Aの横顔〜Kの肖像・番外編〜
そこへ通うようになったきっかけが何だったのか、もう忘れてしまった。いや、そうだ。確かトシヤが先に見つけて情報をくれた。あいつはデザイン科を志望してたから、入試の準備も少し違った。デッサンは鉛筆だけになって、ポスカラでベタっと塗りつぶす平面構成ってのばかり、やるようになっていた。
高二になった春休みだったが、ふたりの伯父は先輩風を吹かして、美大受験のコツを説教しまくった。だからって周りにそんなやつはトシヤだけで、俺たちはマッタリと地方都市の高校生活を謳歌していたのだ。予備校の美大コースへ行くには早い気がしたし、現役で受かれと親は煩い。そんなハンパな状況に、恩田さんのところは丁度よかった。
「お袋がどっからか聞いてきたんだけど、俺じゃなくお前向きなんだよな。J美の油<あぶら>、出た人だっていうから」
自宅で子どもに絵を教えている人なのだという。カレーパンの屑を膝に載せたトシヤは、情報をつかわす、といわんばかりの、どこか得意そうな顔をしていた。
「子ども相手って、それ、大丈夫かな。ってかJ美ってことは女の人だろ?」
「当たり前だよ。女子大だもん」
美大、芸大について調べ始めたばかりで、俺もトシヤも校名を縮めて言うだけで通っぽい気がしていた。聞き慣れない響きは専門家の隠語のようなかんじだった。
「結婚前の腰掛けだったら、あんまりアテにならないかも。だって、自宅に石膏像とかあんのかな」
通うとしたらバスだ。無理をすれば自転車でもいけるかもしれない。少し面倒になって難癖をつけた俺に、トシヤはずるずると牛乳を吸って言った。
「話だけでも聞いてみりゃいいじゃん。油彩科の受験のことだけでもさ。予備校決める参考になるし。お前のおじさん達じゃ、情報古過ぎなんだって」
それはいえてる。
電話番号を教えてもらい、出しゃばる母さんをやっと抑えて電話したっけ。出たのは先生のお父さんで、俺はなんか拍子抜けしたんだ。こっちは自分でかけたのに、親が出てくんのかよ、って。いい歳した大人がって、そんな気分だった。
バスを降りると、聞いた通りに小さな公園があった。それに沿って曲がった先が先生の家だった。
スリッパを履いて、固いソファに座って、俺は長いこと待たされた。普通んちじゃないか。それが最初の感想だ。母屋を通り抜けた離れで、十二畳とかそれくらいだろう。半分が板敷きで半分がカーペット。ソファとコーヒーテーブル、だだっ広い机と大きなイーゼルがあった。
コチコチと時計の音だけがしていた。壁に掛かった時計はありきたりな木製で、通されてからすでに十五分は経っていた。手持ち無沙汰が苦手な俺は、こっそり立ち上がった。キイッとかすかに床が軋む。それ以上音を立てないように机を廻り、イーゼルに掛かった描きかけの画を覗き込んだ。
牛か馬の頭の骨。ぽつんと配置された大きな貝。何色、という説明は今もできない。覚えているのはただ、無音の空間、という印象だけだ。取り残されたような、永遠に静止したような──。
俺はおそらくぽかっと口を開けていたんだろう。ドアが閉まる音がしたと思ったら、すぐそばで床が軋んだ。すごく小柄な女の人が、にやっと笑ってこっちを見ていた。
「加賀・・・顕<あきら>君?」
「すみません。勝手に見て」
「こっちこそ、待たせてごめんなさい」
薄い水色のワンピースを着ていたと思う。俺はソファに飛んで戻り、神妙に先生を観察した。向かい合って座るとほんとに華奢で小さくて、指なんか握ったら折れそうだ。ウェーブのかかった髪を片手で手早く団子にまとめ、胸ポケットに差していた髪留めで止めた。それからきびきびとした動きで、茶托に乗ったお茶を飲む前にどかしてしまった。
「作品持ってきた?」
慌ててカルトンに手を伸ばした。どうやって絵を持ち運ぶのかも知らず、美術室から無断拝借した二枚の間に挟んできた。大きなクリップを外してテーブルに乗せると、先生は一枚ずつそっと浮かすように取り扱った。
ソファから立ち上がり、目を細め、一枚を見るのに長い時間をかける。一体何を見ているのかと、こっちは段々気もそぞろになってくる。木炭デッサンを四枚、美術の授業で描いた水彩の生物画が一枚。
「高一だっけ」
顔も上げずに言われ、はあ、とだけ答える。
「予備校行ってるんだっけ」
「いいえ。まだ」
