第9話 アンベール
第9話 アンベール
「……できた」
名倉夏樹著、タイトル未定のノンフィクション(となるはずの)恋愛小説の記念すべき第一章目が完成した頃には、すでに日付を変更して三時間も経過していた。
楽勝楽勝と意気込んでいたのは最初だけで、いざ書き始めてみるとまあなかなか思ったように筆が進まない。言葉が浮かばない。すぐに煮詰まってしまった。
なにも世に出す小説を書いてるわけではないのだからそこまで完成度にこだわる必要があるのか、と疑問を感じることもあるかと思うが、少なくとも梨子は全てに目を通す事になるわけである。
しかもこの小説の善し悪しが、そのまま彼女の人生を左右しかねない事を考えると、そう生半可な気持ちでは挑めない。
しかしどうしてこうも面倒な事を引き受けてしまったのか。
その理由は至って単純明快。俺が小説を書いてみたかったからである。
熱心な読者ならここで「おや、お前言ってる事が以前と違うぞ」と思うかもしれない。確かお前は梨子の「自分を変えたい」という心意気に打たれ小説を書くことを承諾したのではなかったか?
基本的にはその解釈で間違っていない。ただもちろん、以前から俺には小説を書いてみたいという気持ちがあった。そのベースが存在したからこそ、俺はこんな面倒を引き受けてみようという気になったのだ。
まあ、そんな事はどうでもいい。とにかく俺はそんなこんなでペンとノートに毎夜格闘し、時に織姫先生の小説を参考にしながら、土曜日の夜になってなんとか納得のいく物を仕上げる事ができたのだった。
ああ、そうか今日はもう日曜日だ……
カーテンの隙間からのぞく窓ガラスに自分の姿を映してみると、普段は一重のそのまぶたが、アイプチでもしたかのように綺麗なくっきり二重になっていた。
これはこれで悪くない。
********
「おじゃまします」
日曜日の午後、俺は梨子を再び家へと招いた。
先日俺にからかわれた事をまだ根にもっているのか梨子はかなり渋ってみせたものの、小説が出来たからという事でなんとか了承した。
相変わらず電話は拒否されているので連絡はメールで、だ。
「いつもおうちの人が留守の時に上がり込んじゃってなんか悪い事してるみたい……ちゃんとご家族の方にも挨拶した方がいいよね?」
妹は母親と朝から買い物に出ていて夕方まで帰って来ない。つまり今日も家には俺一人だ。
「いや、いい。色々面倒な事になるのが目に見えている……」
母親は「ついになっちゃんにも彼女が……!」とかなんとか勝手な妄想をして騒ぎ立てるに違いないし、秋はどこでどう絵里とつながっているかわからない。ありもしない事まであれこれ吹き込まれたらたまったもんじゃない。
「とりあえず、これだ」
秋の部屋から勝手に拝借してきたクッションの上に座らせた梨子に、俺は机の上のノートを手渡した。
実際はまだたった数ページしか書いてないのだが、もう何度も閉じたり広げたりを繰り返してるので、既に使い古された感がその表紙からもひしひしと伝わってくる。
ああ、それは俺の努力の結晶だからな。
「み、見てもいい?」
「……絶対に笑うなよ」
「笑わない笑わない! 絶対!」
俺が一つ頷くと、梨子は神妙な面持ちでページをめくり始めた。
********
時計の針の音だけが部屋に響く。
梨子がノートに目を通してる間、正直俺は気が気でならなかった。
市販されているものに比べればそりゃ表現が稚拙だったり不自然さの残るところもあるかもしれない。だがしかし、自分なりにはそこそこの及第点を与えてもいい作品に仕上がったと思っている。ちゃんと梨子と沢北の人物像も正確にトレースし、出来るだけ現実的な展開になるよう心掛けたつもりだ。
ただ、他人の評価とは全く想像のつかぬもの。もしかしたら上手く出来ていると思うのは自分だけで、他人の目にはとんでもなくバカみたいな作品に映ってしまうのだろうか?
長い……
通して読むだけなら5分もかからない分量を、梨子はかれこれもう15分近くノートを眺めている。
もしかして作品の出来がとんでもなくひどいもので、俺を傷つけないようなフォローの仕方を必死に考えているのではないだろうか?
