絵里。

 馬鹿にしたいんだろう、からかいたいんだろう、俺をヤジるのがきっと絵里は楽しいんだろうが、生憎今日はそれに付き合ってやる気にはなれない。そんな話をするために、俺はわざわざこんなところまで彼女を連れて来た訳じゃない。


「なあ絵里」

「……」


 真面目くさった顔をして彼女の名を呼ぶ俺の様子に、何かいつもと違う空気を感じたのだろうか、絵里は急に表情を消し、口を(つぐ)んだ。


「話がある」


 俺は彼女の目を見て、そう告げた。

 絵里はしばらく押し黙っていたが、ややあって、


「……話なんていつもしてるだろ? 何だよ急に改まって、気持ち悪い」


 不意に不機嫌ムードに転じ、つまらなさそうに俺から顔を背ける。


「なあ……ちゃんと聞いてくれ、真剣な話なんだ」


 しかし俺もしつこく食い下がる。

 今日だけは簡単に話を逸らされる訳にはいかない。これを逃せば、次はもういつこんな機会が訪れるかわからないから。

 だがそんな俺の想いに反して、


「真剣な話? どうせお前の真剣な話なんて、くだらない恋愛小説がどうとかいう話だろ? そんなのいいかげん聞き飽きたんだよ、あー聞きたくない聞きたくない」


 何故か絵里は全く取り合おうとしない。両手で耳を塞ぎ、話を聞くのを頑なに拒もうとする。これには俺も腹が立った。


 ……馬鹿にするのもいいかげんにしろ!


「絵里!」


 俺は彼女の肩を掴み、強引にでもこっちを向かせようとするが……


「うるさい!」


 絵里は身をよじってその手から逃れようとする。


「なんだよ! 話を聞くくらいしてくれたっていいじゃないか!」

「嫌だ! 聞かん! 何も聞かん!」


 目をつぶって、首を振り、子供みたいに(わめ)く絵里。


 どうしてそこまで嫌がる……!?


 幼馴染から受けた突然の拒絶に混乱した俺は、自分でもどうかと思うほど冷静さを欠いてしまっていた。


「じゃあ聞きたくなくても言ってやる!」


 ヤケクソになって、塞がれた絵里の耳にも届くような大声で俺は叫んだ。


「俺は人を好きになった!!」

「……!?」


 その時の絵里の表情を俺は絶対に忘れる事は出来ない。いや、忘れてはならないと思う。

 驚愕に見開かれた目は焦点を失い、何の言葉を発する事もなく中途半端に開かれた唇は小刻みに震えている。さっきまでの抵抗も嘘だったかのように途端に全身から力が抜け、危うく俺は彼女を押し倒してしまいそうになった。


「好きになったって……お前」


 呆然とした絵里はしばらくして呻くように、小さく呟いた。


「ああ、俺は好きになった」


 そんな風に驚く絵里の姿を見て、俺は何を勘違いしたのだろう。きっと周りの事なんて何も見えてなかったんだ。自分一人で勝手に盛り上がって、絵里を驚かせた! って得意気になって、気づけば取り返しのつかない事を言ってしまっていた。


 ……スタンドプレーもいいとこだよ、ホント。


「柊梨子の事を好きになったんだ!」

「!?」


 よく観察していれば誰だって気づけたはずだ。絵里の瞳が宿していたのは、とても興味や関心なんて生優しいものではなく、地獄を見たような深い絶望の色をしていた事くらい。

ほんの少し注意していれば、誰の目にも明らかなはずだったのに……


「驚いたか、絵里? 俺は遂に変わったんだ、誰かを好きになれたんだよ! もうこれで恥じることなんてない、何にも恐れなくて済む! やっと普通になれたんだ! なあ、お前ならわかってくれるよな? この俺の喜び……!」


 俺はもう一度絵里の肩を掴み直し、その細い身体を激しく揺すった。そしてこの感動を一緒に共有して欲しかった。祝福して欲しかった。誰よりも俺の事を良く知る、たった一人の幼馴染に。


 だけど、本当に俺は馬鹿だった。

 最後に最後の最後まで。


「……ざけるな……」


 深くうな垂れた絵里の口元が微かに動く。


「絵里……?」


 俺はハッと彼女から手を離した。


 なんか大人しくないか……?