そこでまた言葉は途切れた。俺はいつの間にか立ち上がっていた。
「受かるわよ」
「は?」
「このまま描けば受かる。志望校どこ?」
「そんなのは、まだ・・・わからないし、決めてないし・・・」
最後の水彩を見下ろして腕を組み、先生はにやあ、と笑った。奥二重の目が弓形に細くなり、細い鼻の両脇でソバカスが変形していた。なんだか猫が笑ったように見えた。
「芸大にしよう。ここじゃ狭くて描けないから、描いたものを持ってきて。それを講評します。デッサンは石膏と静物と同時進行で。油彩はもう少し後でもいいけど、経験ある?たしかご親戚がそっち系だったっけ?」
目が回りそうな早口だった。メモをとろうにも、俺はカルトン以外手ぶらだった。
「油彩はやってます。伯父がM美で、もう一人は教育大の美術科で・・・あの、ナニ芸大ですか」
先生はますます面白そうに目を光らせて俺の進路を決めてしまった。
「T芸術大学に決まってるじゃない。ああ、わたしは恩田麻実です。よろしく」
*****
麻実先生のところに通い出してすぐ、二年の女子の先輩がカルトンを入れる手提げをくれたっけ。肩から掛けられるようになっていて、脇で挟むとなんとか自転車が漕げた。美術準備室でキスしたけどそれっきりだ。手作りだったのに、悪いことをしたような気がする。
なにしろすっかり絵を描くことにのめり込んでいた。勉強はまったく投げていた。名前さえ書ければあとは腕で、学科試験などないのと同じだと言う、叔父の言葉を担保にしていた。
かといって、夢のようにすくすくと育ったわけじゃない。麻実先生は辛辣な批評家で、週に一度、俺は毒舌を浴びに通っていたようなものだ。技術的なことに始まって、すぐに意識だの意図だの心象だのと、精神論でやっつけられるパターンだった。
「でも先生、まずは入れなきゃどうしようもないんだけど」
「どういうこと」
「だから、突破できる描き方も必要でしょ?」
おもねって描くなと言われてむっとした俺は、珍しく反論した。慣れもあって、逆らってみたくなっていた。
先生はソファに沈んで、子どもでもあやすように俺を見た。いつものように腕組みをして、笑わずに言った。
「しょうもない受験テクを会得するために、貴重な時間を使うのはやめなさい。大事な感性を鈍らせることになるよ。描くのは一生のことで、ずっと続いていく。でも時間には限りがある」
しょうもないと言われて絶句した俺に、先生はなおも続けた。多分俺が聞いていなくてもどうでも良かったんだろう。こうして今でも覚えているけれど。
心象を描きなさい、それがどういう表現であれ、肉体を通したものを再構築して描きなさい。でなきゃ意味がないでしょう。自分っていうフィルターの存在価値がないでしょう。
学科試験など関係ない、そう言っていっさい勉強しなくなった俺を、こきおろしたのも先生だ。
「何をするんでもバカなのは最低。感性と知性は共存できるのよ。補い合うって言った方がいいかな」
「それって、俺がバカってこと?」
ふて腐れて見せても、ポーズはすぐにバレた。俺の方がよっぽどガタイがデカいのに、先生はぽんぽん頭を叩いて笑った。
「感じたことを言葉にしなさいね。正確な言葉を探すの・・・それって描くのと同じ作業なんだから」
時間はあっという間に過ぎていった。夏休みも同じペースで通った。トシヤは大手予備校に通い初め、何度も誘われたが結局断った。
麦茶と一緒に出してもらった西瓜の赤を今でも思い出す。それに反して先生の顔色は紙のように白くなり、夏だというのに長袖を着ていた。いつも立ち上がって俺の絵に難癖をつけていたのが、床に置いて椅子に座って喋るようになった。二年に一度しかない大きな公募に出すと言っていた例の絵は、締め切りの後もイーゼルにかけられたままだった。
そしてとうとう、次は休みにするという電話がかかった。昼間で俺は学校に行っていて、伝言を受けたのは母さんだった。いつもそうだ。絵のことはあんなにビシビシ言うくせに、本当に言いにくいことは面と向かって言わない。三度も休みが続いた後、俺は見舞いという名目で無理矢理押し掛けた。溜まった作品で膨らんだ手提げを背負って。
「生まれつき心臓疾患があって、小さい頃から病院がお友達よ。絵描きも体力が勝負なのよね。もう分かってると思うけど。仕上げられなかった。倒れて入院しちゃって」
