旅路の空
出発の朝は、よく晴れていた。
空は高く、薄い雲が風に流されている。秋の朝の空気はひんやりとして、肌に心地よかった。
馬車の前で、私は驚いた。屋敷の門の前に、たくさんの人が集まっていたのだ。
領民たちだった。
「お嬢様、お体に気をつけて!」
「遠い国でも、お元気で!」
「お嬢様の薔薇、私たちが守りますから!」
小さな子供からお年寄りまで、見送りに来てくれている。手には野の花の花束や、手作りの焼き菓子を持って。一人の少女が駆け寄ってきて、小さな花冠を差し出した。
「お嬢様にあげる! 魔法のお花みたいに、きれいだから!」
草花を編んだ、素朴な花冠。受け取ったとき、指先に草の青い香りが残った。
胸が詰まった。
王宮にいた五年間、私は「王太子の婚約者」としか見られていなかった。名前ではなく、肩書きで呼ばれる日々。でもこの領地では——私はただのリゼロッテだった。花に魔力を注いで、子供たちと一緒に庭を歩いた日々を、この人たちは覚えていてくれたのだ。
「ありがとう、皆さん。必ず——元気にしていますから」
声が少し震えた。それを隠すように微笑んで、一人一人の顔を目に焼きつけた。
庭園に向かい、最後に薔薇の花壇に手を触れた。指先から魔力を注ぐと、薔薇たちが一斉に花開く。赤、白、淡いピンク。甘い香りが朝の空気いっぱいに広がっていく。
「私がいなくても、咲き続けてね」
花弁に残った朝露が、朝日を受けてきらりと光った。まるで返事をしてくれたかのように。
◇ ◇ ◇
正門で、父が待っていた。
護衛の騎士二名が馬車の脇に控えている。父は私の前に立ち、小さな革張りの箱を差し出した。
「これを持っていきなさい」
開けると、青い宝石のペンダントが入っていた。深い碧色の石が、銀の鎖に揺れている。見つめていると、宝石の奥で光が静かに脈動しているような——不思議な石だった。
「母上の……?」
「セレスティアの形見だ。お前が生まれたとき、いつかこの子にこれを渡してほしいと言っていた」
首にかけると、宝石が鎖骨の下に触れた。その瞬間——ほんのわずかに温かさが広がった。まるで誰かの手が胸元にそっと触れたような、優しい温もり。
「お前の母が、いつもお前を守っている」
父が私の頭にそっと手を置いた。大きくて、ごつごつしていて、温かい手。私がどんな失敗をしても、この手だけは変わらなかった。
「行ってきます、父上」
「ああ。——胸を張って行け、リゼロッテ」
馬車が動き出した。車輪が砂利を踏む音がして、ゆっくりと屋敷が遠ざかっていく。窓から振り返ると、父が門の前に立ち、静かに手を振っていた。
その姿が小さくなって——やがて緑の丘の向こうに隠れた。
目頭が熱い。でも、泣かない。前を向くと決めたのだから。
◇ ◇ ◇
ヴェルムントまでは、馬車で五日の行程だった。
揺れる車内で、マリアと向かい合って座る。窓の外を流れていく風景を眺めながら、私たちは静かに言葉を交わした。
「お嬢様は、王宮での生活を——恨んでいらっしゃいますか?」
マリアが遠慮がちに訊いた。街道沿いの木立が、馬車の窓を流れていく。
「……恨んでは、いないわ」
嘘ではなかった。
「ただ、悔しい。もっと早く気づいていれば——自分の魔力が吸い取られていることに、どうして五年も気づけなかったのかって」
「それは、お嬢様が優しすぎたからです。殿下を信じていたから」
「……そうかもしれないわね」
窓の外に、麦畑が広がっている。金色の穂が風に揺れて、さわさわと柔らかな音を立てている。ガルディアの秋は穏やかだ。この景色を見るのも、しばらくは最後になるだろう。
「でも、もう過去は振り返らない。これからは自分のために生きるの」
マリアが小さく微笑んだ。その笑顔に、安堵の色が見えた。
