2. 訪問(I)
「うむ・・・」
イオナは腕を組み、軽く息をついた。
目の前に置かれているのは、自らの家の紋章で封がされていた手紙である。その内容を頭の中で反芻し、イオナは再び息を吐いた。
「(どうするかな・・・)」
手紙はイオナの父、ビゼイルからのものだ。あからさまではないが、遠回しに後宮を辞すように促す内容のものである。
イオナが後宮に送られて既に5年が経つ。後宮を出られるという話はとても魅力的であるが、ナディアが正妃に決まってからの手紙に、何かしらの意図が働いていないとは思えない。
「(・・・王を射止められなかったから、帰って来いということなのだろう)」
後宮を辞した元側室の下へ来る縁談は、権力を欲する貴族にとってかなり魅力的なものだ。後宮に入れる時点で一定の礼儀作法含め教養は保障されるし、家柄もそれなりに良い。そして、後宮に居る間に王と関係を持てれば、後宮を辞した後も王から多少目をかけられる。これは縁談相手の出世に直接影響する場合が多い。エルディックはナディア以外と関係を持っていないため、最後の条件は満たさないにしても、それは他の側室も同じであるため、不利益にはならない。
自分を後宮から出させ、他の貴族に嫁がせたいのだろうことは明白だ。
「(騎士となれるのなら帰っても良いが、縁組のための帰還は御免被りたいものだ)」
少し窮屈ではあるが、後宮はイオナにとって居心地が良い。結婚して不自由な生活を送るくらいなら、居座るほうが楽だ。
それに、最近は違う理由もある。
しかしそれらを直に告げれば、何かしらの理由をつけて強制的に後宮から出されることになるだろう。後宮を辞すには原則として王と側室本人の意思が必要だが、王の許しがあれば家の方から呼び戻すことが不可能なわけではない。
そして、自分の父親が何としてでも自らの意思を通そうとする人物であることは、イオナ自身が良く分かっている。
「(どのように返事をすれば良いかな)」
なるべく本当の理由は隠し、父親が納得する様な内容を考えなければならない。返信用の便箋を眺め、イオナは軽く唸った。
そんな彼女の耳に、躊躇いがちなノックの音が聞こえた。
「ん?」
先程侍女には退出するように頼んだため、部屋にはイオナ一人だ。
羽ペンを置き、扉へと向かう。
「誰だ?」
「あ、あの」
聞覚えのある声が聞こえてきた途端、イオナは扉を開いた。
目の前に、灰色のローブに身を包んだ小柄な人物が佇んでいる。フードの下から覗く、ぽかんと見上げる水色の瞳と目が合った。
思わず、顔が綻ぶ。
「こ、こんにちは、イオナ様」
「・・・これは珍しい。よく来たな、テミス殿。立ち話もなんだし、まあ、入ってくれ」
「ですが・・・」
「良いから」
半ば強引にイオナはテミスリートを部屋へと招きいれた。
「そこに座っていてくれ。茶の用意をしてくるから」
「え? わ、私も」
「一人でできる。すぐ戻ってくるから・・・帰るなよ?」
軽く釘を刺し、イオナは部屋を出た。こうでもしないと、"彼女"はすぐに自分の部屋に引っ込んで出てこなくなるのだ。会いに行けば会えるし、招待すればやってくるため、無理に留める必要もないかもしれないが、こうしてあちらから訪ねてくるのは初めてである。
給湯室へ向かう足が軽くなった気がした。
「(少しは仲良くなれたと思っても良いのかもしれんな)」
イオナは自分が多少強引であることを自覚している。
貴族社会では、ある程度本音と建前を使いこなせなければ弱みを握られることにもなるため、殆どの場合はあまり深い人間関係を構築することはできない。しかし、イオナは上辺だけの付き合いを嫌い、相手の真意を理解しようとする。そのため、時折強引な態度に出てしまうことがある。
そんなイオナの強引さは、貴族社会では厄介なものだ。
あまり事を荒立たせたくない貴族の令嬢にとって、他者にそれと分かる諍いほど厄介なものは無い。だからこそ本音を隠し、上辺だけの付き合いをする者が多いのだが、イオナの強引さはその本音を暴き出してしまうのである。そのため、そのような令嬢はイオナとは距離を置くようになる。更に、イオナは騎士を目指していたし、男性に対しては厳しいところが多々あったので、自然と適齢期で縁談を考慮する男性からも距離を置かれるようになっていた。