そんな不安が脳裏をよぎる。
そして梨子は遂にノートを閉じた。
「その……どうだ? 変、じゃないか?」
恐る恐る感想を聞いてみる。
「……いける。うん、いけるよ! これなら私でも出来そうな気がする!」
梨子の言葉に俺は張り詰めていた緊張が解け、どっと肩の荷が下りた気がした。
「そ、そうか、それはよかった」
とりあえずは梨子嬢のお気に召したようだ。
しかし、そう安心したのも束の間、
「うん! すごいよ、名倉くん! ありがとう!!」
「うおっ!」
梨子はパッと俺の手を両手で握り締め、それをぶんぶんと思い切り振り回す。
全くこれは握手なのか、ストレッチなのか、はたまた暴力を受けているのか……。
それでもって、
「キャッ!」
急に我に返ると、自分の行いに驚き慌てて手を放す。勢い余って俺を突き飛ばす。
何て奴だ……
梨子は興奮しっぱなしで、身振り手振りも交えて何やら賞賛の言葉を並べ立てているのだが、筋が通っていないので何を言いたいのかほとんど理解出来ない。
ただそんな梨子を見てると、なぜか少しだけ幸せな気持ちになった。渇ききった心の中に何かが満ちていく気がした。
「これ家で何度も読み返して、練習して、私明日にでもやってみるよ!」
「ああ、俺が書いたシナリオだ。絶対に上手く行く」
いつの間にか普通に口をきけるようになったんだな、お前。
「でも今日はゴメンね、日曜なのにお邪魔しちゃって」
梨子は申し訳なさそうに頭を垂れる。
「ああ、それは気にしなくていい、俺が呼んだんだ。それに学校じゃちょっと都合が悪いしな……」
「あ、もしかしてこの前教室で話してた綺麗な女の人のこと?」
「綺麗……まあ多分そいつの事で合ってると思う」
そうか、やっぱり知らない人の目に絵里はそう映るんだよな。
「あの人……名倉君の彼女?」
「否」
この問いを俺は一体今までに何度されたことだろう。
高一ってまだ若いぞ。人生高々15、6年しか生きてないのにこんなに何度も同じ質問を受けるということは、むしろ誇るべき事なのではないだろうか。
「あいつはただの幼馴染だよ」
「そ、そうなんだ……なんか仲良さそうに見えたから私てっきり……」
良かったな、お前その質問を絵里本人にして無くて。危うく殺されかねんとこだった。
先日、登校直後に絵里の襲撃を受け、HR開始前に早くも保健室送りとなった加西の例もある。いくら梨子が女だからといって、あいつが加減するとは思えん。
すっかり黙り込んでしまった俺を、梨子は不思議そうな目で見つめる。
コイツの純粋さは危険だ。仕方ない、話しておくか……
「実は……俺は女に興味が無い」
俺は今の今まで絵里以外の誰にも話した事のなかった自分の秘密を、とうとう他人に打ち明けた。
「……へ?」
キョトンとする梨子。
「いや、正確に言うと女を好きにならない、だ」
その顔が徐々に驚愕に変わる。
「そ、そ、それって……だ、だめ! 沢北君は……!」
……なぜこうもシリアスな展開を迎えようとしているのにお前はお決まりの誤解をする。話の腰を途中で折るな。
「そういう意味じゃない。それ以上に男には興味無い」
「そ、そっか……良かった……」
次からは話す順序を逆にするべきだな。まあそもそも人生でたった二度目のこの告白に、果たして次の機会があるかどうかは疑わしいが。
「……って良くない!! なに、それ、どうゆうこと!? なんで!?」
「そのままの意味だ。理由なんて無い、というか俺にも分からない。気づいた時からそうだった」
********
な、なに? この人平然ととんでもない事言ってるくない!?
お、女の人を好きになれないとか、そんな話テレビとか漫画の中だけだと思ってた! ってかこの告白の方がよっぽど小説じみてるじゃん……!
