第35話 沢北の想い 欺瞞×諦観
第35話 沢北の想い 欺瞞×諦観
「お前……なんで自分が今日ここに連れて来られたかわかってるか?」
「そんなに怖い顔しないでよ」
沢北は薄く笑って、
「……と言いたいところだけど、大体想像はついてる。柊さんの事だね?」
あっさりとその笑みを掻き消した。
どうやら沢北の方も話をはぐらかすつもりはないらしい。
梨子に電話で事情を聞いた翌日、一晩置いたところで未だ収まる事の無い怒りの感情を表に出さないよう必死にセーブしながら、俺は午前の授業をじっと耐え抜いた。そして二時間目が終わると同時に教室を飛び出した俺は、5組の教室までわざわざ出向き、そこで沢北を発見するや否や、有無を言わさず体育館裏へと連行してきたのだ。
授業が終わった直後で先生もまだ教壇の上で生徒からの質問を受けている状況だというのに、教室のどこにも梨子の姿は見当たらなかった。もしかしたら昨日のショックで学校に出てこれなかったのかもしれない。そう考えると俺は余計に腹が立った。
そして俺は今、こうして沢北と向かい合っている。正直奴が憎い。
爪が掌を抉るくらいに強く握り締められたこの拳は、気を制していなければ今にも目の前の男に殴りかかってしまいそうだ。
「ああ……単刀直入に聞く。どうして柊梨子を振った?」
感情を押し殺そうとするあまり、声が震えてしまう。
どうして梨子の事で俺がこうもムキになるのか、理由を聞かれたところで理論的な回答を出来る自信は全く無い。だけどそんな事情なんてこの際どうでもよかった。
許せない……!
ただ計り知れない憤怒と憎悪にだけ突き動かされて、俺はここに立っていた。
「もう柊さんのことを好きじゃなくなったん……」
「ふざけるな!」
ついに気持ちの箍が外れ、怒りに任せて体育館の壁を殴りつけた。コンクリートで固められた外壁は人間一人の力くらいではビクともせず、跳ね返され悲鳴を上げたのは俺の手の方だった。
痺れるような鈍痛が骨を襲う。しかしそのくらいの痛みですら、今の自分を御するにはちょうど良いのかもしれない。
「そんなはずはない! お前が梨子を嫌いになる理由は無いし、梨子にもお前に嫌われる理由なんて無い!」
「……たいした自信だね。君はどうしてそこまで柊さんの事を信じられるのか……本当に不思議だよ」
どうして?
俺はずっと側でアイツを見てきた。梨子の歩みを知っている。その裏にあった努力も知っている。俺が信じてやらなくて、他に誰が梨子を信じてやれる?
沢北は肩で息をする俺の顔をそのまま無表情に眺めていたのだが、しばらくすると何かを諦めたのか、ため息を一つ吐いて、小さく首を左右に振った。
「……やっぱり君は騙されてくれないか。どうやら僕は冗談だけじゃなく、嘘をつくのも下手なようだね」
「どういう意味だ……?」
急に迷いを見せた沢北の瞳に、少し虚を突かれた思いで声がうわずる。
「その通りだよ、名倉君。キミの推理は正しい。僕は相変わらず柊さんの事が好きだ。むしろその気持ちは以前よりずっと強くなってると言っていい」
「だったらどうして……!」
俺は沢北を睨めつける。沢北の言い分は、奴に珍しく論理が破綻している。全く筋が通っていない。故に理解出来ない。
「……仕方ないんだ」
そして沢北は哀しい顔をした。
諦念にも似た奴のそんな表情を見て、俺は急速に勢いが削がれていくのを感じた。
どういうことだ……?
「名倉君、僕は終業式を終えたらアメリカへ行くことになった」
「な……アメリカ?」
「父親の仕事の関係なんだ。知らないとは思うけど僕は父子家庭でね、母親がいないから僕は父さんについていくしかない。離婚の事もあって祖父母とも折り合いが悪いんだ。兄は母方の方に引き取られているし、父が日本を去ったら僕にはもうこの国に居場所が無いんだよ」
マジかよ……
熱が一気に冷めていく。興奮がそのまま戸惑いに変わる。肩透かしをくらったような気分だった。
知らなかった、何も。沢北がそんな差し迫った状況にあることはもちろん、一筋縄では行かない複雑な家庭事情を抱えていた事も。俺は何も知らず、ただ目に見える事だけに反応して、馬鹿みたいに沢北に腹を立てていたのだ。この様子だときっと本当の事は梨子も何も知らされていないのだろう。
「……けど単身赴任っていったってずっと向こうにいるわけじゃないんだろ?」
それでも俺は突っかかる。いくら状況が困難だからといって、それが逃げていい理由にはならない。辛くても、苦しくても、多少我慢をすればもう少し違う選択肢だって見えてくるはずだ。
「そうだね……正確なところはわからない。早ければ一年もしたら戻って来られるかもしれない」
「だったら……!」
「名倉君」
俺の言葉を沢北が封じた。穏やかで、だけど芯の強い、諭すような口調で。
「君は好きな人に一年待てって言えるかい?」
「なっ……!」
それは思いもしない質問だった。
「一年だったらまだいい。だけど、それが長引いて二年にも三年にもなるかもしれない。その時はもう彼女だって高校を卒業してしまっている。君は好きな人の高校生活を、そんな風に幻影に縛り付けたまま終わらせてしまうことが出来るかい?」
「…………」
……そういう事か。
俺は今まで梨子の視点から物を言うばかりで、一度も沢北の立場で状況を考えようとした事はなかった。
良心の呵責だ。沢北もまた苛まれている。
何も言えなかった。きっと沢北の言うことは正しい。生まれてこの方彼女どころか、女を好きになった事すらない俺でも、本当に相手を想うならその行為がどれだけの罪となって自分の心にのしかかってくるか、それくらい考えなくともわかる。
「僕は柊さんにそんな身勝手な事は頼めない」
わかる。わかるんだ。理屈では沢北の言い分が一番理にかなってる事はわかる。わかってるつもりだ。
だけど……!