後宮の内外に関わらず、そのような経験の中で育ってきたイオナにとって、家の為に送られてきた他の側室とのやり取りは新鮮だった。自分の強引さを気にせず付き合ってくれる女性はかなり少なかったから。しかし、その側室達もナディアが正妃となった後すぐに後宮を辞してしまい、数人を残すのみである。
その時に、テミスリートと出会ったのだ。
出会いはあまり良いものではなかったかもしれないが、あそこまで自分に偏見を持たない"貴族の女性"にイオナは初めて出会った。そして、自分をそのまま受け入れてくれることに喜びすら覚えたのである。
そんな相手が、こうして自分に会いに部屋を訪ねて来てくれた。それを喜ばないことがあるだろうか。
顔が緩むのを抑えつつ、イオナは半ば急ぎ足で給湯室へと向かった。
湯の入ったポットを持って部屋へ戻ったイオナは、視界に入った光景に足を止めた。
テミスリートが机の上に置かれた手紙を前に、困ったように天井を向いて目を泳がせている。
「どうかしたか?」
「・・・許可なく私信に目を通すわけには参りませんので」
眉を顰め、今度は目線を机の下に向けるテミスリートに、イオナは苦笑した。
「そんなに気にしなくてもいい。見られて困る内容ではないからな」
「ですが・・・」
「分かった分かった。テミス殿は真面目だな」
確かに、私的な手紙を読むことはマナー違反だ。しかし、出したままにしておいた自分にも非はあるため、読まれていたとしても致し方ない。そうでなくとも、読まれて困るようなことは書かれていないし問題ないというのに。
イオナはポットを机に置くと、手紙を封筒に仕舞った。
「これで良いのだろう?」
「恐れ入ります」
軽く頭を下げるテミスリートに、イオナは軽く笑った。
「では、茶にするか」
そう言って、イオナは棚から茶器を取り出した。テミスリートが手伝おうとするのを強引に押し留め、手早くお茶の準備を進めていく。程無くして、机に二人分のお茶が用意された。
「あいにく、茶請けがなくてな。本当に茶だけになってしまうが」
「構いません。御持て成し頂けるだけでも、有難いことです」
「そうは言ってもな・・・」
菓子の類は、事前に後宮の料理人に頼んでおくか、外の店から取り寄せなければ後宮では食べられない。日持ちもあまりしないため、菓子を常備しているのはよほど生家が豊かな者だけである。
イオナも、客が来ると分かっている場合は事前に遣いを出して取り寄せておくが、流石に突然の来客には対応できない。
「(日持ちのする焼き菓子くらい常備しておけば良かったか)」
折角訪ねてきてくれたのに碌な持て成しもできないのは、何となく悲しい。イオナはため息を零した。
その様子を見て、テミスリートは目を瞬かせた。
「そういえば、イオナ様は甘い物はお好きですか?」
「まあ、好きな方だな。普段はあまり食べないが」
「でしたら、これを貰っては頂けないでしょうか?」
言葉と共に、机の上に小さな包みが乗せられる。それを解くと、中には切り分けられたレアチーズタルトが2切れちょこんと納まっていた。
「これは?」
「先程正妃様から御招待を頂きまして、手土産に持って行ったのですが、消費しきれなかったので残りを持ち帰ってきたのです」
「テミス殿が作ったのか?」
「はい」
目を丸くするイオナに、テミスリートは困ったように微笑した。
「残り物で申し訳ないのですが・・・」
「いや、頂いて良いなら頂くが。良いのか?」
後宮では菓子は、とりわけ毒の入っていない菓子は貴重品だ。その中でも生菓子は日持ちがしないことから、滅多に食べられない。残り物だといっても、貴重なものに変わりはなかった。
しかも、目の前の"少女"のお手製である。イオナにとってはかなりのプレミアものに感じられた。
「はい。私では今日中に食べきれませんし、貰ってくだされば幸いです」
「なら、茶請けにさせてもらおうかな。丁度2切れあることだし」
「え゛・・・」
イオナの一言に、テミスリートが固まった。イオナは不思議そうにテミスリートを見やる。
「どうした?」
「・・・・・・お腹が一杯で・・・」
顔を赤らめてボソボソと呟くテミスリートをしばし眺め、イオナは破顔した。
「なら、私が2つとも頂くことにしよう。生菓子は久しぶりだからな」
机の上に皿を置き、タルトを1切れ乗せると、イオナはテミスリートの向かいに座った。