 どんな言葉をくれるだろう。いや、絵里の事だから訳もわからず暴力に出るかもしれない。

 それでもいい。ぶん殴られてでも、張り倒されてでも、それはそれで絵里らしく、彼女なりの賛辞なのだとしたら俺はそれをいくらでも受け止めようと思った。


 ……そんな展開を期待していた。だから俺はこの時の絵里の様子に少し戸惑いを感じていた。


 これはどういうつもりだ……?


 俺は他の可能性も考えておくべきだった。どうして自分の幸せが絵里にとっての幸せだ、ってそんな馬鹿な考えを信じて疑わなかったのだろう。いくらなんでも強引すぎるだろ……それは。


 結局俺は幼馴染という存在を自分の都合の良いように解釈し過ぎていたのだ。


 幼馴染は俺と話をしてくれる、遊んでくれる、秘密を守ってくれる、落ち込んだら慰めてくれる、好きな人が出来たら……きっと応援してくれる。


 それは絶対に自分を裏切らないものだって決めつけて、俺は個人としての絵里を見ようとはしてこなかった。

 絵里は味方だ、どんな時でも俺を助けてくれる。そこには一切絵里の感情は無い。知らない。関係ない。そういう風になっている。俺はそんな自分勝手で無茶苦茶な考えを、無意識の内に絵里に押し付けていたのだ。


 それでも絵里は愛想をつかさずいつも側にいてくれて、もらってばっかの俺は彼女のために何をしてやれた? 少しは彼女の気持ちを理解してやろうとした事があったか? たった一度でも、そんな事があったか?


 そしてすっかり忘れていた。俺はとっくに絵里の考えてる事なんてわからなくなってしまっていたことを……


「ふざけるなぁぁ!!!」


 ドスッ!!


「ふごっ……!」


 突如空気を真っ二つに引き裂く獣のような咆哮と共に、俺は思いっきり腹を蹴り飛ばされた。その勢いは凄まじく、内蔵にまでめり込んだ彼女の足は、全肺胞内の空気を一気に外に押し出した。


「げほっ! げほっ……!」


 肋骨が数本持っていかれたのではないかと思うくらいの激痛。あまりの衝撃に俺は息ができなかった。顔が真っ赤になり、目の端には涙が溜まる。

 確かに予想していた暴力の形ではあったのだが、それは想像していたよりもずっと重く、洒落にならないくらい痛かった。

 そして絵里はいつまでもそこで咳き込んでいる俺を置き去りにして、一人屋上から姿を消してしまった。

駆けて行く絵里の背中を滲む視界の端に捉えながら、しかし痛みに悶える俺は何も言葉を発する事が出来なかった。


 何がなんだかわからなかった。

 どうして絵里は俺を祝福してくれないのだろう。いつもはあんなに気にかけてくれていたのに。

 ここに来てもまだ俺は自分の犯した過ちに気づいていなかった。


 ********


 喉を物が通る度に鈍い痛みを放つ腹のあたりを慎重に気遣いながら、それでも俺は意地で弁当を最後まで食べ終えると、歯を食い縛ってなんとかそこから立ち上がった。

フラフラと覚束ない足取りで、壁に手をつきよろめきながら教室へと戻ったのだが、そこに絵里の姿は無かった。姿が見えないどころか机にかけてあるはずのカバンすら見当たらない。


 まさか……


「なあ加西、絵里見なかったか?」


 俺は近くにいた加西を捕まえた。


「ああー絵里ちゃん? そういやさっき凄い勢いで後ろのドアから飛び出して行く女子がいたね。あれ絵里ちゃんだったのかな? いやあ〜相変わらずパワフルだねえ」


 加西は身振り手振りを交えてその様子を再現してくれる。


 絵里……帰ったのか……?


