第29話 七夕祭り(3) ムーン・ドール
第29話 七夕祭り(3) ムーン・ドール
どれくらいの時間だっただろう。数秒だったかもしれないし、数十秒だったかもしれない。
彼が離れるのを感じて私はうっすらと目を開けた。
確かにそこには彼がいて、何も言わず目が合って、ただニコリと微笑む彼を見て、私はそれが夢じゃなかったのだと知る。
私は沢北君とキスをした。
その事だけが既成事実としてここにある。
だけど不思議と心は落ち着いていた。
てっきり私はもっと舞い上がって、肺が破裂したんじゃないかってくらい呼吸が浅くなり、全身が干からびてしまうくらい体温が上昇し、この世の終わりかと思うくらい視界がぐるぐる回って、ひどけりゃパタリと倒れてしまうんじゃないかと、そんな風に考えてた。
だけど実際は違った。
今私はとても落ち着いている。
冷静に沢北君と向き合えている。
正直な話をすると、私は少なからずキスにいやらしいイメージを持っていた。人間の性欲の発露の一つであるという認識。まあそれにはもっと上位の行為があるのは知っているが、それでも人間の獣としての本能、醜い部分を晒すみたいで、私は心のどこかで抵抗を感じていた。
したくなかったわけじゃない。でも、だからこそ私は自分のそんな気持ちが愚かだと思うし、認めたくなかった。結局は自分もただの俗物。ただの獣にすぎない。そう自ら宣言しているみたいで、私はそれを認めたくなかった。という葛藤。
だから名倉君からノートを渡された時、今日のこの展開に私は初め嫌悪感を抱いたのも嘘じゃない。『キス』という二文字を見て、私は嫌な胸騒ぎを覚えたのだ。
自分は本当にアレをするのか……?
口に出して、何か名倉君に物申すような事こそしなかったものの、きっと私の顔は歪んでいたと思う。
まあそれ以上にまず驚いたのだけど。
しかしそれをどうこの瞬間へと持ってきたか。
私の中にあったのは、「恋人は恋人だもの」という強い信念にも似た、信条とも言える、結局はよくわからない、何か。
恋人は恋人だもの。
キスの一つや二つくらいやってのけて当然なのよ。
恋人としての進展を望む上で、絶対に越えなければならないステップの一つとして、私は半ばそれを自分に課すような気持ちで実行を決意した。
状況が私にそうさせるんだ。
自分の気持ちとは別のところで、何か大きな強制力が働いている。そんな風に誤魔化して、自分の醜い部分を見ないふりをした。
本当は自分だってしたかったくせに……
今だったらいくらでも言える。
嫌だ嫌だと言いながら、実のところ私はそれを欲していた。沢北君とキスがしたかった。多分、そう思う。
ただそんな思いはどうであれ、やると決めた以上、今度はそこに不安が生じてきた。怖くなった。
何が?
……よくわからない。
上手く出来るか……おかしな事にならないか……自分は自分でなくなってしまうのではないか……
そりゃ後からすれば、何をバカみたいな心配をしていたのかと、ただの杞憂を笑い飛ばしたくもなるのだが、そんな事知らない。わかるわけがない。
新しい、まだ知らない場所へ踏み込んで行く勇気。それに伴う諸々の不安。
だけど結果、私はそれを乗り越えた。彼を信じる事で、余計な心配の一切をかなぐり捨てた。
彼となら大丈夫。そう思う事にしたし、そう思えた。
そして私は彼とキスをした。
……なんだ、こういう事か。
それは私が想像していたのとは全然違う、優しくて、柔らかくて、穏やかで、美しくて、気高くて、綺麗で、心安らぐ行為だった。
私達はキスを通じてもう一度、「好き」というお互いの想いを確かめ合うことが出来たんだ。
「ありがとう」
だから自然とそんな言葉が湧いて出た。
私達はそのまま何を語らうでもなく、ただ見つめ合っていた。
その場の雰囲気に飲まれ、流され、余韻を味わうように、噛みしめるように、うっとりと甘い蜜の中に身を置いていた。
すごく満たされ、時を止めてしまいたくなるほどの幸福感。
……だから、まさかあんな事が起こるとは思ってもみなかった。
愛しい彼と見つめ合い、なんともロマンチックな雰囲気にだだ浸りだった私の視界に、ふと何やら性質の違う物が。全然ロマンチックでもメルヘンでもスウィートでも無い何か。
私と向かい合うようにして座った沢北君。そのバックグラウンド、真っ直ぐに伸びた遊歩道の10メートルほど後方に、周囲の木立とはどこか相容れない、歪な、そして生々しいシルエットが。
何……?