「ところで、今日はどうしたのだ?」
「・・・私事で申し訳ないのですが、そちらをお受け取り頂ければと思いまして。私では、傷む前に消費できそうになかったのです」
そう言って、テミスリートはタルトに視線を向けた。
ナディアの茶会にワンホール持って行ったため、ナディアとテミスリート、そして3人の侍女の分を除けても余りが出てしまったのだ。一応、菓子を気に入ってくれているという侍女の分として1切れ多めに置いてきたが、それでも2切れ余った。生菓子であるため今日中に消費しなければならないが、部屋に自動菓子メーカーがいるテミスリートでは、今日中に消費できそうにない。というか、できない。しかし、捨てるのはかなり勿体無い。
悩みに悩んで、イオナが甘いものを嫌いでなければ引き取ってもらえないかとテミスリートは部屋を訪ねたのである。
イオナは納得した。
「(テミス殿には、それほど入りそうにないからな)」
小柄で華奢な印象の強いテミスリートが大食には流石に見えない。それに以前晩餐を共にしたときも、イオナの通常量の食事を完食できていなかった。
タルトは小さめとはいえ、1切れでかなりお腹に持つ。イオナの見立てでは、テミスリートでは1食抜いても2切れのタルトは消費できないように思えた。
「そうだったか。そういう話なら、大歓迎だ」
何せ、茶菓子付きで普段自分から来ない"少女"が訪ねてきたのである。イオナには、鴨が葱を背負って来るよりも貴重だった。
断りを入れ、イオナはタルトをフォークで軽く切り分け、口に運んだ。少し酸味の強い、濃厚なチーズの味が口に広がった。しかし、癖が強いということはない。苺を混ぜているのか、ほんの少しだけ苺の甘酸っぱさが後味をすっきりさせ、しつこさを和らげていた。
初めての味に、一瞬言葉が出なかった。
「・・・お口に、合いませんでしたか?」
黙ってしまったイオナに、テミスリートは心細げな表情を浮かべる。イオナは慌てて言った。
「いやっ、どのように表現すれば良いか分からなかっただけだ。テミス殿は菓子作りも上手だな」
「ありがとうございます」
「・・・言っておくが、お世辞ではないからな」
軽く頭を下げるテミスリートに、思わずイオナは突っ込んだ。
この"少女"は自分を過小評価しがちなように見える。容姿についても抜きんでているし、身の回りのことが自分でこなせる時点で充分誇れる面があるとイオナは思っているのだが、本人はそう思っていないらしい。
生家の立ち位置や後ろ盾のない身であることを考えると、公的な立場は弱いかもしれないが、もう少し自信を持っても良いように思える。
「もう少し、テミス殿は自分を誇ったほうが良い。驕りは褒められたものではないが、自分を卑下することも良いことではないぞ」
「・・・はい」
曖昧に笑みを浮かべるテミスリートに、イオナはあからさまなため息をついた。
「またそのような・・・。本当に分かっているのか?」
「もちろんです」
「そうは見えないが」
憮然とした物言いに、テミスリートは苦笑した。
イオナがどのように思っているかは分からないが、テミスリートは自分を卑下しているつもりは無い。賛辞を真に受けないようにしているだけだ。貴族達の狡猾さや抜け目の無さは身に沁みて理解しているからこそ、身分に合わせて自衛しているのである。
ついでに、皆がやらないだけで、自分の出来ることは誰でも出来ると本気で思っている。世間知らずなだけなのだ。
「少なくとも、私はそなたを誇りに思うぞ」
「?」
「私を色眼鏡で見ないだけでも、他の者とは比べ物にならないほど優れているからな」
「・・・貴族らしからぬと言う意味でしたら、納得できるのですが」
シェーラが平民(?)であり、ランバートも王族にしては貴族らしくなかったため、テミスリートも平民寄りの思考をしている。例外は、しばらくエルディックの母ミリアに仕えていた乳母と貴族に育てられていたエルディックだけである。
眉間に皺を寄せるテミスリートに、イオナは口元を笑ませた。
「平民であれ貴族であれ、自分と異なる性質をありのまま受け入れることは難しい。そなたのように、即座にそういうものだと受け入れられる者は貴重だ」
