表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
1章 蛇口は閉じた

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/25

決断の天秤

 三日間、私は迷っていた。


 ヴェルムント王国からの招待状を、何度も読み返した。羊皮紙の手触りは滑らかで、インクからはかすかに甘い香りがする。上質な紙だ。異国の紋章が押された封蝋は、深い碧色をしていた。


 ——この国を離れたら、もう戻れないかもしれない。


 朝、庭園に出て薔薇の手入れをしながら、何度もその考えが頭をよぎった。指先から魔力を注ぐと、蕾がほころんで花弁がゆっくり開く。甘い薔薇の香りが風に乗って広がった。


 この庭も、この屋敷も、幼い頃から私を育ててくれた場所だ。領地の森を駆け回り、薔薇の花壇に魔力を注いで遊んだ日々。全部、ここにある。


 ——でも、ここにいたら。


 またあの手が伸びてくる。王宮の冷たい手が、私の魔力を掴もうとする。先日の使者がそれを証明していた。婚約を破棄しておきながら「命令」で呼び戻そうとする、あの傲慢さ。


 ここにいる限り、私は道具であり続ける。


「お嬢様」


 マリアが紅茶を持ってきてくれた。テラスの椅子に座り、温かいカップを受け取る。湯気がふわりと立ち上り、レモンの爽やかな香りが鼻をくすぐった。


「ありがとう、マリア。……ねえ、少し聞いてもいい?」


「何でございますか」


「もし私が——この国を出ると言ったら、あなたはどうする?」


 マリアの手が一瞬止まった。紅茶のポットを置き、姿勢を正す。それから彼女は、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。


「お供いたします」


 即答だった。迷いのかけらもない声だった。


「お嬢様がお幸せになれる場所なら、どこへでも。それが私の望みですから」


「……遠い国よ? 知らない土地で、知らない人々に囲まれて。もう帰れないかもしれない」


「お嬢様。私は十年間、ずっとお傍にいました。王宮でお嬢様が苦しんでいるのを、何もできずに見ていることしかできなかった」


 マリアの声が、少しだけ震えた。テラスの柔らかな日差しが、彼女の頬を照らしている。


「夜、お嬢様のお部屋から魔力が漏れ出しているのを感じていました。殿下に吸い取られて、体が悲鳴を上げていたのでしょう。でも私には、止める力がなかった」


「マリア……」


「もう二度と、あんな思いはしたくないのです。お嬢様が笑っていられる場所があるなら——私はそこに行きたい。世界の果てでも」


 胸の奥が、じんと熱くなった。


 紅茶を一口飲んだ。温かい液体が喉を通っていく。レモンの酸味が、潤んだ目をごまかしてくれた。


「……ありがとう、マリア。本当に」


 ◇ ◇ ◇


 その翌日。


 穏やかな午後が一変した。


「ブランシュ公爵に告ぐ。ガルディア王国宰相府より正式な勅令である」


 正門に現れたのは、宰相府の紋章を掲げた騎馬の一団だった。先日の使者とは比べものにならない、威圧的な陣容。武装した兵が十人。その中央に、冷たい目をした文官が巻物を掲げている。


 父が応対に出た。私は廊下の窓から、息を殺してその様子を見ていた。


「リゼロッテ・フォン・ブランシュは国家の重要な魔力資源である。王太子殿下の召還に応じない場合、国家反逆罪として公爵家の所領没収もあり得ると——」


 国家の重要な魔力資源。


 ——資源。


 人ではなく、資源。あの国にとって私は、最後まで道具でしかないのだ。


 手が震えた。怒りで。悲しみではない。もう、悲しみは残っていない。


 父の声が響いた。静かだが、地を揺るがすような重さがあった。


「帰れ」


「なっ——」


「筆頭公爵たるこの私に、脅迫まがいの書面を送りつけるとは。宰相閣下に伝えよ。我が家は三百年の歴史を持つ。王家が我が娘を資源と呼ぶなら、それ相応の覚悟をしてもらおう」


 父の全身から、重厚な魔力が立ち昇った。風もないのに、門前の木々がざわざわと揺れる。使者たちの馬が怯えたようにいななき、兵たちの顔が一様に強張った。


「我が家を敵に回すということの意味を、宰相殿は理解しておられるのか?」


 誰も、何も言い返せなかった。


 馬車が去っていく蹄の音が、砂利道に虚しく響いた。やがてそれも遠ざかり、庭園にはいつもの静寂が戻ってきた。


 私は窓辺で、拳を握りしめていた。指の爪が掌に食い込むのも構わず。


 ——もう、迷わない。


 窓から離れ、自室に戻った。机の上に置いたままのヴェルムントの招待状が、夕日を受けて光っている。羊皮紙を手に取った。手紙の一節を、もう一度読む。


 ——『貴女の力は決して搾取されることなく、正当に評価され、敬意をもって遇されることをお約束いたします』


 搾取されない。正当に評価される。敬意をもって遇される。


 それは、五年間一度も与えられなかったものだ。


 手紙を胸に抱いた。羊皮紙の微かな温もりが、掌に伝わった。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、父の書斎を訪ねた。


 暖炉の炎がぱちぱちと爆ぜている。書棚に並ぶ革表紙の本が、炎の光を受けて柔らかく光っていた。古い紙とインクの匂い。幼い頃から大好きだった、この書斎の匂い。


 ——この匂いとも、しばらくお別れだ。


「父上。私、ヴェルムントに参ります」


 父は窓辺に立ち、振り返った。暖炉の炎が、白髪交じりの横顔を照らしている。


「……そうか」


 短い沈黙のあと、父は小さく頷いた。その目に悲しみはなかった。ただ、静かな誇りがあった。


「私を必要としてくれる場所で、私自身の力で生きたいのです。もう誰かの道具としてではなく——一人の人間として」


「お前は正しい、リゼロッテ。最初から——お前は正しかった」


 父が机の上に地図を広げた。ガルディアとヴェルムントの国境地帯が描かれている。


「あの国の王は魔術研究に熱心な賢王だと聞く。魔力を持つ者を道具としてではなく、学者として敬う国だ。セレスティアが生まれた国でもある」


「母上の故郷……」


「お前にとって、あの国は異国ではない。いずれわかる」


 父はそう言って地図をたたむと、書斎の奥に歩いた。壁にかけられた一枚の肖像画の前で立ち止まる。布がかけられていて、これまで一度も見たことがない絵だ。


「出発の前に、お前に見せたいものがある」


 父の手が布をつかみ、ゆっくりと引いた。


 そこに描かれていたのは——若い女性の姿だった。


 銀色の髪に、深い碧の瞳。柔らかく微笑んでいるその顔は、私がぼんやりと覚えている母の面影と重なった。


 だが驚いたのは、その衣装だ。


 母が纏っているのは、ガルディア貴族のドレスではなかった。見覚えのない紋章が胸元に刺繍された、異国の正装——。


「父上、これは——」


「お前の母——セレスティアは、ヴェルムントの出身だった」


 呼吸が止まった。


「お前の強大な魔力が、ブランシュ家の血統だけでは説明がつかないと、ずっと不思議に思っていただろう」


 父が静かに微笑んだ。暖炉の光が、母の肖像画を柔らかく照らしている。


「答えは、ヴェルムントにある」


 母の碧い瞳が、揺れる炎の中で私を見つめている気がした。


 ——私の魔力の秘密が、あの国にあるというのか。


 胸の奥で、知らない力がかすかに脈動した。まるで母の名前に、私の中の何かが応えたように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