よく目を凝らしてみる。
外灯によって暗がりから僅かに照らし出される、それは二つの人影。
紛れもない、名倉夏樹と来栖絵里のものだった。
えっ……
余りの事に言葉も出ない。
なぜ? なんで? どうして?
多様に訳された『why』と、それに付随するクエスチョンマーク。
ただ一つだけわかるのはこれは事故だったという事。双方ともに予期せぬ事態であったという事。空いた口が塞がらないのはお互い同じ。
どうやら彼らも偶然散歩していたところを私達に出くわしてしまったようだ。あまりに暗いので視界が利かなかったのだろう。これだけ近づくまで互いの存在に気づけなかったのだから。
二人は完全に固まっていた。
そして、それは私も。
ってか……
私はようやく事の重大さに思い至る。
沢北君とキスしてるとこ見られてた!?
「うそっ……」
それまで呆然と直立していた二人も、どうやら状況の不味さを察したのか、急に顔色を変えた。
「……どうかした?」
沢北君が私の異変に気づき、少し顔を覗き込んでくる。
幸いにも二人は沢北君からは見えない背中越しに位置するため、このまま私が注意を引きつけている限り、彼は好まれざる遭遇者の存在に気づく事は無い。
私は顔に浮かんだ戸惑いを読み取られないよう、必死に笑顔を作りながら、
「ううん、なんでもない!」
と大げさに手を振ってみせた。そしてすかさず後ろの二人に、猛烈に目で訴える。
バカ!! そんなとこに突っ立ってないで早くどっかに消えてよっ!! ほら、早くっ!!
********
見てはいけないものを見てしまった。
いや、旅行の時に福田にまんまとはめられ目撃した梨子の裸に比べれば、きっと道徳的にはずっとマシなのだろうが、それは倫理的にもっと目にしてはいけない光景だった気がする。少なくとも俺の中では。
せっかくだからと絵里の足を気遣いながらも、ちょっと夜の公園をウォーキングコースに沿って歩いてみたのだが、そこでまさかこんな場面に遭遇してしまうとは思わなかった。隣で絵里も顔色を失い、全身硬直している。
こちらに気づいた梨子は、飛び出さんばかりに目を見開いて驚いたのも束の間、後はもう鬼の形相で、殺意やら侮蔑やら憤慨やら、あらゆる闇の感情をコンプリートミックスした世にも恐ろしい視線を投げて寄越した。これぞ魔眼光殺法!
そんな強制退去の避難勧告? を受け取った俺は、混乱する頭の中でもなんとか「ここにいてはいけない!」という生命の危機にも似た危険信号を発し、慌てて隣の絵里の手を取る。
とりあえず……逃げるか!
