6 そんな王子の恋模様
セラムが視察で訪れたのは王都ラーナの西、貴族街からも歓楽街からも遠く離れた地帯。
そこは寂しく薄汚れた地帯だった。
人が賑わい行き交うアベンタ通りの商店街とは裏腹に立ち並ぶのはカビた野菜やパンを売る埃だらけのお店。
辺りを行き交う人々はボロ布のような服を纏い、整備されていない砂利だらけの道を歩くその横顔もどこか鬱屈そうに見える。
辛うじてあるお店の通りの外れには壁を張り合わせただけのボロボロの小屋が続き、時々見える人影から中で人が生活する居住空間なのだと判断できる。
ここは王都の外れにある唯一のスラム街だった。
王国としては発展し、人々の生活も比較的潤っているレラージャ王国と言えど、貴族身分のものがいて、平民が存在する身分制度のように生活レベルにも上下が存在する。
ここはその最下層に当たる場所だった。
スラム街に来る人々の理由は様々だ。借金を返済できず家を差し押さえられ、行く宛てがなくなったもの。
働き口を失い、酒に溺れるもの。理由は様々だが、共通するのは「他に行くあてがないから」ということ。
このスラム街は、そういうもの達にとっての最後の受け入れ口でもあるのだ。
だからと言ってこのままにしておいていいはずがない。
セラムは公務の一部を任されるようになった15歳の時からこのスラム街へ定期的に訪れ、生活レベルの向上のための下水道配備、生活保護制度の確立、仕事の斡旋、自らが立ち上げた事業への求職者の受けいれなどスラム街の人々と積極的に交流をはかり、彼らの社会復帰への自立支援を行ってきた。
最初は『王族で偉そうだから』とセラムを拒絶していた彼らも、根強い王子の説得や交渉、対話を経て友好的な関係を築きあげていた。
比較的ひらけた場所に馬車を止め、降り立ったセラムと従者レイスを一人の男が迎え入れる。
男はこのスラム街を取仕切る代表者だ。
「おお、殿下。よくいらっしゃいました。毎度こんな汚いところにおいで頂き恐縮ですよ」
「いや、そんなことはない。ここは素朴ながら暖かさに満ちた場所だ。皆がどのような生活を送り、どう過ごしているのかをリアルに感じられる。私はこの場所が好きだよ」
「殿下にそう言っていただけて光栄ですよ。さて今日は工場の視察でしたね。稼働状態も良好で子どもたちもよく働いてくれるので助かっていますよ。ご案内します、どうぞこちらへ」
「ああ」
男に連れられ、セラムとレイスは新たに作られたばかりの紡績工場の様子を視察した。
「思ったより良好そうで安心したな」
「そうですね。子どもたちも楽しそうに糸を紡いでいましたし。糸を売ったお金は子どもたちの教育に当てられるそうですよ。今、学校の建設が計画されているそうです」
「それはいいな。読み書きができるだけでも仕事の幅が増える。我が国の識字率が上がれば、それだけ国が豊かである証拠にもなるからな」
少しずつスラム街の住人の意識が向上している。
前は街の薄暗さにあてられたように暗い顔ばかりだった住人たちにも、少しずつ笑顔が見え始め、街も活気を取り戻しつつある。
このまま皆が明るく笑い合える未来を作るのが、セラムの仕事だ。
紡績工場で働く子どもたちの笑顔を思い出しつつ顔を綻ばせたセラムは、すっかり傾いてしまった太陽を見ながら、次の予定を思い出す。
「しまった。今日は劇団の公演に招かれていたんだったな。巷で人気があるそうじゃないか、今から行って間に合うかどうか……」
「とりあえず折角招待されているのですから行くだけ行ってみましょう。途中からでも間に合うかもしれません」
「そうだな」
急いで馬車に乗り込み、王都の外れから中心地に戻るまでセラムは馬車に揺られながら、昼食と仮眠をとった。
*
劇団ラインズセンスは元々下町にある小さな劇場での活動を主とする小規模な劇団だった。
昔からあった平民が労働を忘れて休日を過ごす憩いの娯楽として小さな劇団は皆に親しまれていた。
ところがある時、活動の拠点としていた劇場が取り壊されることになり、劇団は存亡の危機に陥る。
ストリートパフォーマンスで日銭を稼ぎながら、いっその事旅の一座として各地を回ろうかと団長が考えていた矢先、歓楽街に事業を繰り出そうとしていたセラムと知り合うことになる。
そうしてセラムが出資する形で歓楽街屈指の大劇場が出来上がり、スラム街で芸が達者な人物を団員としてスカウトしつつ育成、紆余曲折を経て劇団ラインズセンスは成長を遂げ、王国一の劇団となった。
数ある公園の中でも一番の人気は容姿端麗なものが多いレラージャ王国の特色を活かしての女性をターゲットとした『美形の楽園』シリーズ。
十代後半から三十代までの特に美形俳優だけで構成された劇団の長所を活かして公演されたこの舞台は見事にアタリ、着実にファンを増やしていった。
団長のラチェット・ディクソンはそんなこんなで契機を与えてくれた第一王子セラムに感謝してもしきれないくらいの恩を感じており、今の劇団ラインズセンスが、どれだけ成長したかを知ってもらいたくて今回の公演にセラムを招待したのである。
そんな劇団では感謝を込めた限定イベントでファンとの交流を重ねつつ、未だ王子が姿を表していないことにラチェットは軽く落胆していた。
――殿下はまだ来られていないのだな。仕方ない。多忙な方だから。
内心では落胆しつつも、しっかりファンサービスも忘れない。
観覧に来てくれたお客様にしっかりと笑顔を返し、ラチェットは握手を交わしていた……はずだった。
――しかし握手会のはずだったのになぜ俺は今こんなことをしているのだろうか?
