第33話 面影は…
第33話 面影は……
「それでね、トマトは果物だ! とか言うんだよ〜」
7月15日、水族館デートをした翌日の月曜日。
いつものように私達は独占状態の屋上で二人きりのランチタイムを過ごしていた。
このところ晴れ間が続いており日射しが強く感じられるが、こうして影に入ってさえいれば吹き抜ける風が心地良く、それだけでなんとも嬉しくなってしまう。先日、テレビの天気予報で本格的な梅雨明けが報じられ、遂にあのむさ苦しい季節から解放されるのかと思うと本当に胸が踊るような思いだった。
「いや、確かにそれくらい甘かったよ。下手なイチゴなんかより、ずっと甘みの強かったことは認める……だけどやっぱりトマトは野菜だよ! ほら、スイカだって野菜って言うし」
機嫌を良くした私は、知らず知らずの内に話に拍がついてしまい、さっきからずっと一人で喋りっぱなしだった。
本来の私はおしゃべりなのだろうか? このところ私の発言量は日に日に増加する一方で、今では挨拶すらまともに交わせなかった数週間前の自分が嘘だったかのような変貌ぶりである。そりゃもう自分でも驚いているくらいに。
「野菜独特の匂いってのもあるしね〜あ、別にトマトの事を悪く言ってるわけじゃないよ! だけどやっぱり野菜は野菜だよ」
で、さっきから一体何をそんなに力説しているかというと、昨日の夕食でサラダにつけたトマトのあまりの甘さに、母親が「まあ! こんなに甘いなんて、もうトマトは果物ね!」なんて発言をしたもんだから、今どういうわけかこのタイミングでそれに全力で異を唱えているところなのである。
もしここで納得のいく説明が思いついたら、帰ってお母さんにもう一度抗議しよう……!
なんとも平和な戦争である。
しかしまあ一方的に話続けるのも悪いと今更思い当たって、
「ね、沢北君もそう思わない?」
私は相槌を求めたのだが、
「…………」
彼は無言だった。
すぐ目の前は何の変哲も無いただのコンクリの壁だというのに、まばたきもせずじっとそっちばかりを見て。お箸を持つ手も弁当箱に添えられたまま動かない。
……聞こえなかったのかな?
「沢北君?」
私はもう一度彼に呼びかけてみた。すると、
「……ああゴメン、ちょっとぼうっとしてた」
ややあって返事をする沢北君。しかしその笑みはいつもより薄く、どこか頼りない印象を受ける。
……らしくない。
こんな風に言うと感じが悪いのだけど、普段通りの彼なら私の言葉にすぐ反応してくれるはず。ずっと私の事を気にかけていてくれて、どんなにつまらない話でも凄く満足そうにニコニコしながら聞いてくれる。彼はそういう事が出来る人だったし、そんな優しい彼が私は好きだった。
「どうしたの? 何か考え事?」
だから今日の沢北君の態度はやっぱりちょっと変だったし、心配にもなった。
「ん、少しね……」
歯切れの悪い返事と共に苦笑を浮かべると、彼はとうとう下を向いてしまう。なにか頭の中で整理したい事でもあるのだろうか? それっきり口を閉ざしてしまう。
あの沢北君をここまで悩ますような事って、一体何があったんだろう……
きっと余程の事に違いない。
とても気になった。しかし俯いた彼の頑なな表情を見ていると、今は何も話しかけてはいけない、なんとなくそんな気がして私は仕方なく後ろを振り返った。
背もたれにしていたフェンスから何気なく外を見やる。
空はどこまでも空色で、所々にティッシュペーパーを散らしたような白い雲。
一説では太陽は寿命が近づいていて、その内燃え尽きてしまうのではないかとも言われているが、今日の彼はそんな事微塵も感じさせないくらいありったけの光線を地上に降り注いでいた。
七夕祭りのあった神社の山手の方は木々が濃緑をたたえており、その自然の生命力に平伏すかのように裾野には住宅地と繁華街が広がっている。
この街はそんな街だ。
地上から数えて五階にあたる我が西高の屋上からは街の景色が一望出来る。幼稚園に上がる頃に引っ越して来て、それ以来ずっと慣れ親しんできた、決して都会とは言い難いこの街。
多少家の数が増えたり、ビルが高くなったりはしたけれど、それ以外は昔からほとんど変わらない。私の育った、故郷と言っていいほど馴染みの街。
私の家はあの辺り。そこからまだ少し西に行って、名倉君と多分来栖さんの家が少し土地の高くなったあそこらへん。そう言えば沢北君の家はどの辺りにあるのだろう? 自転車通学ということはここから肉眼でも見えるくらいの距離なのだろうか?