 どうしてそんな事になってしまったのか、俺はさっきの屋上での出来事をもう一度振り返ってみた。しかし俺の足りない頭では結局その答えには辿り着けず、


 ……ま、明日になればいつも通り顔を見せるだろう。よくわからんがその時に今日の事は謝っておくか。


 きっといつもの気まぐれに違いない、そんな風に勝手に結論づけてしまうのだった。


 ********


 前の席がぽかりと空いてしまった授業風景はとても退屈だった。

 居眠りする絵里にちょっかいを出す事も出来ないし、嫌いな先生の目を盗んでグチを言い合う事も出来ない。


 俺がサボった時も同じように絵里はこんなだったのか……


 昨日絵里がわざわざ俺の机にメモを残していった理由も今なら良くわかる気がした。

 仕方なくその日ばかりは真面目に授業を受け、久々にノートを開いてみたら、前の日付はまだ6月になっていた。




「来栖さんが早退ねえ……名倉君、何か聞いてないの?」

「いや、俺も実は良くわかってなくて……」


 放課後、日直に当たっていた俺は、担任に日誌を提出するために職員室を訪れていた。


「へえ……名倉君でも分からない事ってあるんだね」


 近頃は教師陣も俺と絵里の親密さを知りつつある。

 絵里はあの容姿に、あの性格だ。良い意味でも悪い意味でも目立つ存在だし、自然と名前が知れるのも納得がいく。しかし、その取り巻きとして俺の事まで噂されるのは誠に不本意極まりない。

 中途半端に顔と名前を覚えられたせいで、俺は授業中頻繁に指名を受けるようになり、大抵見当外れの答えをしては教室中を笑いの渦に巻き込む。これはどうにも死活問題だ。

全く本人にそんなつもりは無いのに、気づけばクラスメイトからはムードメーカーと祭り上げられ、加西と双璧を成す8組の最重要人物との誤認が浸透しつつある今日この頃。


「ねえねえ名倉君! 次の地理の授業、何か面白い事言って!」

「おう、名倉!今日も期待してるぞ!」


 やめてくれ、みんな……俺は本当は全く目立ちたくないんだ……


 二学期からは心機一転、もっと真面目に勉強して、全っ然面白くなく、もっと存在を薄く出来るように努めたいところである。


「失礼しました」


 職員室の扉を後ろ手に閉め、俺は来た道を引き返す。


「あ、名倉君」


 階段の途中で神宮寺とすれ違った。


「おう、いま帰りか?」

「うん、今日はバイオリンのレッスンがあるから」


 神宮寺はいつも通り、辺り一面想像の花畑で埋め尽くされてしまいそうなおっとりスマイルで、俺を異世界へと連れて行ってくれる。そこにはきっと争いや憎しみなんてない、老若男女手を取り合い、人種の壁をも越えて平和で幸せな毎日が……


 なんて勝手な想像をしていると、


「その……梨子の事、よろしくね」


 彼女の言葉で俺は再び現実に引き戻された。


 よろしく……?

 そっか、福田から話を聞いたのか……


「……ああ」


 少し間を置いて、俺は神宮寺に確かに返事をした。

 安請け合いをした訳じゃない。もう一度自分でも覚悟を新たにしたもりだった。


 ********


「あれ……ボン?」


 8組の教室に戻ると、がらんどうの部屋にただ一人、よく見慣れた後姿だけが異質な点として取り残されていた。

 掃除が終わってから日誌を書き終え、職員室まで持って行ったのだから、本来ならばもう教室に生徒が残っているような時間では無いはずである。


「どうしたんだ? ボン、今日は生徒会行かなくていいのか?」


 その背中に歩み寄りながら呼びかけるも、何故か返事は無い。


 ……聞こえなかったのか?


 初めから変だとは思った。

 ボンが立っていたのが自分の席でなく、俺と絵里の席のそばだったという事にもまた妙な違和感を覚えた。


 こいつ……こんなところで何してんだ?


