第31話 アクアリウム・ブルー
第31話 アクアリウム・ブルー
「ルンルルン、ルン、ルン♪」
「ご機嫌だね、柊さん。それ何の曲?」
二学期も残すところあと数日となった日曜日。私達はいつもより少し遠出をして、昨年オープンしたばかりという郊外の大型水族館へと足を運んでいた。
買い物ばかりじゃ芸が無いし、映画はおしゃべりできないし、動物園は臭いし……
で、悩みに悩んだ挙句、私が行き着いた答えが水族館。オープン前からテレビや雑誌で何かと取り沙汰される事が多く、開園後もなかなかに人気を博していたようで、以前から機会があれば一度は行ってみたい場所でもあった。
いよいよ夏本番となり連日30℃を越す壊滅的猛暑からしばし逃避するという意味でも、それはなかなかに良い選択だったと思う。
「さあ? 女の子は楽しいときは自然とメロディーが頭に浮かぶ生き物なんだよ」
「へえ〜そんなものなのかなあ」
……なんて浮かれ気分でいられたのも束の間。
初めてのデートの時と同じように中ノ宮で二時に待ち合わせた私達は、そこから地下鉄とバスを乗り継ぎ約30分。
「地下鉄ってこんなに利用者多かったんだね〜」
と、空席が見つからず少し落胆したものの、無邪気な会話を交わせていた内はまだいい。
目的の駅の到着を知らせるアナウンスが流れ、さあ降りるか……と思った途端、私達は思わぬ光景を目にする事に。
「えっ……」
なんと車内のほぼ全ての乗客が一斉に立ち上がったのだ。そして呆気に取られる私達を巻き込んで、人の波はそのままホームへとなだれ込む。
「ね、ねえ! これって……!」
まさか……と思いつつ、押しだされるようにして地上に上がった瞬間、その嫌な予感は的中した。
水族館行きのシャトルバス乗り場にはテーマパークのアトラクション待ちのような長蛇の列が。
幸いにも、休日のため倍近くまで増発されたバスのおかげで、列の長さのわりにはさほど待つ事なく済んだのだが、そこからが本当の勝負だった。
無慈悲かつ正確無比な誘導員の超絶技巧で、やってきた空バスに最大限にまですし詰めにされた私達は、もはや呼吸路を確保するのもやっと。ゴーゴーと地獄からの使者のような唸り声をあげる出力最大のエアコンと、核融合出来そうなほど密着し合った人々から放出される驚異の熱気とで、車内温度はまさに一触即発の均衡状態を成していた。もちろんそんな地獄絵図の一部と化した私達は、早くもヘロヘロのフランフランである。
なんとか水族館到着までの10分弱を耐えしのぎ、生き永らえた思いで地上に降り立ってみれば、今度は入場券売り場を起点に放射状に広がった大群衆がエントランスを飛び越え、外にまで溢れ出している惨状である。この有り様にはもう完全に出す声も失った。
「……」
カップル割とやらの二枚セットになったチケットを購入し、ほうほうの体で入場ゲートをくぐった頃には既に時計は軽く三時半を回っていて、日曜日デートがいかに高難度ミッションであったのかということを、嫌というほど如実に思い知らされた一日だったのだ。
……はあ。
しかしいざ順路に沿って進み始めると、そんな疲れも嘘だったかのように一気に消し飛んだ。
「うわあ、見て! カワウソだよ! 水族館って魚だけじゃないんだ! カワイー!」
思わずガラスに張り付いて、その愛くるしい茶色の小動物の姿を目で追いかける。相当な客の入り様で周囲が騒がしいのを良いことに、自分も興奮を包み隠さずウワー! とかキャー! とか思いのままに声を上げる。
近くにやってきた一頭に全力で手を振ったり話しかけたりしていると、そのすぐ隣で小学校に上がるか上がらないかくらいの女の子が全く同じ反応をしている事に気づいて、私は急に恥じらいを取り戻した。
「やっぱり柊さんは純粋だ」
更に追い討ちをかけるように、沢北君が私と隣の女の子をチラチラと見比べながら嫌味ったらしく言うもんだから、
「もう、からかわないでよ!」
私は顔を真っ赤にして一人でどんどん先へ歩かざるを得なかった。
