第34話 ハート・ブロウクン
第34話 ハート・ブロウクン
「な、なにそれ……何かの冗談だよね?」
「前にも話したとは思うけど、僕は冗談を言うのは苦手なんだ」
沢北君の言う大事な話というのを聞かされて、私はただ呆然とするばかりだった。
「本気……なの?」
「うん、ごめん。僕はもう柊さんとは付き合えない」
簡単にまとめるとそういう事だ。私が突き付けられた現実、要するにそれは別れ話だった。
理由は単純、沢北君が私の事を好きで無くなったからだという。
「……なんで? どうしてなの……?」
ただ、当然私はそれを素直に信じる気にはなれなかった。急にそんな話を聞かされて、「はい、そうですか」とすんなり受け入れられる方がどうかしている。
何故彼が突然そんな事を言い出したのか、私には皆目見当もつかなかった。
「最近やっと距離を縮められてきたって、私凄く嬉しかったんだよ……? 毎日一緒にお弁当食べて……つい昨日だって水族館行ったところじゃん!?」
「……」
しかし沢北君は私の悲痛な叫びを聞いても尚、何も答えようとはしない。
顔色一つ変える事の無いまま、硬く引き結ばれた口元からはどんな感情も読み取る事は出来なかった。
どうしたの……どうしちゃったの沢北君……?
一度気を抜いてしまえば、膝から一気に崩れ落ちてしまいそうな程の絶望。虚脱感。
壁についた細い手で頼りなく体を支え、もう立っている事すらままならない状況にありながら、私は必死に言葉を吐き続けた。
「沢北君だって笑ってたよね? あれは嘘だったの? 本当は私と一緒にいて全然楽しく無かったの? ……そりゃ私の話は面白くないかもしれない……上手くないかもしれない……だけど私頑張ったんだよ! 沢北君といつかまともに会話出来る日が来ますように……ってずっとそれを夢見て生きてきたんだよ!? せっかく少しずつ話せるようになって、私は沢北君とおしゃべりできる事がこんなにも楽しくて嬉しいのに、それももう終わりなの……? 私、まだまだ話し足りないよ!? 全然沢北君と話せてない! もっともっと話したい事たくさんある! もっとおしゃべりしようよ……ねえ……沢北君……」
どれだけ惨めでもいい。醜くてもいい。天の神様に笑われようが、いるかどうかわからない守護霊様に馬鹿にされようが、そんな事はもうどうだっていい。
私は思いの丈を吐き出した。遠慮なんかしない、あるがままを全てぶちまけた。後になって悔やむのは嫌だから。また一人で泣くのだけはしたくない。
ここであっさり引き下がって、物分かりの良い子を演じて、それでめでたしめでたし?
違う。そんなの絶対に違う。私はそんなちっぽけな思いで沢北君に告白したの? 変わろうと決意したの? そうじゃない! 私は……私は……!
「……ごめん」
私から顔を背けたまま沢北君はポツリ、と。
謝るな謝るな謝るな謝るな謝るな謝るな!!
私はそんな言葉が聞きたいんじゃない! 本当は何を思ってるの? 沢北君の本当の気持ちを聞かせてよっ!
だって……だって、私が見た沢北君の笑顔は、あの時のキスは、絶対に嘘じゃなかったって信じてるから! 信じられるから!
「……ねえ、私何が悪かった? 何でもいいから、どんなことでも沢北君の気に入らないところがあったなら教えてよ。魅力が無いからかな? もっとダイエット頑張るし、お洒落もして、お化粧も勉強する! 私もっと綺麗になるから! 料理だってお母さんから教わって、もっと美味しいお弁当を沢北君に食べさせてあげるよ? ね、だから……」
きっと沢北君は悪い夢でも見てるんだ。これも何かの間違い。私が彼の目を醒ましてあげなきゃ……!
「……ごめん」
しかし彼は頑なだった。どれだけ言葉を送ろうとも返ってくる答えはいつも一緒。馬鹿の一つ覚えみたいに同じ言葉を繰り返すだけ。
ちっとも受け止めようとしない、何も語ろうとしない。
……もう私の言葉は彼に届かないのだろうか?