「おい、ボン」


 手の触れる距離まで近づき、もう一度声をかける。そしてどうしたのかと思ってその顔を覗き込むと、


「ボン……?」


 そこにはいつも目にする事は無いボンの表情があった。横一文字にきつく結ばれた口元が、その尋常でない何かを匂わせていた。


「名倉君、ちょっといいですか?」


 そこでボンはようやく口を開く。


 ……やっぱ俺の事気づいてたんじゃないか。


「あ、ああ。なんだ?」


 言葉少ななボンの無言の圧力に少し気圧されながらも、俺はとりあえず自分の席に着き、立ったままのボンに前の絵里の席を勧めるが、首を振るだけだった。


「見て欲しいものがあります」


 そう言うと、ボンは右手に握りしめられていた、くしゃくしゃの紙クズのようなものを俺の机の上に載せた。


「なんだこれ? ……ゴミか?」


 ……ったく、何の冗談だよ。


 俺が呆れてボンの顔を見上げようとしたその時、


「名倉君にはこれがただのゴミに見えるんですか!?」


 突然ボンは大声を張り上げた。

 向かいの実習棟の廊下から聞こえる吹奏楽部の練習の音をかき消しても尚、それは余りある音量だった。


 うおっ……


 正直ビビった。初めて体験したボンの迫力に、不覚にも俺はすっかり肝を冷やしてしまった。


「よく見てください」


 そう言われて、俺は素直にもう一度机の上の紙に目をやる。


 ノートやプリント類のように完全に丸まってはいないところを見ると、もう少し硬質の紙……ああこのサイズ、写真だな。


 とりあえず被写体がはっきり見えるように、シワを伸ばそうと写真に手をつけた瞬間、


「これは……」


 俺はその正体を知ってしまった。


「後ろのゴミ箱の中に捨てられていました。今日僕は教室の掃除当番に当たっていて、ゴミをまとめている時に偶然見つけたんです」


 それは絵里の写真だった。

 正確には俺と絵里の写った写真。

 絵里の誕生日、スタッフの悪ふざけで俺までタキシードを着せられ、ウエディングドレスに身を包んだ絵里の横に並ばされたときの写真だ。


「なんでこんな写真が……」


 状況が飲み込めない俺に、ボンは畳み掛けるように言葉を重ねてきた。


「名倉君……貴方、来栖さんに何をしました?」


 抑揚の一切ないボンの言葉。人がこんな風に話をする時の感情は……そう、怒りだ。


「何をって……」

「じゃあ何を言ったんですか!?」


 ボンは俺の机を叩きつける。


「……これは間違い無く来栖さんの持ち物です」


 ボンは気持ちを落ち着けようと必死だった。ハアハアと肩で大きく息をする。


「どうしてそれを……?」


 俺は机の上の写真のシワを丁寧に伸ばす。しかしいくら頑張ったところでそれは元通りにはならない。シワで歪められた二人の笑みは、見ていてとても痛々しかった。


「来栖さんはその写真を手帳の最後のページに挟み込み、いつも肌身離さず持ち歩いていました。たまたま来栖さんが僕に気づかず手帳を広げた時に、僕はそれを見てしまったのです」

「……」


 絵里の奴、そんなに大切にしてくれてたのか……


 誕生日の日の事を思い出した。

 純白のドレスに身を包んだ彼女は、16歳の誕生日を迎えたことを凄く喜んで、確かこんな事を言ったんだ。


『このまま結婚するか?』


 もちろん冗談だったとは思う。だけどそんな冗談を言ってもいいと思えるほど、絵里はあの一瞬に幸福を感じていたのだ。


「慌てて目を逸らしましたが、来栖さんには気づかれてしまいました。僕がその写真の存在を知ってしまった事を。僕は今度こそ本当に殺されてしまうんじゃないかと思って身構えたのですが、それはただの杞憂でした。来栖さんは僕に笑いかけましたよ。『言うなよ。あいつに言ったら殺す』そう言って……」


 なんてこった……


 全身の血が引いていく。顔が青ざめ、頭の中が真っ白になる。


 嘘だろ……おい……


 寒いわけでも無いのに、指先が自分でも抑え切れないくらいに震え出し、それでも俺は狂ったようにシワを伸ばし続けた。

その写真が元に戻れば、それで自分の罪も消えるかのように錯乱して。


 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……


 しかし一向にシワは無くならない。写真の中の絵里はどれだけ手を加えたって、ちっとも元のようには笑ってくれない。


「クソッ……!」


 苦しくなって、耐え切れなくなって、俺は写真から目を背けた。


 俺は何のうのうと笑ってんだよ……!