華奢な身体つき。透けるような頬。目元は窶れて紫色の陰が差していた。瞼に蒼い花が透けてるようで、俺はちょっとドキっとした。縁起でもないものの指先が、先生にちょこっと触れた跡みたいに見えたから。
「先生の絵が一番良かったに決まってるのに。あんなに静かで淋しい骨はないよ。麻実先生は時間を止めるんだ。空気も変える。なにかもっと乾いた、さらさらした透明のものが詰まってるんだ。先生の絵には・・・」
ありがと、そう言って先生は、億劫そうに笑った。イーゼルは隅に寄せられて、代わりに置かれた大きな藤椅子の膝掛けの中に、小さな身体が埋まっていた。
気がついたら俺は、細くて小さい手を握っていた。すっかりウェーブがなくなった洗いっぱなしの髪が、頬にぱらぱらかかっていた。それをどけて、俺はあろうことか先生にキスをした。唇を押し当てるだけの・・・だってキスっていうのはそういうものだと思ってたから。
唇を合わせてじっとしてる俺に、先生は言ったんだ。
「ごめんね」
恥ずかしくて顔が燃えそうだった。先生はすっかり目を開けていた。静かな微笑みの前で、俺はおそろしく取り乱して顔を離した。細い指をへし折りはしなかったかと恐れた。
「あたしが芸大に入れるって言ったのに──見届けなくてごめん」
「なに謝ってんの」
俺はそのまま、後ずさりして逃げ出した。謝罪を受け入れたら終わっちゃうじゃないか。あと一年あるのに、変なこと言うなよ!
透けるように笑って、先生はじりじり下がる俺を見ていた。どうやって母屋を通り抜けたのか、先生のお母さんは居たのか、まるで覚えていない。とにかく靴を履いて、気がついたら自転車を漕いでいた。手提げごとカルトンを忘れてきたことに気がついたのは、家に着いてからだった。
母さんは、全身にめいっぱい同情を浮かべていた。彼女のお父さんから電話があったらしい。遠くで長期入院することになって、教室を続けることは難しくなったと。俺はただ、もう知ってるとだけ答え、どたどたと自分の部屋に上がった。
俺は予備校に行かなかった。無謀だとトシヤに呆れられたが、せいぜい美術雑誌の特集を見るくらいで、三年になってもそれは変わらなかった。
油画科に現役で受かったのは五十五人中、四人。予備校の経験がないというと、みな本当に驚く。そしてこう言うと、揃って苦笑いをするのだ。
──しょうもない受験テクを会得するために、大事な時間を使うのはやめろって言われてね。
*****
真面目に予備校に通い詰めたトシヤも、無事に現役でデザイン科に受かった。慣れない下宿生活でお互いバイトだ何だと忙しく、電話をしたのも久しぶりだった。
「カネがないって実家に泣きついてさ。代償にお袋の世間話につき合ってたんだけど、お前がちょっとだけ習ってた絵の先生。ほら、J美出て、絵画教室やってた・・・」
「ああ。恩田さん」
言われなくてもすべて覚えている。母屋を通っていく離れも、スリッパの柄も。ちょっとだけ習ってた、そう言われると切ないものがあった。
「亡くなったって。知ってた?」
「──いや」
重たいものが胸に沈んだ。漬物石でも飲み込んだようだ。喉が塞がって、声がうまく出なくなった。
「つい先月のことらしい。それで、遺作展をやるらしいんだ。ダンナさんの主催で」
「ダンナ?」
「心臓外科医なんだって。ずいぶん畑違いだよな。玉の輿ってやつ?お前のとこにはDM届くだろうから、お袋さんに聞いてみなよ」
あっそう。やっと声を押し出した時には電話は切れていた。異質の空気に満たされ静止した絵画空間。麻実先生は永遠にあの世界の住人になったのだ。
「圧縮、凝縮」
声に出して呟き、俺は散らばったクロッキーを裏返した。大きく書き付けてじっと見下ろす。
「静謐」
もうひとつ加えようとしたが、ひつ、という字が書けなかった。鉛筆を放り出し、俺はすぐに抱ける女友達のリストを頭の中で手繰りはじめた。とても一人では居られなかった。その時は知らなかったんだ、俺の描いたものが遺作展に並ぶなんてこと。先生の横顔を描いた後、照れ臭くなって馬の頭骨と鸚鵡貝を重ねて描いた。なんだか妙にファンタジックで、滅茶苦茶な構図になってた気がする。あの日手提げごと忘れたんだ・・・。十七の夏。初めてまともに描いた油彩だった。
(了)