ドン!
「きゃあああああ!!」
令嬢を挟んで壁を右手で叩きながら、歓声を上げる令嬢を見下ろす。
ラチェットと視線を組み交わす形になった令嬢は至近距離で圧倒的美形の視線を受けて、ぼっ、と顔全体が茹で上がるように真っ赤になった。
「あ、ありがとうございましたぁー!!」
「あ、こちらこそ。またのお越しをお待ちしております」
フラフラになりながら逃げるように離れていった令嬢を見送りつつ、ラチェットは次に並んでいた女性へと目を向ける。
貴族らしき優美なドレスに身を包んだ令嬢は胸の前で手を交差させ、モジモジしながらこう告げた。
「わたくしも壁ドンを希望しますわ!」
――そう。握手会のはずのこのイベントは何故か今や『壁ドン』イベントと化していた。
ことは単純。最初は普通に握手をしていたのだが、ふとある令嬢がこんな要望をしたのだ。
「あの、私を挟んで壁をドンッてしてくれませんか?」
にこやかな劇団員は直ちに要望に応じ、壁に立った令嬢に視線を合わせるようにしてドンッと、壁を叩いた。
組み交わされる視線、至近距離で見つめる美形男子。
このより近くでイケメンを感じられる神シチュエーションに、この魅惑の組み合わせに、様子を見ていた他の客が食いつかないわけがなかった。
「わ、私も壁ドンお願いします!」
「私も! ドンッてしてください!!」
瞬く間に『壁ドン』は伝染していき――、握手会は見事に『壁ドン会』へと変貌を遂げたのである。
ラチェットは困惑しつつも令嬢の要望通りに壁ドンを済ませ――次のお客に目を向けて、驚きに目を見開いた。
次の女性も貴族令嬢らしき少女。体を締め付けないゆったりとしたデザインのドレスを身にまといながらも、その美麗さは損なわれていない。
赤みが強いストロベリーブロンドを、優雅にサイドアップにし、深い紫のドレスに映える真珠のネックレスにお揃いのイヤリングをつけ品の良さを感じさせる。
整った美貌は恐ろしく無表情だったが、見るものを魅了する独特な雰囲気を持った少女だった。
ドレスと同じ紫の双眸でこちらを真っ直ぐに見つめ、形の良い薔薇色の唇が涼やかな声を紡ぐ。
「私も壁ドンをお願いします」
そう言って少女は優雅な所作で壁際へと歩く。
あまりにも麗しい立ち居振る舞いに見惚れそうになりながら、ラチェットは半ば緊張しつつ少女――イリスの前にたった。
「――では、失礼させて頂きます」
柄にもなく緊張した彼は震える右手を恐る恐るトン…と壁にあて、イリスを見下ろす。
近くで見れば見るほど怜悧な美貌がこちらを捕らえて、ラチェットは思わずゴクリと、唾を飲んだ。
神秘を感じさせる紫の瞳を真正面に見据え、不思議な想いに捕らわれつつその魅惑の双眸から目が離せない。
一秒が一分にも感じられる。見つめてどれだけの時が過ぎたか。
不思議と吸い寄せられるように彼女の頤に左手をかけようとして――。
「その壁ドン、待ったあああぁぁぁ!!!」
掛け声と共に割り込む人影。
突然の闖入者に驚き、ラチェットはイリスから目を離した。
次いで視界に入るのは、こちらを睨み見据える、麗しの尊顔。
蒼碧の瞳に警戒の色を顕にしながらイリスを庇うようにして立つのはなんと――第一王子セラム。
絶世の美貌に静かな怒りを携えてこちらを睨みつけるセラムに、ラチェットは思わず冷や汗をかく。
――なんだ、何がどうなっているんだ!?
全く要領を得ない状況に、思わずラチェットは叫びたくなった。
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