 何も知らないで、何も考えないで、ただヘラヘラと絵里の隣に収まっているこの間抜け面を、俺は全力でぶっ飛ばしてやりたかった。そのくらいやり切れなかった。


 気づいた時にはもう全て遅過ぎた。何もかも手遅れだった。いくらでも食い止められるチャンスはあったのに、結局俺は何一つ掴まる物を見つけられないまま最悪の結末へと転がり落ちた。

 そして福田に受けた忠告の本当の意味を、ようやく理解した。


『悲しむ人はもっと少なくて済んだのに……』


 きっと福田はこの展開もわかってたんだ。俺の無神経さ故に絵里を傷つけてしまう事も全部わかっていて、だからあいつはあんな事を言ったんだ。


 俺は……最悪だ……


「もちろん名倉君も知っての通り、僕は今日までその言いつけを守りました。それが来栖さんのためになるなら……と。そんな自分の想いに気づいていないと知っていても、名倉君と一緒にいる時の来栖さんは本当に楽しそうでした。これなら名倉君は何も知らなくても良いのかもしれない。来栖さんはきっとこれ以上の事は何も望んでいない。ただ名倉君の隣にいれさえすれば、それだけでもう満足なのかもしれない。そんな思いで僕は今日まで貴方達を側で見てきました」


 ボンは力なく笑う。

 俺はそんなボンからも目を逸らさずにはいられなかった。


「だけどこのボロボロの写真を見て、まだ黙っていることなんて僕には出来ないっ……! 来栖さんにこの写真を手放させるような思いをさせた名倉君を、僕は許せない! 名倉君なら来栖さんを笑顔に出来るから……って、そう思って僕は耐えてきたのに……!」


 ボンは苦しそうに顔を歪める。そんなボンの最後の言葉が俺の頭に引っかかった。


 耐える……?


 そしてここにもう一つの想いがあった事に気づく。


「お前、まさか……」


 間違いない。ボンは絵里に恋をしている。

 絵里の想いに俺が気づかなかったように、また俺の知らないところでボンはずっと絵里の事を見てたのだ。ベクトルの違う絵里の気持ちに気づきながらも……

 そしてボンは俺達を見守った。絵里のためを思って。絵里に笑顔でいて欲しいから。そんな理由で。


 しかし俺はそこでふと違和感を覚えた。


 ……そうだ。例え絵里が好きなのが他の男だったとして、絵里の幸せを思うからといって、それでお前は何もせずただ見守るだけで良かったのか? お前はそれで報われるのか?


「だけどそれじゃお前の気持ちは……」

「僕じゃダメなんです!!」


 俺の言葉を遮るように言い放ったボンは、目にうっすらと涙を浮かべていた。


「僕じゃ来栖さんをあんな表情にさせてあげられない……それが出来るのは名倉君だけなんです。来栖さんがあんな顔で笑うのは名倉君の前だけなんです。……もちろん僕も努力しなかったわけではありません。覚えていますか? GWの旅行の時です。夕食のカレーを食べ過ぎた来栖さんの散歩に、名倉君の代わりに僕がついていったことがありました」


 ……そうだそんな事があった。

 昼の神宮寺の弁当に引き続き、凝りもせず絵里は男子顔負けの食い意地を発揮し、カレーの鍋を空にしてしまった。そしてそんな絵里の消化促進ウォーキングに夜道は危ないからとついて行こうとした俺を、なぜかボンが引き止めたのだった。