イオナが後宮で再会した元同期の騎士達は、自分の身分を知った際、他の貴族にするような立ち居振る舞いで今までの態度を謝罪された。その行動は、自分から離れて行かれたようでとても寂しく感じた。今は以前のように付き合えることが出来ているが、今も名前で呼んでもらえないのは慣れだけでなく、貴族に対しての引け目があるからかもしれない。
身分の差であからさまに態度を変える付き合いに長く身を置いていたイオナにとって、言葉遣いや立ち居振る舞いは異なるものの、王や正妃に対しても自分に対しても、それどころか人間以外のものに対しても同じ姿勢を崩さないテミスリートは得がたい者だった。
テミスリートは目をぱちくりさせた。困ったように首を傾げる。
「そう・・・ですか?」
「そうなのだ」
どう答えていいか分からず、軽く視線を彷徨わせるテミスリートの様子に笑いを噛み殺し、イオナは自分のカップに手を伸ばした。カップの脇に除けられていた手紙が視界に映る。
手紙の内容を思い出し顔を顰めたイオナに、テミスリートは視線を向けた。
「どうか、されましたか?」
「いや・・・」
手紙を机の端へと移動させ、イオナは深く息をついた。
「・・・父から、後宮を辞すように達しが来てな。返事を悩んでいたんだ」
「サリヴァント伯から・・・」
テミスリートは、以前エルディックに教わった貴族の特徴を思い起こした。
サリヴァント伯は結構な野心家で、前代から公爵家や侯爵家と婚姻を結んでいたらしい。今代でも、イオナの姉2人は侯爵家に嫁いだと聞いている。
ということは、イオナが後宮を辞せば、他の貴族と政略結婚させられる可能性が高い。
そう考えた途端、何故か心臓が大きく跳ねた。
「・・・・・・イオナ様は、どうされたいのですか?」
動揺を押し隠し尋ねると、イオナは渋い顔をする。
「そなたなら、私の考えくらい軽く想像付くだろう」
「・・・あなたの口から、聞きたいのです」
テミスリートのあまりにも真剣な眼差しに、イオナは目を瞬かせた。
「(テミス殿・・・?)」
いつもの"少女"らしからぬ態度に、イオナは戸惑いを隠せない。
真意を見透かそうとする瞳の奥に、他の感情が見え隠れしていた。その感情が何かまでは読み取れなかったが、強い眼差しとは裏腹に、その様子は何かに縋りつこうとする幼子のように頼りなさげに見えた。
思わず、その頭に手を置いていた。
「――― 私はここに残りたい。そなたも居ることだし、な」
イオナの返答に、テミスリートは表情を和らげた。その様子に、イオナは口元が緩むのを抑えられなかった。
「(意外に、想ってくれているのだな)」
呼び出しには応じるが、自分からは一向に接触して来ないから、そこまで好いては貰えていないと思っていたが、それは間違いだったらしい。
イオナが頭を撫でると、テミスリートは軽く俯き、少し困ったように微笑んだ。頬がほんのり赤らんでいる。その愛らしさに、イオナは更に手を動かした。
「しかし、父が煩いからな。私が帰りたくないと言っても帰らされる気がする」
「でしたら、私から王に進言致しましょうか?」
テミスリートの言葉に、イオナは手を下ろした。不思議そうにテミスリートを見やる。
「? どういう意味だ?」
「差し出がましいとは思いますが、幸い、私は王と面識がありますから、イオナ様のお言葉を直接お伝えすることも出来ます。もし、イオナ様が後宮に留まることを望まれるのであれば、その旨をお伝え致しますが・・・」
言われて、イオナははたと気づいた。
「(そう言えば、テミス殿は現王の計らいでここに居るのだったな)」
現王エルディックとの間にどれ位強固な繋がりがあるかは分からないが、テミスリートの言い分だとほぼ受け入れて貰えるような気がする。別に正妃の位を狙っているわけではないし、むしろ手を出されないほうが有難いので、ナディア以外に目を向けようとしないエルディックには受理してもらいやすいかもしれない。
王が否と言えば、どんなにビゼイルが呼び戻したくとも不可能である。
イオナは頷いた。
「頼んでも良いか?」
「はい」
「家の事情に巻き込んで済まないな」
「お気になさらず」
笑って紅茶のカップを取るテミスリートを見て、イオナはにやりと笑った。
「しかし、気づかなかったな」
「?」
「テミス殿が、そこまでしてくれる程私を好いていてくれたとは」
「!!!?」
真っ赤になって片手で口元を押さえるテミスリートに、イオナは軽く噴出した。
呼んでくださり、ありがとうございます。