二日目の夜は、街道沿いの小さな宿に泊まった。簡素だが清潔な部屋で、藁のベッドに横になる。天井の木目を見つめながら、ペンダントに触れた。碧い石は、体温を吸ってほんのり温かい。
——母さんは、この道を逆に辿ってきたのだろうか。ヴェルムントからガルディアへ。何を思って、異国に嫁いだのだろう。
父は母のことを多く語らない。幼い頃に亡くなった母の記憶は、曖昧な温もりと、かすかな歌声だけだ。
——会いたいな。
そう思って、目を閉じた。
◇ ◇ ◇
三日目の夕方、国境の街に着いた。
ガルディアとヴェルムントの国境は、高い山脈で隔てられている。その山脈の麓に、小さな宿場町があった。
馬車を降りた瞬間、足が止まった。
「……空気が違う」
ガルディア領内の街は、どこか埃っぽく、木々の色もくすんでいた。でも、この国境の街は——ヴェルムント側に近いからだろうか、空気そのものが違う。
「マリア、感じる? この風」
「はい。なんだか、お肌が潤うような——不思議な感じです」
それは魔力だった。
空気の中に、かすかだが確かに魔力が漂っている。まるで森が呼吸しているような、柔らかくて温かい気配。街路樹の葉は真っ赤に色づいて美しく、花壇の花は季節外れのものまで咲き誇っていた。宿屋に入ると、暖炉の火が魔法で安定して燃えていて、部屋の隅々まで温かかった。
ガルディアの街では、感じたことのない豊かさだった。
宿屋に入ると、暖炉の火が魔法で安定して燃えていて、部屋の隅々まで温かかった。食堂で出された夕食の肉料理は保存魔法のおかげか驚くほど新鮮で、マリアと顔を見合わせて目を丸くした。
「ガルディアの宿屋とは、全然違いますわね……」
「ええ。国境一つ越えるだけで、こんなに変わるなんて」
魔力が、暮らしの豊かさに直結している。ガルディアでは王族が独占していた力が、ここでは人々の生活を底上げしている。
——私が五年間搾り取られていた魔力は、こういう使い方もできたのだ。
そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
翌朝、国境の峠を越えた。
山道を馬車が登っていく。窓の外の木々が、登るにつれてどんどん青々としてくる。秋なのに、新緑のような鮮やかさだ。
ふと後ろを振り返ると、ガルディア側の平野が霞んで見えた。——あの空の下で、今もアレクシスは結界の修復に苦しんでいるのだろうか。
……いや、もう考えるのはやめよう。
峠の頂上に差しかかったとき——胸元のペンダントがかすかに光った。
「えっ——」
碧い宝石が、心臓の鼓動に合わせるように明滅している。温かい。骨の奥まで沁みるような、深い温もりが胸元から全身に広がっていく。
同時に、体の奥の魔力が応えるように脈動した。指先から足先まで、力がさらさらと流れる感覚。まるで凍っていた川が春の陽光で溶け出すように、体の中の何かが目覚めていく。
「お嬢様、ペンダントが光って……!」
「大丈夫。怖くないの。これは——歓迎されているような感じ」
そうだ。まるでこの土地そのものが、私の帰りを待っていたかのような——。
馬車が峠を越えた。
眼下に、ヴェルムント王国が広がった。
——息が止まった。
白い尖塔が立ち並ぶ王都。その中心に、宝石のように輝く青い湖。そして街全体を包むように、柔らかな魔力の光が薄く漂っている。
朝日を受けて、街が金色に輝いていた。
「なんて……綺麗」
マリアが窓に張りつくようにして、声を失っている。
私も、言葉が出なかった。ガルディアでは見たことのない光景だ。魔力が街を守り、包み、生かしている。力ではなく、恵みとして。
胸元のペンダントが、まだ温かく光り続けていた。
——母さん。あなたの故郷は、こんなに美しい場所だったのね。




