届かない手
三日後の朝、王宮の空気が一変した。
ルーカスが血相を変えて研究院に飛び込んできたのだ。いつもの気さくな笑顔はどこにもなく、頬が紅潮している。
「リゼロッテ殿、陛下がお呼びだ。——ガルディアから外交文書が届いた」
その声の硬さだけで、ただ事ではないとわかった。
◇ ◇ ◇
謁見の間に入ると、フリードリヒ陛下が立ったまま一枚の羊皮紙を手にしていた。
初めて見る表情だった。穏やかな碧い瞳に、静かな怒りの炎が灯っている。温厚な人ほど、怒ったときの迫力が凄まじいというのは本当だった。
「リゼロッテ殿。これを読んでください」
差し出された文書を受け取る。ガルディア王国の紋章が押された、正式な外交書簡。
目を通して——息が止まった。
『リゼロッテ・フォン・ブランシュはガルディア王国の国家財産である。国際法に基づき、即刻引き渡しを要求する』
——国家財産。
父の手紙にあった言葉が、公式文書として目の前に突きつけられている。
文面はさらに続いていた。
『リゼロッテ・フォン・ブランシュの魔力は国家防衛の根幹であり、その離脱はガルディア王国に対する重大な損害をもたらしている。ヴェルムント王国が当該人物を庇護し続けることは、友好関係への重大な挑戦と見なす』
手が震えた。文書が、かさかさと音を立てる。
——友好関係への挑戦。
要するに、引き渡さなければ戦争も辞さないという脅しだ。
「陛下、この文書は——」
「返答はすでに起草しました」
フリードリヒ陛下の声は、冬の湖のように静かで、底知れない冷たさを湛えていた。
「『人間を「財産」と呼ぶ国に、我が国は何一つ引き渡さぬ。リゼロッテ殿は我が国の賓客であり、その意志は最大限に尊重される。これ以上の非礼は看過しかねる』——と」
涙が、不意にこぼれた。
堪えようとしたのに、止められなかった。一度溢れ出すと、次から次へと頬を伝い落ちていく。
「陛下——ありがとう、ございます」
声が詰まった。みっともないと思うのに、嗚咽が漏れるのを抑えられない。
「人として——扱っていただけることが、こんなに嬉しいとは——」
五年間、道具として扱われた。婚約破棄されてなお、「国家財産」として所有を主張される。
そんな中で——この人は、私を人間として守ると言ってくれている。
フリードリヒ陛下が静かに近づき、大きな手を私の頭に置いた。父がするように。温かく、重みのある手のひらだった。
「泣かなくていい。あなたは我が国にとって、何よりも大切な客人だ。——いや、客人以上だ。あなたは家族です」
その言葉で——本当に泣き崩れてしまった。
◇ ◇ ◇
「あいつら、本気で頭がおかしいな」
謁見の間を出た後、回廊でルーカスが壁に拳を叩きつけた。石壁に鈍い音が響く。
「人を物扱いする国に、あんたを渡すわけないだろ。冗談じゃない」
「ルーカスさん、手が——」
「ん? ああ、大丈夫大丈夫。石壁には負けるな、俺の拳」
赤くなった拳をぶらぶらと振りながら、ルーカスは苦笑した。怒りを隠そうとしているのに、目の奥の炎が消えていない。
隣を歩くエルヴィラが、静かに言った。
「学術的見地からも、魔力の搾取は非人道的行為です。他者の魔力を強制的に吸引することは、ヴェルムントでは犯罪に等しい。まして相手が同意していない場合は——言語道断です」
「エルヴィラさん……」
「あなたは五年間、犯罪に等しい行為を受け続けていたのです。それを公的に正当化しようというのなら、我が国はあらゆる手段で反論します」
エルヴィラの声に、普段の学者然とした穏やかさはなかった。同じ魔力の担い手として、搾取を許さないという意志が滲んでいた。
——守ってくれる人が、こんなにいる。
ガルディアの王宮では、誰も私を守ってくれなかった。侍女のマリアだけが、静かにそばにいてくれた。
今は違う。国王が、魔術師長が、騎士が——私のために怒り、私を守ろうとしてくれている。
当たり前のことが、当たり前ではなかった場所から来たからこそ——この温かさが、胸に痛いほど沁みた。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻、緊急の報告が入った。
ガルディアが国境に軍を集結させ始めたという。
「兵力は騎士団を中心に三千。魔術部隊を含む精鋭です」
ルーカスが地図を広げながら、険しい顔で説明する。
「外交文書の返答を待たずに軍を動かしたのか。……完全に正気を失っているな」
フリードリヒ陛下の声は低かった。
「軍の目的は?」
「表向きは国境警備の強化。しかし実際には——リゼロッテ殿の強制奪還を視野に入れていると考えるべきでしょう」
ルーカスが私をちらりと見た。申し訳なさそうな目だった。
「すまない。怖がらせるつもりはない。でも、正確な状況を知っておいてほしい」
「いいえ。隠されるよりずっといい」
——ガルディアでは、いつも何もかも隠されていた。知らされず、聞かされず、ただ黙って魔力を渡していればいいと。
もう、そんな扱いは受けない。
「陛下、ヴェルムントも警戒態勢を?」
「もちろんです。国境守備隊に増援を命じました。ただし——戦争は避けたい。我が国にとっても、ガルディアにとっても、利益のないことです」
陛下の判断は冷静だった。けれど、冷静であればあるほど——事態の深刻さが際立つ。
戦争になるかもしれない。
私一人のことで、二つの国が戦うかもしれない。
その重みが、肩にのしかかった。
マリアが私の手をそっと握ってくれた。冷えた私の指先を、温かい手のひらが包み込む。
「一人で抱え込まないでくださいね、お嬢様」
「……ありがとう」
握り返す力が、情けないほど弱かった。
◇ ◇ ◇
夜遅く、エルヴィラが私の部屋を訪ねてきた。
灯りを落とした廊下に立つ彼女の表情は、深刻だが——どこか期待に似た光を帯びていた。
「夜分にすみません。どうしても、今夜お話ししておきたいことがあるのです」
「……何でしょうか」
「ガルディアが軍を動かすなら、この国も対応しなければなりません。ですが——」
エルヴィラは一呼吸置いて、まっすぐに私を見た。研究院の碧い燈火が、彼女の眼鏡の奥の瞳を照らしている。
「もしあなたの力があれば、戦わずに済む方法があるかもしれません」
「戦わずに——?」
「あなたの『大地の魔力』について、お話ししたいことがあります。あの力の本質は——結界を張ることではなく、大地そのものを書き換えることにあるのです」
大地を、書き換える。
その言葉の意味を、まだ私は理解できていなかった。けれど——胸元のペンダントが、微かに温かく脈動し始めていた。
母の形見が、何かを伝えようとしている。
「明日、詳しくお話しします。今夜はお休みください」
エルヴィラが去った後、窓辺に立って東の空を見た。
赤い光は、もう明滅ではなかった。ゆらゆらと揺れる赤い帯が、夜空の端を焦がしている。
——時間がない。
掌を見つめた。かすかに碧い光が灯っている。始源級と呼ばれた、この力で。
戦わずに、済む方法。
それが何なのかはまだわからない。でも——知りたいと思った。逃げるためでも、言いなりになるためでもなく。
私自身の力で、何かを変えるために。