「ごめんじゃなにもわからないよっ!!!!」
結局根負けしたのは私。お弁当箱を彼の手からひったくると、乱暴に蓋を閉め、私はその場から駆け出した。
走り去る私の背中に、しかし彼は何も声をかけてこなかった。呼び止める事もしなかった。
だから私も一度も後ろを振り向かなかった。
こうして私は振られた。
柊梨子のあまりに短い恋は、やり切れない思いばかりを残して、無情にも唐突に幕が下ろされた。
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「……ん?」
五時間目の古典の授業。
一学期も終わる頃になってようやく気づき始めた自分の特異体質。
俺はどうも現代仮名遣いだとか、文語調だとか、その手の古文独特の言い回しが催眠術に聞こえてしまうタイプの人間らしい。いや、そういうタイプの人間が他にもいるかどうかは俺の与り知らぬところだが、とにかくいくら気を張っていようとも、術を使われてしまったのならそれに敵う訳が無い。
今日もまんまと国語教諭の術中にはまり、つい望まざるうたた寝をしてしまっていた俺は(あくまで勉強の遅れを取り戻すのは夏休みからである)、前の席の絵里に頬をシャーペンの先で突かれるという、いささか鋭過ぎる痛覚によって現世へと舞い戻ってきた。
(……どうした?)
まだ重いまぶたをこすりながら、俺は目で絵里に問う。
もちろん彼女はプツリと穴が空きそうなほど痛々しい痕が残ってしまった俺の頬の事に関しては全く悪びれる様子も無く、ただ黙ってそのシャーペンの先を窓の方へと向けた。曖昧とした意識の中で、何だかよくわからないまま、とりあえず俺は絵里に従い外を眺めた。
この8組の教室からだと昇降口から正門へと続く舗道が見渡せる。まだ桜の綺麗だった入学当初は、良くこうして授業中に外の桜並木を盗み見たものだ。
で、絵里の言いたかったのは……アレか?
視線の先には校舎から飛び出し、外へ向かって駆けて行く一人の少女の姿があった。本人は必死になって走っているようだが、フォームが汚い、息切れしている、遅い、の三拍子で残念ながら全く様になっていない。
あれはアスリートの走りじゃないな……
なんて頬杖を突きながらぼんやりとその姿を眺めていたのも一、二秒、俺は唐突に意識を覚醒した。
「梨子……!?」
見紛いようもない。あの後姿はどう見ても俺の知る柊梨子だった。
どうしたってんだ……まだ授業中だぞ?
しばらくはその背中を目で追っていたのだが、校門を出て角を曲がったところで梨子の姿は建物の影に隠れて完全に見えなくなってしまった。
何かあったのか……?
ふと顔を戻すと、絵里はもう何事も無かったかのように前を向いていて、授業を聞いている……フリをしていた。
開かれたノートの見開きにはまだ一文字も書き込まれていなかったし、俺の注意を引くために使われたシャーペンも、今はもう机の上に投げ出されている。つまりこれからもノートを取るつもりが無いという意思表示なのだろう。
……こいつも本腰を入れるのは夏休みからのつもりか。
妙な親近感を覚え、少し嬉しくなったのも事実。
早く終わらないかな……
五分置きに時計を確認しては、がっかりして肩を落とす。そんな事を繰り返しながら、俺は無為に午後の日程を消化した。
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「さ、行くか!」
遂に放課を迎えた。これほど六限終了のチャイムに至上の解放感を喚起された例も過去にない。楽しみを後に控えると、人の感慨とはこうも変わるものなのか。
「よし、歌うぞ!」
いつにも増して絵里も乗り気である。
さっきの梨子の異変が気になってはいたが、募ってしまった有志の手前、今更取りやめにするわけにもいかない。とりあえずカラオケは予定通り決行することにした。
「野郎共行くぞっ!」
「……私は野郎じゃない」
そういうわけで俺、来栖教主、並びにその信者達は、帰り道の途中にあるカラオケボックスに立ち寄り、フリードリンク付きのコースでたっぷり三時間激唱。テストの鬱憤から、日々の軋轢、世界情勢への不安に、恵まれない境遇など、とにかく思いつくだけのありとあらゆるフラストレーションを一気にぶちまけたのだった。
