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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
1章 蛇口は閉じた

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崩れゆく王国

 父からの手紙は、インクの匂いに混じって、かすかに煤の臭いがした。


 ヴェルムントに来て十日目の朝。朝食の席でマリアから受け取った封書は、いつもより分厚かった。ブランシュ家の封蝋を爪で割り、便箋を広げる。


 ——父の筆跡が、わずかに乱れていた。


 それだけで、胸の奥がざわついた。あの几帳面な父が、字を乱すほどの事態が起きている。


 ◇ ◇ ◇


 手紙の内容は、想像以上に深刻だった。


『大結界の崩壊が、北部だけでなく東部にまで及んでいる。三つの男爵領が魔物の被害を受け、領民が王都に流れ込み始めた。王宮には連日、貴族たちが抗議に押しかけているらしい』


 便箋をめくる指先が、冷たかった。


『殿下は——焦っている。宮廷魔術師たちの魔力を無理やり吸い上げて、結界の修復を試みたそうだ。だが失敗した。三人の魔術師が倒れ、うち一人は意識が戻らないと聞く』


 ——魔力を、吸い上げた。


 手紙を持つ手が、かすかに震えた。


 あの方は、まだ同じことをしている。私にしていたことと、まったく同じことを。他人の魔力を奪い、自分の力に変え、それで何とかしようとしている。


 あの方にとって魔力とは、搾り取るものでしかないのだ。学ぶものでも、敬うものでもない。ただ奪い、消費する燃料。


 ——五年間、私もそうされていた。


 吐き気に似た感覚が胃の底からせり上がってきて、私は手紙をテーブルに置いた。


「お嬢様?」


 マリアが心配そうに覗き込む。


「……大丈夫。少し、苦い内容だったから」


 深呼吸をして、続きを読んだ。


『宮廷内では、殿下への不信感が広がっている。「殿下のやり方はリゼロッテ殿にしていたことと同じではないか」という声が上がっているそうだ。遅すぎる気づきだと思うが、それでも声を上げる者が出てきたことは、小さな進歩なのかもしれない』


 小さな進歩。


 ——五年、遅い。


 あの王宮で、私が毎日のように魔力を吸い取られていた五年間。誰も声を上げなかった。誰も「おかしい」と言わなかった。それが今になってようやく——魔術師たちが同じ目に遭って初めて、「これは間違っている」と気づいたのだ。


 怒りではなかった。もう怒る気力もない。ただ——虚しかった。


 ◇ ◇ ◇


「リゼロッテ殿。今朝のガルディアに関する報告です」


 午後、エルヴィラが研究院の一室を訪ねてきた。彼女もガルディアの情勢を追跡しているらしく、手元に細かな文字の報告書を抱えていた。


「ヴェルムントの情報網からの報告ですが、東部の崩壊は加速しています。現在の大結界は全体の六割程度にまで縮小していると推測されます」


「六割……」


「はい。残り四割の地域では、もはや結界の恩恵がありません。領地ごとの独自結界で凌いでいるようですが、魔力の供給源がない以上、時間の問題です」


 エルヴィラの声は冷静だったが、瞳の奥に深い憂慮が見えた。


「殿下が魔術師の魔力を吸い上げたという話も確認されました。あれは——共鳴理論の観点から言えば、最悪の手段です」


「最悪?」


「魔力の強制吸引は、供給側の魔力回路を損傷させます。一度損傷した回路は、自然には回復しません。つまり殿下は、国に残っていた魔術師の力を——永久に壊してしまった可能性がある」


 背筋を冷たいものが走った。


 あの方は結界を守ろうとして、結界を維持する手段そのものを破壊してしまったのだ。


「……救いようがない」


「厳しい言い方ですが、そう思います。魔力を理解せず、ただ力で解決しようとした結果です」


 窓の外では、ヴェルムントの街が午後の日差しを浴びて穏やかに輝いていた。子供たちの笑い声が風に乗って聞こえる。光の球を浮かべて遊んでいるのだろう、きらきらとした粒子が窓辺まで漂ってきた。


 同じ空の下で、もう一つの国が壊れていく。


 この穏やかさと、あの崩壊が——同時に存在している。


 ◇ ◇ ◇


 夕暮れ。一人でテラスに出て、東の空を見つめた。


 赤い光の明滅が、十日前より明らかに強くなっている。もう目を凝らさなくても見えるほどに。


 あの光の下で——人々が苦しんでいる。


 かつての領民たちが、逃げ惑っているのだろうか。ブランシュ領は父の独自結界で守られているはずだが、それにも限りがある。


 子供たちは、怖い思いをしていないだろうか。


 市場のパン屋の奥さんは。図書室で本を貸してくれた老司書は。庭園の手入れを手伝ってくれた庭師のおじいさんは。


 ——私が背負う必要はない。


 そう、頭ではわかっている。あの国が崩れていくのは、あの国自身の過ちの結果だ。私から搾取した魔力に依存し、私を失ったときの備えを何一つしてこなかった。自業自得だと、理屈では言える。


 でも——心は、理屈で動かない。


「お嬢様」


 マリアがショールを持ってきてくれた。夜風が冷たくなっていたことに、そのとき初めて気づいた。


「お体を冷やしてしまいます」


「ありがとう、マリア」


 ショールを受け取りながら、ふと聞いた。


「ねえ、マリア。あなたは——ガルディアのこと、心配?」


 マリアは少し黙ってから、正直に答えた。


「はい。あの国は私たちを大切にしてくれませんでしたけれど——それでも、私が育った場所ですから」


 ——そうだ。私もだ。


 どれだけ辛い思いをしても、あの国で育ち、あの国の空気を吸い、あの国の大地を踏んで生きてきた。


 それは消えない。消せるものでもないし、消す必要もない。


 ただ——今の私にできることが、あるのだろうか。


「お嬢様。お手紙の追伸、お読みになりましたか?」


「追伸?」


 慌てて部屋に戻り、先ほどの手紙の最後の一枚をめくった。


 ——見落としていた。便箋の裏に、小さな文字で追伸が書かれていた。


『追伸——気をつけろ、リゼロッテ。宰相が動いた。お前を「国家財産」として強制帰還させる法案を、議会に提出したらしい。ブランシュ家が全力で阻止するが、予断を許さない状況だ。くれぐれも、気をつけてくれ』


 ——国家財産。


 その四文字を見つめて、しばらく動けなかった。


 私は人間ではなく、物だというのか。国の財産として、所有権を主張するというのか。


 手紙を握りしめた手が、白くなるほど力が入っていた。


 ペンダントが、胸元で小さく脈動した。母の形見が——怒りに応えるように、冷たい光を放っている。


 ——あの国は、まだ私を道具だと思っている。

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