そんな事を考えながら段々と視線を近くの街並みに移していくと、ふと足元の正門が目に入った。
そういえばあの日だ、私が沢北君に出会ったのは。
入学式の朝、私はあの門の前で今とは逆に、そびえ立つ校舎の方を下から見上げていた。おっきいなあ……って。
そして不安と緊張で体を強張らせながら続く舗道を歩いて……
その道に沿って両脇にはずっと桜の木が植えられているのだが、綺麗なピンクを満開に咲かせていたのに気づけたのは翌日になってからだったっけ。
それを真っ直ぐに進んだ先が昇降口。
入学式の日から一週間はその横に大きな掲示板が設置され、クラス分けの紙が張り出されていた。あの日、私が着いた頃にはすでに掲示板の前は大勢の人で埋め尽くされていて、人混みをかき分けてそれに近づくだけでも大仕事。
そしてちょうどあの辺り……
そこで私は彼と出会った。自分の名前がどこにあるかわからず必死に探していたところを、彼が声をかけて教えてくれた。「柊さん、僕と同じ5組だよ」って。
彼の名前は沢北春。私は一目で彼に恋をした。
凄く昔のことのようにも思えるけれど、実はまだあの日からたった三ヶ月しか経ってない。だけどこの三ヶ月をあともう11回繰り返したら、それで高校生活は終わってしまうのかと考えると、案外あっという間な気がして少し怖くなる。
それくらいに濃い三ヶ月だった。
色んな人と知り合って、友達になって、色んな事をして、たくさん遊んで、笑って、泣いて、時にケンカもして……
みんなで作った素敵な思い出。
私と、沢北君と、未来と、穂奈美と、加西君と、来栖さんと、ボン君と、そして名倉君……
なぜだろう……いつもそうなんだ。
いつ、どこで、どんな事を考えても、最後に浮かんでくるのは絶対名倉君の顔だった。それは未来でも穂奈美でも沢北君でもない。不思議と、彼だった。
名倉君ってそんな特徴的な顔してたっけ……?
冗談混じりにすっとぼけてみる。
「あれ……?」
その時、ちょうど眺めていた昇降口の方から二人の男子生徒が飛び出して来た。一人は片手にパンを持っていて、もう一人がそれを奪おうと必死に追いかけ回している。
その追う方の彼の後姿に私はハッと胸を突かれた。
「名倉君……?」
思わず声に出してしまったものの、すぐにそれは間違いだった事を知る。ふと後ろを振り返った彼の顔は、名倉君とは全くの別人のものだった。
なあんだ……
呆れたような溜息を一つ吐く。背格好こそ似ていたから少し期待してしまった分の失望。
…………期待? 私は一体何を期待していたというのだろう?
「名倉君じゃないよ。最近彼はもっと髪を短くしてるからね」
いつのまにか沢北君が私の横に並んで、同じように下を見下ろしていた。声からもその横顔からも、彼はすっかりいつもの元気を取り戻したかのように見えた。
沢北君……もう気分は良くなったのだろうか?
「……そっか」
もう一度眼下の名倉君もどきに目を遣る。上履きのまま無邪気に友人と外を駆け回る彼は、それはそれでなかなかに健康的で魅力的な人物でもあった。
……って違う違う、そうじゃない。
「名倉君髪切ったんだ……」
ここしばらく校内で見かける事も無かったから、そんな彼の様子を私は知るはずもなかった。
「もしかして……最近名倉君に会ってない?」
「え……」
突然の沢北君の質問に私は言葉に詰まった。
……どういう意味?
なんと答えたらいいのだろう。確かに会ってない。会ってないんだけど、なんだろうこの違和感……
これじゃまるで以前は私が名倉君と頻繁に会っていたことを沢北君は知っているみたい……
「どうして?」
返事に困る私に、更に沢北君は質問を重ねてくる。詰め寄る彼の眼差しは真剣で、深刻そうで……
だけどなんで? なんで私は沢北君に責められてるの?
「いや、まあ……いろいろあって……」
とりあえず名倉君と会ってない事だけは認めて、その理由は適当に誤魔化そうとした。
……っていうか自分でもよくわかってないんだよ。どうして私は名倉君を避けているんだろう……
「……それで、いいの?」
突如彼の瞳が哀れみを帯びた悲しい目に変わる。
「へ?」
「柊さんは名倉君と会えなくていいの?」
「……」
答えられなかった。色んな理由で。
どうして沢北君がそんな事を訊くのか分からなかったし、でもそれ以上に私は自分がどうしたいのかがわからなかった。
私には沢北君がいるし、未来や穂奈美もいる。素敵な彼氏がいて、家族みたいに気の合う友達もいる。これ以上私は何を望むというの? どうして会えなくてもいいって彼の前で言えないんだろう……
キーンコーンカーンコーン……
その時ちょうど午後の授業開始の予鈴が鳴った。
「あ、チャイム鳴っちゃったね! 戻ろっか」
そう言って私は逃げた。今ここで答えを出すことから逃げようとした。
何もかも有耶無耶にしたまま、それでも何かが変わってしまう、何かを失ってしまう恐怖よりはずっとそっちの方がいいと思って。
しかし、
「待って」
「!!」
沢北君はそれを許してくれなかった。つま先の方向をくるりと変え、歩き出そうとした私は、だがすぐに彼に腕を取られ、危うく足を滑らせそうになった。
「……大事な話があるんだ。悪いけど僕と一緒に午後の授業は抜けてもらってもいいかな?」
有無を言わさぬ彼の物言いに、私は怖くなった。
もう逃げられない……
本能が何かを察したのだろう。ひどく悪寒を覚えた。