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「あぁ〜喉が……」
男子顔負けのハイゲインで突っ走り、完全に声の枯れてしまった絵里。
「ふう、やっぱスッキリするねー!」
加西はまだまだ元気そうで、下手すりゃもう一軒寄ろうとか言い出しそうな勢いだ。その時は何かと理由をつけて丁重にお断りしよう。皆が皆、お前みたいな疲れ知らずの超人に生まれついた訳じゃない。
「僕もちょっとはしゃぎ過ぎてしまいました」
そして意外にもなかなかの美声を発揮してくれたのはボン。どうやら父親だか母親だかが音大で声楽を専攻していたらしく、地声の高さも相俟って、かなり難しそうな高音の曲も見事に歌いこなしていた。
「ふう、良い息抜きになったな」
何はともあれ俺はすっかり満足だった。加西にのせられてバカみたいに大騒ぎしていたら、いつのまにか散々だったテストの結果や、疎遠になりがちだった梨子との関係があまり気にならなくなっていた。人の気分を変えるのなんて、こんなに造作もない事だったのか。
「じゃあな」「また明日」そんなやり取りを交わして、俺達はそれぞれの帰路へと着いた。夜も遅くなっていたので、ちゃんと絵里を家まで送り届けてから自宅へと戻る。あいつの身に心配は無いと思うが、そういうところ俺は紳士なのだ。
夕食を済ませて部屋へ戻った頃には、もう時計の針は10時を指そうとしていた。
「さてと……どうしたもんか」
今から明日の授業の予習に手をつけるかどうか……なんて話ではない。そんなもの、カラオケに行くと決まった時点でとうに諦めている。
俺は携帯を握りしめたまま、判断を決めかねていた。
梨子の事が気になっていた。一体何があったのか確かめたいと思う反面、つい数時間前に梨子と距離を置く決心がついたばかりだったので、どうも決まりが悪かった。
しかし……
「だあぁー! もう!」
これじゃあまりにもどかしくて、逆に梨子の事を意識から遠ざけるのが難しい。俺は逡巡するも、結局彼女の番号を呼び出していた。
こういう馴れ合いも今日が最後だからな……!
そう意気込んでかけた電話だったのだが、
プルルルル、プルルルル、プルルルル……
繋がらない。
……近くに携帯置いてないのか?
七コール目も不発に終わったところで俺は発信を取り消し、諦めて一旦風呂に入る事にした。
「秋、もう上がったか?」
部屋を出て、廊下からドア越しに妹へと声をかける。
「うん〜秋は部活でお疲れなのでもう寝まーす。おやすみ〜」
「おう、おやすみ」
夜10時に就寝なんて、最近の中学生にしてはなかなか健全で好感の持てる妹ではないか。
ウンウンと俺は一人満足気に頷き、少し誇らしい気にもなって、ようやく風呂へと向かう。
これだけは誤解しないで欲しいのだが、断じて俺はシスコンでは無い。
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「着信……無しか」
すぐにでも何かしらの連絡があるだろう、と考えていた俺の予想は大きく外れた。
風呂上がりに湯冷ましがてら少しリビングでテレビを眺めて部屋へと戻ってきた俺は、それでも携帯に何の履歴も残されていなかった事に軽くショックを受けた。
おかしい……
いつもなら15分もすれば電話の一本やメールの一通くらい返ってきているものである。
昼間学校で見た時の様子といい、今のこの状況といい、梨子の身になんらかの問題が起こっている事はまず間違いなかった。何となく嫌な胸騒ぎがして、このまま放っておくことも出来ず、俺は再度梨子に電話をかける。
プルルル……プルルル……プルルル……
長い呼び出し音が続く。
何か電話に出れない事情でもあるのか……? まさか事件に巻き込まれたとか……!?
プルルル……プルルル……
時間の経過に伴い、言いようの無い不安が押し寄せてくる。そして、
プルルル……プルルッ、
繋がった!?
