搾取しない国
ヴェルムント王都の城門は、思っていたよりずっと大きかった。
白い石壁に、青い魔力の紋様が刻まれている。紋様は淡い光を放ち、門をくぐる人々をそっと照らしていた。ガルディアの城門は重厚な鉄と石で威圧するものだったけれど、ここは——迎え入れてくれるような、温かさがあった。
門をくぐった瞬間、肌を撫でる空気が変わった。魔力を含んだ風が、花の香りを運んでくる。
「公爵令嬢殿?」
門の内側で、一人の青年が手を振りながら駆け寄ってきた。明るい茶髪に、日焼けした肌。騎士の軽装を纏っているが、佇まいに堅苦しさがない。
「陛下がお待ちかねだ。——って、本当に来てくれたんだな!」
満面の笑みだった。初対面の人間に向ける顔としては、あまりにも屈託がない。
「……あなたは?」
「あ、すまない。俺はルーカス。陛下の甥で、今日はお迎え役を仰せつかった。よろしく!」
国王の甥。王族の一人だ。なのにこの気さくさは——ガルディアの王族とは、まるで違う。あの方が初対面の相手にこんな顔を見せることは、一度もなかった。
「リゼロッテと申します。ご丁寧にありがとうございます」
「かしこまらなくていいよ。ヴェルムントはそういう堅い国じゃないから」
ルーカスは馬車の扉を開けてくれながら、にっと笑った。マリアが私の後ろで、ぽかんとした顔をしていた。無理もない。私も同じ顔をしていたと思う。
◇ ◇ ◇
王宮へ向かう道中、私は馬車の窓に釘付けになった。
街が——生きている。
市場では、商人が保存魔法をかけながら果物を並べていた。透明な魔力の膜が食材を包み、みずみずしい色艶を保っている。隣の鍛冶屋では、職人が加工魔法で金属を自在に曲げていた。赤く熱された鉄が、魔法の力で美しい曲線を描く。火花が散るたびに、魔力の粒子がきらきらと光った。
道端では子供たちが、小さな光の球を浮かべて遊んでいた。きゃっきゃと笑い声が響く。光の球がぽんぽんと弾んで、虹色の軌跡を描いている。
「ルーカスさん。この街では、誰でも魔法を使うのですか?」
「ん? ああ、そうだよ。ヴェルムントでは魔力は個人の才能だから。使える人は自由に使う。もちろん訓練は必要だけど、禁止なんてされない」
衝撃だった。
ガルディアでは、魔法は王族と宮廷魔術師の特権だった。一般の民が魔法を使うことは厳しく禁じられていた。魔力を持つ者は宮廷に召し上げられ、国のために——つまり王族のために使役される。
私自身、それが当たり前だとずっと思っていた。疑問を持つことすらなかった。
「……信じられない」
「え、何が?」
「こんな世界が、すぐ隣にあったなんて」
ルーカスが不思議そうな顔をした。彼にとっては、これが当たり前の日常なのだ。
パン屋の前を通りかかったとき、焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。温かくて、甘くて、幸せな匂い。店先では女主人が保温魔法をかけたパンを笑顔で売っている。子供が小銭を握りしめて走ってきて、「魔法パンちょうだい!」と叫んでいる。女主人が笑って、ふわふわのパンを手渡していた。
——魔法が、人を幸せにしている。
ガルディアでは、魔法は支配と防衛の道具だった。恐れられ、管理され、搾取されるもの。でもここでは、暮らしの一部になっている。人々の笑顔の中に、自然に溶け込んでいる。
◇ ◇ ◇
王宮は、白い石造りの美しい城だった。
謁見の間に通されると、玉座に一人の男性が座っていた。五十代半ば。白髪に近い金髪と、穏やかな碧い瞳。威厳はあるが、圧迫するような気配はない。
フリードリヒ三世。ヴェルムント国王。
「ようこそ、リゼロッテ殿」
立ち上がり、私のもとへ歩み寄ってきた。——国王が自ら、客人に歩み寄る。ガルディアでは考えられないことだった。あの方なら、玉座から一歩も動かなかっただろう。
「長い旅路だったでしょう。まずはゆっくり休んでください」
「お心遣い、ありがとうございます。陛下のお手紙に、心から感謝申し上げます」
「手紙に書いたことは、すべて本心です」
陛下はまっすぐに私を見た。その碧い瞳に、嘘の色は見えなかった。
「我が国では魔力を持つ者は、誰であれ敬意をもって遇される。搾り取られることなど、決してない」
——搾り取られることなど、決してない。
その言葉が胸に沁みた。五年間、私が一番聞きたかった言葉かもしれない。目の奥がじんと熱くなって、慌てて瞬きをした。
「陛下——」
「堅い話は明日にしましょう。今日はまず、宮廷魔術師長を紹介させてください。あなたの力について、正しく理解できる人物です」
陛下が手を挙げると、控えていた女性が一歩前に出た。
三十代半ばだろうか。知的な眼鏡の奥に、鋭くも温かい瞳がある。黒髪を簡素にまとめ、深い紺色の魔術師のローブを纏った女性。ローブの裾に、細かな魔法陣の刺繍が施されていた。
「宮廷魔術師長のエルヴィラです。お会いできて光栄です、リゼロッテ殿」
深々とお辞儀をされて、面食らった。ガルディアの宮廷魔術師たちは、私にお辞儀などしなかった。私の魔力を吸い取る手助けをしながら、道具を見る目でこちらを見ていた。
エルヴィラが私をじっと見つめた。その瞳が、一瞬大きく見開かれる。
「——この魔力量……聖堂級ですね。いえ、もしかするとそれ以上かもしれない」
声がかすかに震えていた。
「ガルディアは、これほどの力を——一人の少女から搾取していたのですか。信じられない」
静かな怒りが、その言葉に滲んでいた。
私のためではなく、魔力を持つ者としての怒り。同じ力の担い手として、搾取という行為そのものへの怒りだった。
——ああ。この人は、わかってくれるのだ。
◇ ◇ ◇
用意された客室は、豪華だが温かみのある部屋だった。
大きな窓から、ヴェルムントの街並みが一望できる。夕暮れの光を受けて、白い尖塔が橙色に染まっている。窓辺には花が活けてあり、甘い香りが部屋に漂っていた。
「お嬢様」
荷解きを終えたマリアが、そっと隣に立った。
「この国は……本物ですね」
「ええ」
私は窓辺に手をついて、街を見下ろした。屋根の上を、子供たちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「ここなら、私は——私でいられるかもしれない」
マリアが静かに頷いた。その目が、少し潤んでいた。
夜になった。ベッドに入る前に、窓辺で月を見上げた。
ふと——遠く東の空に目が向いた。ガルディアの方角だ。
赤い光が、またかすかに明滅していた。
大結界の崩壊が、さらに進んでいる。この距離からでもわかるほどに。
「……殿下は、まだ戦っているのかしら」
呟いた言葉は、夜風に消えた。
あの方を許したわけではない。戻りたいとも思わない。
でも——完全に切り捨てることも、まだできなかった。あの赤い光の下で苦しんでいる人々のことを思うと、胸の奥が小さく疼く。
ペンダントに触れた。碧い宝石は、静かに温かかった。
——母さん。私は正しい場所に来たのでしょうか。
答えはまだ、わからなかった。