鼻をツンと上げ、プリプリと怒りを撒き散らす振りをしながら、だけど数歩も行けばそれはもう笑みに変わっていて、
きっと恋人ってこんな感じなのだろう……
そんな風に考えてまた嬉しくなる。
最近それが段々と理解出来るようになってきた。
不器用だけど、ゆっくりと着実に。私達は私達のペースで一歩ずつ前に進んでいる。そう思える瞬間を日常の中に見つけていくのが、私のこのところの一番の楽しみとなっていた。
またひとつ、新しいのみっけ。
「柊さん待って、はぐれちゃうよ」
少し距離の空いたところから投げかけられる本当に困ったような彼の声に、私は仕方なく足を止め、後ろを振り返る。
大好きな彼の方を振り返る。
********
「うわ〜いっぱいいるね……」
「これは鯉だね」
しばらく進むと、私達は「日本の魚」と題されたゾーンに突入した。
日本庭園を模した一角に設けられた池の中では、大小色とりどりの鯉が泳ぎ回っていた。
こうも口をパクパクさせながら泳いでいる姿を眺めていると、つい何かをあげてみたくなる和やか〜な雰囲気ではあったのだが、「絶対にエサを与えないでください」というかなりの切実さをもって訴えかけてくる表示に気づき、すぐにそんな気は失せた。
そばに立った監視員らしき人がさっきからギョロギョロとおっかない目つきで周囲に目を光らせている事もあり、これではこっそり鯉に餌をやるような不届き者も現れないだろう。
「鯉って百年以上生きるんだよ〜すごいよね? あはは、言われてみればみんなおじいちゃんみたいな顔してるもんね。おうい、元気かー?」
私はどの鯉ともなく池の中に向かって戯れに呼びかける。
「柊さん、魚詳しいの?」
沢北君も同じように私の隣に屈み込み、水面を覗き込む。鯉の顔が本当におじいちゃんかどうかを確かめているのだろうか。
「ううん、名倉君に教えてもらったんだ〜あ、あとうなぎは50歳だったかな? 鶴や亀には敵わないけどね」
「鶴や亀も実際に千年や万年も生きるわけじゃないよ」
「あれ、そうなんだ?」
沢北君に思わぬ勘違いを指摘され、素直に驚く。
むむう……やはり根本的なところで私は常識が無いのだろうか。
「それにしても名倉君は物知りなんだね」
沢北君が感心したように言うのを聞いて、私は自分の事でも無いのに褒められた気がしてなんか嬉しくなって、
「うん! 名倉君すごいんだよ! なんでも知ってる! 雑学だけじゃなくて、ちゃんと地理とか歴史とか政治にも精通してるし……うん、博識だね! ほとんど本から得た知識らしいんだけど。あっ、中でも一番詳しいのは星座だったかな? 名倉君って星空が絵に見えるんだって! サソリとか牛とかが空を飛んでる感じなのかな? 変わってるよね〜でも、なんか凄くない!?」
つい喋り過ぎた。
「あっ……なんかごめんね……」
「ううん、気にしないよ」
私何やってんだろ……
名倉君の話をこんなにされたって、沢北君が楽しいわけないじゃない……バカ。
自分のドジさ加減に嫌気がさす。
「柊さんは名倉君と本当に仲が良いんだね」
それでも沢北君は笑ってくれた。全然笑える話でも、笑える状況でも無いのに、沢北君はそんな私の失敗をカバーするかのように鷹揚と笑ってくれた。いつもはありがたく思える彼の優しさが、なぜだか今日は胸にチクっと突き刺さる。
「そ、そんなことないよ! そんなこと……」
全力で否定する私。
名倉君……仲良しなんかじゃない。
本当に仲が良いのだったら、今頃私は彼とどう接したらいいのかわからないはずなんてない。
仲良くない。
だけど、もちろん嫌いじゃない。
本当に嫌いだったら、こんなにも彼の話を誰かにしてしまうわけがない。
きっと大切な人なんだとは思う。
大切な……なんなのだろう?
モヤモヤする……
「柊さん?」
だけど今はいいや、そんなこと!
私は目の前の沢北君の事だけを考えてればそれでいい!
「ううん、なんでもない! さ、次行こう!」
私は今幸せだ! 誰にも負けないくらいぶっ飛んで幸せなんだもん!
さっと立ち上がり隣の彼を促した少女の心は、あまりに純粋で、危険なくらいに正直過ぎたのだ。