どうしようも無い事はわかっていて、例え誰であっても状況を打開出来ない事は目に見えていて、それでも何かにすがりたくなる。そんな理不尽な世界に異を唱えたくなる。力無き者の、無駄なあがきだ。戯言と知りながら、俺はそれを口にするしか他無かった。
そうでもしなければ一体どこにぶつければいい? 誰が受け止めてくれる? この想いは。俺と、梨子と、沢北の、このやり切れない想いは。
「だからってどうして梨子に嘘をついた!?」
ただの八つ当たりだった。沢北が悪くない事なんてとうに分かっていて、それでも子供みたいにグズってみせただけのこと。
「もう好きじゃなくなったとか、そんなひどい事を言った!? あいつは……あいつはお前の事をどれだけ……!」
「わかってる!」
俺はその時初めて沢北が声を荒げるのを聞いた気がした。
「わかってるよ……全部。僕だって馬鹿じゃない。柊さんがどれだけ僕の事を思ってくれているか、それくらいは理解してるつもりだ。そして僕もまたどれだけ柊さんの事を好きか、痛いくらいにわかる。わかりすぎて……痛い」
「沢北……」
気づけば握り締めた拳を震わせているのは俺だけじゃなかった。
上手く笑顔を作ることも出来ず、その顔を苦痛に歪め、苛立ちの矛先として踏みにじられた足元の土はわずかだが確かに抉られていた。沢北が人前でここまで感情を剥き出しにするのも初めての事だった。
「僕も本当はあんなこと言いたくなかった。柊さんの悲しむ顔なんて見たくない。彼女にはずっと笑っていて欲しい。僕は彼女の太陽みたいな笑顔が大好きだ」
「……」
「だけど真実をそのまま告げたらどうなる? きっと彼女は僕をいつまでも待ち続ける。僕はそれに耐えられない。僕のせいで彼女の人生を狂わしたくない」
……ああ、わかる。お前の気持ちもわかるよ。理解出来る。でもやっぱり俺はお前より、梨子の方の味方だからさ……!
「梨子はそれを望んでいるかもしれない! お前を待ち続ける事が狂った人生なんかじゃないと思うかも知れない!」
そうだ、梨子はそれを幸せだとも思えるような人間だ。あいつの沢北を想う気持ちはそれくらいに強くて、真っ直ぐで……
「駄目なんだ」
しかし突然沢北は短く言い切った。
「それじゃ、駄目なんだ」
そして今度はもっと丸みのある声で、同じ言葉が繰り返される。
「は……?」
急に態度を変えた沢北についていけず、取り残された俺はただ言葉を失う。
「名倉君、僕は気づいてしまったんだよ」
「……何を言ってる?」
尚も続けられる沢北の不可解な発言。俺はその真意を探ろうとした。
「柊さんは確かに僕を好きだと言ってくれる。だけど、それはあくまで柊梨子という人格がそう勝手に思い込んでるだけなんだ。彼女は自分の内にある本当の気持ちに気づいていない」
梨子の……本当の気持ち……?
「良い事を教えてあげるよ名倉君。旅立つ僕からの餞別だと思って聞いてくれ」
沢北は側を通り過ぎて校舎へと戻ろうとし、そのすれ違いざまに俺の肩に手を置いた。
「柊さんの無意識は、いつも君を探してる」
「!!」
俺の身に激震が走った。脳髄を直接揺さぶられたかのような衝撃を受け、俺は目を見開き、返す言葉も見つからなかった。
梨子が本当に好きなのは俺だと……?
想像だにしなかった事実。
梨子の好きな相手は沢北で、俺はそれを助ける役。というのがそもそもの前提にあったから、そこを疑った試しなどただの一度も無かった。
いや、まだそれはあくまで沢北の勝手な推測で、真実とは違うかもしれない。だが、もし仮にそうだったとして……
「もう僕の季節は終わったよ。これからは君の時代だ、夏樹君」
「ま、待て! 沢北!」
沢北はそれっきり足を止める事は無かった。ただ一人その背中を呆然と見つめる俺を残して。
……駄目なんだ。
お前は分かってない。
俺じゃ駄目なんだ。
俺じゃ梨子をどうしてやることも出来ない。
お前じゃないと駄目なんだ。
それはお前にしか出来ない事なんだ。
だって俺は……
午後の授業開始の予鈴が鳴る。しかし俺はその場に影を縫い付けられてしまったかのように、一歩たりとも足を動かすことができなかった。