そして異変を察した沢北が後ろを振り返らない内に、早急に、全力で姿を消したのである。
********
「ま、待て! もう大丈夫だろう、足が……!」
絵里の悲痛な声で我に返り、俺はハッと足を止めた。
「あ、ああ悪い……そうだな、もう大丈夫か……」
俺達は無我夢中で林の中を疾走していた。
来た道を引き返すより、遊歩道を外れ木々の中へ入って行く方が、早くに姿を眩ませられるという咄嗟の判断だった。
「ごめんな、せっかく足の痛みもおさまってきたところだったのに……」
おかげで悪路を走らされる羽目になった絵里は、また足を痛めてしまったようだ。
立ち止まるなり、その場にしゃがみこんでしまった。
「ちょっと見せてみろ」
俺は絵里の横に屈み込み、彼女の身体を支えながら少し綺麗な所に座らせてやると、なるべく衝撃を与えないよう慎重に両方の足から下駄を脱がせた。
「ツッ……!」
「真っ赤じゃないか!」
短く呻いた絵里の右足は夜目でもわかるくらいに大きく腫れ上がっていた。もしかしたらどこかで足をひねったのかもしれない。
「悪い……俺が走らせたばっかりに……」
とりあえず絵里の着物が汚れないよう、俺は首にタオルを巻いていたのを思い出し、それを下に敷いてやる。
「いや、歩こうといったのは私だ。それにあのままあそこで突っ立ってるわけにもいかんだろう」
絵里は力なく笑った。
「……しかし、当分歩けそうにもないな」
俺達は月明かりだけが頼りの木立の陰で、そのまま身を休める事にした。
少し落ち着いたらそれこそ本当に絵里を負ぶってでも公園を出て、そこからはタクシーを呼んで帰ろう。こんな時に金をケチってはいられない。
明日の朝は病院に連れて行った方がいいだろうか……
本来ならさすがにそこまでは俺の仕事では無いとは思うのだが、状況が状況だけにひどく責任を感じる。
どうするべきか……
何か言葉を継ぐ事も出来ず、ただ焦りと不安でいっぱいになっていた俺の横で、
「あいつら……キスしてたな……」
絵里は気の抜けるような言葉を口にした。
この状況でその話かよ! と思わず突っ込みたくもなったが、冷静になって考えてみれば、今絵里の足の事であれこれ悩んだところで確かにどうなるわけでもない。
それよりは、つい今しがた目にしてしまったあの衝撃映像に関する感想が、絵里の口から漏れ出てしまったことの方が自然な流れだと思えなくもない。
「ああ……」
だがしかし、
「…………」
そこで会話に詰まってしまう。
それは余りに気まずい。出来る事なら避けたい、無かった事にしたい話題だった。
自分達のよく知る二人の男女が初めてのキスを交わす瞬間を、その一部始終を、俺達はコンマ一秒たりとも見逃す事なく完璧に目撃してしまったのだ。
しかも気づかれた。
……しかも逃げた。
後ろめたい事この上ない罪悪感に、俺は骨から臓腑に至るまで苛まれていた。
「恋人、だからな……」
だからそんな風に当たり前の事を言って、このいたたまれない沈黙を回避するくらいが俺に出来る精一杯の事だった。
「恋人……ならキスもするのか……」
中身の何も無い俺の言葉をどう受け取ったかは知らないが、絵里もまたそんな当たり前の事を繰り返した。
変な気持ちだった。
走るのをやめてしばらく。もうすっかり息も整っているのに、どういうわけだか早鐘を打つ心臓の鼓動だけは元に戻らない。
さっきの光景が目に焼き付いて、自分の事でも無いのにやけに興奮してる俺がいた。
落ち着かない。
ソワソワする。
意味もなく腕をさすったりする。
変な気持ちだった。
なんとも言えない、変な気持ちだった。
そして絵里もまた変な事を言った。
「私達は何なのだろうな……」
そんな焦点のはっきりとしない疑問を、独り言のように呟いた。
答えを求められているのかどうか分からず、返事をするべきか否かと考えあぐねていると、
「恋人じゃない……友達でもない……」
更に絵里は言葉を続ける。
自分の意思とは無関係に、口の端から思いがこぼれたという風に。
どこか宙に視線を漂わせ、心ここにあらずといった様子の絵里は、何か妖しい月の魔力に操られているのではないかと思うほど虚ろな表情をしていた。
魂の抜けた、人形のような顔をしていた。
最近こんな絵里を目にする機会が多くなった。
凄く脆くて、儚げな絵里。
ポンと一突きすれば簡単に崩れ落ちてしまいそうなその横顔に、俺はどうしようもない不安を覚えた。
「……幼馴染だろ?」
確かめるように呼びかけた。
絵里が段々俺の知らない絵里になっていくような気がして、怖くて、恐ろしくて……
殴ってくれてもいい。罵られてもいい。
それでも俺は絵里に言って欲しかった。
「ああ、そうだったな。私はお前の幼馴染だ」
と、そう一言言ってもらいたくて、認めてもらいたくて、安心したくて、俺は隣の少女に声をかけた。
「……」
だけど絵里の返事は無かった。
そもそも俺の言葉なんか聞こえちゃいなかったかのように、表情一つ変えることのないまま、夜の闇を見つめていた。
こんなにも俺の目に絵里が知らない他人のように映ったのは初めてだった。
「……帰るか」
俺は絵里を背負いゆっくりと歩き出した。
抱えた絵里は思ったよりずっと細くて、軽くて、なんだかとても泣きたい気持ちになった。