 その時俺はすっかり疲れ切っていたから、たいして深く考えもせず、ボンにその護衛役を譲ったんだっけ。


「あの旅行中、僕はなんとかして来栖さんと二人きりになれないか……実はそんな事ばかり考えていました。だから些細な事と思われるかもしれませんが、あそこで自分が来栖さんについて行くと名乗り出たのは、僕なりにはかなり思い切った決断をしたのです」


 確かに。

 ボンの性格上、誰かの意思を遮ってまで自分の我を通そうとすることはあまり考えられない。

 あの場面では俺がすでに絵里の散歩に付き合う姿勢を見せていたわけだから、ボンとしては普段の自分からは全く真逆とも思える行動を取った事になる。


「……ですが結果は惨敗でした。来栖さん、僕といるのに名倉君の話ばかりするんですよ。『あの馬鹿は昔から馬鹿だった』とか言って、お二人の中学校や小学校、もっと幼い頃の話まで延々と聞かされました。……本当に楽しそうな顔をして語るんです、来栖さん。僕はその時悟りました。ああ、もう名倉君には絶対敵わないな……って」


 意外だった。

 絵里が他人にそんな長々と話をして聞かせるというのも、昔を懐かしんだりするということも。

 ……そして俺との思い出をちゃんと覚えていてくれているということが、素直に何よりも嬉しかった。だから余計に心を(えぐ)られた。


「来栖さんもひどいんですよ? 確かに僕はチビで、気弱で、かっこよくもないし、面白くもありません。だけど僕だって男です。好きな女性の一人くらいいますよ。それなのに来栖さんは全く僕を男として意識していませんでした。こっちは好きな人とやっと二人きりになれた、どんな話をしよう、ってずっとソワソワしていたっていうのに……。最後に来栖さん何て言ったと思います? 『もしお前にも好きな女が出来たら、その時は私が話を聞いてやる』ですって。笑っちゃいますよね?」


 そんなボンの話に俺もつられて笑った。


 ……絵里、お前も十分『鈍感』だよ。


「名倉君。貴方が来栖さんに何を言ったか、そしてこれからどうするつもりなのかは僕は何も聞きません。ただこれだけは知っておいて欲しかったんです。名倉君、来栖さんは貴方の事を愛しています」


 傾きかけた太陽の優しいオレンジがボンを照らす。

 こんな時なのにボンは凄く良い表情をしていた。眩しいくらい、晴々としていた。


「ありがとな……ボン。ちょっと行ってくるわ!」

「はい」


 そして俺は駆け出した。

 絵里の元へ。

 絵里の気持ちを、ボンの気持ちを、全部知った上で、伝えなくちゃならない事があるから。


 俺はまだ絵里に何も言ってない……!


 知っている。

 こういう時絵里はどこへ行くのか。

 昔から何か嫌なことがあったとき、決まって彼女はそこにいた。

 親が離婚したとき、その事で近所の子供に嫌味を言われたとき、担任に子供扱いされたとき……


 いつでも絵里はそこにいた。

 そして、俺が来るのを待っていた。

 俺が来て、それから二人で一緒に泣いた。

 きっと、今日も絵里はそこで俺を待ってる。


 校舎から飛び出すと、外は既にセピア一色の世界だった。

 まるで沈みゆく太陽を追いかけるようにして、俺は赤い空の下を駆ける。

 駆けながら、ふと昔のことを思い出した。


『茜色の空にカラスの声が聞こえたら、今日はもう帰る時間だよ』


 俺達は外で遊ぶ時、よくそんな風に親に言い聞かせられながら育ってきた。


 結局、いつまで経っても子供のままなんだな……


 息が苦しい。喉は張り付きそうなほど乾燥し、口内からは鉄の味がする。

 全力で走り続けるのはとっくに限界を越えていて、それでも可笑しくて俺は思わず鼻から息が漏れた。

 ぐっとこらえ、また前を見て走る。

 今は一刻も早く。ただ真っ直ぐに、彼女の待つ場所へ。


 帰ろう、絵里。

 俺達も、昔の俺達に帰るんだ! 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