「もしもし、梨子か!?」
『…………』
しかし、その言葉に返事はない。無音の沈黙状態が続く。
「梨子、どうした!? 何があった!?」
『……クン……名倉……』
心配になった俺が更に大きな声で呼びかけると、ようやく電話口から人の声らしきものが聞こえてきた。
よかった……とにかく無事なんだな。
ホッと一息つくも、梨子の声はあまりに小さく、ほとんど聞き取る事が出来ない。
「なんだって? 良く聞こえない。もう少し大きな声で喋ってくれ」
『……名倉クン!!!!』
突如、その小さな電子機器から発せられたとは思えないような壮大な爆音が鼓膜を襲う。
「うわっ! バカ、今度は声張り過ぎだ!」
キイーン……
後遺症の耳鳴りで頭がクラクラする。
……ったく何でもコイツは極端なんだよ。
『名倉くん……うっ……ひっく……』
「……泣いてるのか?」
そこでやっと俺は梨子の声に嗚咽が混じっていることに気づいた。やはり何事かあったようだ。
『うううっ……名倉くん……』
そんなに俺の名前を連呼されてもなあ……
「……おい、どうしたんだ?」
慰めるつもりで、出来るだけ優しく語りかけたつもりだった。とりあえず話を聞いてやろうと……
しかし、
『ううっ……フラれちゃったよぉ……』
「は?」
そんな余裕は一瞬にして消し飛んだ。
「フラれたって……さ、沢北にか?」
唖然として声がひっくり返りそうになる。
『うん……っく……』
「……本気で言ってるのか?」
『嘘で泣くもんか! ……うう……』
何てこった……
梨子の言葉は、俺もまた同じように混乱の渦へと引きずり込もうとしていた。
信じられなかった。
沢北が梨子を振った?
「……なんでだ?」
『……わかんない……』
「わかんないって、お前……」
『わかんないんだよ! ……だって聞いても沢北君、何も教えてくれないんだもん……!』
ヒステリックに泣き叫び、苦しそうに、内蔵ごと絞り出すような声で呻きを上げる梨子。
「……そっか……悪い」
俺は責めてしまった事を詫びる。
……どういうつもりだ沢北?
なぜお前は柊梨子を振った?
「その……元気出せよ」
いくら考えても答えは見つからず、結局俺は梨子と同じ所に立っただけで、そこから先へ進む事が出来なかった。
助けてやる事も、頼られてやる事も出来ない今の俺には、だからそんな陳腐な慰めの言葉をかけてやるだけで精一杯だった。
『元気……出ないよ……』
「……」
こういう時俺はどうしたらいいのだろう。絵里が泣いたら俺はいつもどうしていただろう。
すぐにそれが思い浮かばない。梨子のために何もしてやれない自分の無力さが、今はとても歯痒かった。
そして梨子は言う。
『名倉君……私って魅力無いのかな?』
「そんなこと……!」
そんなこと……ない。
って言ってやりたかった、本当は。だけど俺はその言葉を途中で飲み込んでしまう。
どうしてだろう? 一番大事な時に、一番くだらないプライドなんかに邪魔されて、喉元まで出かかった言葉を、俺はやっぱり口にする事が出来なかった。
『私なんかじゃ沢北君の彼女になるのは無理だったのかな……』
段々と沈んで行く梨子の声を聞く内に、俺は無性に腹が立ってきた。
……そんなことない。
俺の知る限り柊梨子は十分努力をしてきたし、校内でも噂されるくらい綺麗な女性になった。重度の男性不信も、好きな相手に臆する事なく話しかけられる程にまで克服してみせたし、恋人との過ごし方だって、もう今では誰のアドバイスも必要としないくらいにまで成長している。
少しドジで強情なところはあるけれど、それが一体なんだっていうんだ。あいつほど好きな男の事を真剣に考えて、悩み抜いて、もがき苦しんで、そんな奴が他にどこにいる?
もしそれでも満足しないと抜かす馬鹿がこの世にいるのなら、俺はそいつを全力でぶっ飛ばしてやりたい。お前は一体梨子の何を見てるんだ。そう言ってこの手でぶん殴ってやりたい。
「違う……それは違う……!」
『……名倉君?』
梨子の想いはそんな簡単に踏みにじられていいもんじゃない!
「梨子、元気出せ」
『……だから出ないよ……』
「いいから出すんだ! 落ち込むな!」
つい語気が荒くなる。梨子に対して悪気は無いのだが、もはや自分ではこの感情をどうする事も出来ない。
『……わかった……ありがと』
そこまで聞いて俺はすぐに電話を切った。
許せなかった。
梨子にこんな言葉を言わせた沢北に、俺は全身の血が煮えたぎる程の憤りを感じていた。