「つまりだ。俺と絵里がお前をはじめ、周囲の期待するような関係になることは絶対にあり得ないんだよ」
絶対に、というその言葉が物凄く大きな質量を持って私の心にのしかかってきた。
頭を鈍器で殴られたような衝撃にぐるぐると視界がまわる……。
********
「お邪魔しました」
その後しばらく彼の部屋で会話を続けたのだけど、結局私は彼の告白から受けたショックをいつまでも引きずって、その空間の重苦しさに、息苦しさに耐え切れなくなって逃げ出した。
彼はいたって普通にしているように見えたけど、内心どう感じていたのだろう。
誰かを好きになれない。
そんなの悲し過ぎるよ……
きっと彼は自分がどれだけ望んでも出来ない恋愛を、小説の中でだけ体験するんだ。
姿形の見えない小説だからこそ、その主人公に自分を重ね合わせて、ヒロインの女の子を好きになったつもりになって、そうして自分を騙して恋愛を装っているんだ。
そんなの馬鹿に出来る訳ないよ……いくら恋愛小説が趣味だからって、そんな話聞いたらちっとも可笑しいだなんて思えないよ。
……ちっとも笑えないよ。
哀しくて、哀しすぎて、そんな彼の事見てられないよ。
だからきっと彼は誰にも言わないんだ。そんな風に誰かを哀しい気持ちにさせたくないから、彼は秘密を秘密にするんだ。
キミは本当は優しいんだよ……とても。
そんな彼の苦しみに比べたら、私の悩みなんて本当につまらないもの。むしろそんな悩みが出来るだけ私は幸せなんだ。なのに、なのに……
私は逃げてしまった。彼の抱える苦しみを受け止め切れず、あの場から逃げ出してしまった。
もしかしたら彼は私に期待したのかもしれない。真実を知っても受け入れてくれると、そう思ったから話してくれたのかもしれない。
誰だって秘密を秘密にしておくのは辛いもの。胸が刺すような、焼け付くような痛みを覚えるもの。
だから彼は救われたくて、少しは楽になりたくて、私に吐き出したのかもしれない。
でも私はそんな期待を裏切ってしまった。なんてひどい事をしてしまったんだろう。
彼は私に失望したかな。軽蔑したかな。いや、でもそんなことない。きっと彼は後悔してる。私に哀しい思いをさせた、って自分を責めてる。
彼はきっと誰よりも優しいから。
「……じゃあ尚更やるしかないじゃない……!」
そう、私は絶対にこの恋を成功させてみせる!
彼の、名倉夏樹の書いた小説で嘘みたいに幸せな恋愛をする! そして、限りなくリアルに近い恋愛を彼にプレゼントするんだ!
私が、私が幸せになって、彼も幸せにしてみせる!
「……よし!」
私はまた胸の前で拳を握りしめた。いつのまにかそれはすっかり私のおなじみのポーズになっていた。
********
その晩、俺はこれまた珍しく、何をするでもないままベッドに仰向けに横たわっていた。
いや、何もしていないように見えるのは物理空間的な次元の話であり、頭の中では目まぐるしく思考が入れ替わり立ち替わりしていたのだが。
どうして俺は梨子に打ち明けたのだろう。
これまでどれだけ親しくなった友人にも決して語ることのなかった秘密を。
たった一人、絵里しか知らない俺の秘密を。
いくら考えても答えの見つからない堂々巡り。どこから手をつければ良いのかわからない、まさに暗中模索の状態。
……のようなふりをしている。
本当は答えなんてとっくにわかっている。
認めたくないだけだ。
自分がそんなに弱い人間だということを。
誰かを頼りにしなければすぐに壊れてしまいそうな存在であることを。
しかしどうして今更他人に話す必要がある。
俺には絵里がいるはずだ。絵里は十分俺を守ってくれているじゃないか。
俺の秘密を知りながらそれを何とも気にも留めない様子で俺に接してくれる。
その秘密をアイツの軽口でけなされると、本当に何でもない、取るに足りない些末な事のように思えてすごく気が楽になること。
俺もまさか気づいていないわけじゃないだろう。
アイツが加西に腹を立てたことも、本当は気のない一言に俺が傷ついたんじゃないかって心配してくれたからだってこと。
大丈夫だ、絵里。俺はいつまでも子供の俺じゃない。他人の言葉にいちいち反応してウジウジしない程度には図太くなったよ。
全部お前のおかげだ。ありがとう、絵里。
ただ……な。
俺もいつまでもお前に甘えてばっかりもいられない。少しは自分で何とかしたいんだ。
いや、結局は他力本願な事に代わりは無いのだけど、俺は俺のやり方で変わってみせる。
だからもうちょっと見守っていてくれないか、そこから、その位置から……
俺はそのまま首だけを横に倒して、昼間梨子が座っていた辺りに目をやる。
「あ、クッション返すの忘れてた……」
そこにはまだ妹の部屋から借りてきた、いかにも女の子らしいパステルカラーのクッションがあった。
せっかく玄関から階段へと続く廊下に掃除機をかけ、梨子の痕跡を消し去ったというのに、これじゃあ妹に女が来てましたと教えてやってるようなものだ。
いつかのデジャヴが如く、秋が俺の部屋に乗り込んでくるのは時間の問題だろう。
「まあいいか……また絵里が来たことにしとこう」
まぶたを閉じればすぐに眠りに落ちてしまいそうな気がする。
昨夜からの寝不足もあって、すごく疲れていた。
だけど……
これほど心安らいだのはいつぶりだろう。
気づけば俺は笑っていた。




