決断の天秤
三日間、私は迷っていた。
ヴェルムント王国からの招待状を、何度も読み返した。羊皮紙の手触りは滑らかで、インクからはかすかに甘い香りがする。上質な紙だ。異国の紋章が押された封蝋は、深い碧色をしていた。
——この国を離れたら、もう戻れないかもしれない。
朝、庭園に出て薔薇の手入れをしながら、何度もその考えが頭をよぎった。指先から魔力を注ぐと、蕾がほころんで花弁がゆっくり開く。甘い薔薇の香りが風に乗って広がった。
この庭も、この屋敷も、幼い頃から私を育ててくれた場所だ。領地の森を駆け回り、薔薇の花壇に魔力を注いで遊んだ日々。全部、ここにある。
——でも、ここにいたら。
またあの手が伸びてくる。王宮の冷たい手が、私の魔力を掴もうとする。先日の使者がそれを証明していた。婚約を破棄しておきながら「命令」で呼び戻そうとする、あの傲慢さ。
ここにいる限り、私は道具であり続ける。
「お嬢様」
マリアが紅茶を持ってきてくれた。テラスの椅子に座り、温かいカップを受け取る。湯気がふわりと立ち上り、レモンの爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「ありがとう、マリア。……ねえ、少し聞いてもいい?」
「何でございますか」
「もし私が——この国を出ると言ったら、あなたはどうする?」
マリアの手が一瞬止まった。紅茶のポットを置き、姿勢を正す。それから彼女は、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「お供いたします」
即答だった。迷いのかけらもない声だった。
「お嬢様がお幸せになれる場所なら、どこへでも。それが私の望みですから」
「……遠い国よ? 知らない土地で、知らない人々に囲まれて。もう帰れないかもしれない」
「お嬢様。私は十年間、ずっとお傍にいました。王宮でお嬢様が苦しんでいるのを、何もできずに見ていることしかできなかった」
マリアの声が、少しだけ震えた。テラスの柔らかな日差しが、彼女の頬を照らしている。
「夜、お嬢様のお部屋から魔力が漏れ出しているのを感じていました。殿下に吸い取られて、体が悲鳴を上げていたのでしょう。でも私には、止める力がなかった」
「マリア……」
「もう二度と、あんな思いはしたくないのです。お嬢様が笑っていられる場所があるなら——私はそこに行きたい。世界の果てでも」
胸の奥が、じんと熱くなった。
紅茶を一口飲んだ。温かい液体が喉を通っていく。レモンの酸味が、潤んだ目をごまかしてくれた。
「……ありがとう、マリア。本当に」
◇ ◇ ◇
その翌日。
穏やかな午後が一変した。
「ブランシュ公爵に告ぐ。ガルディア王国宰相府より正式な勅令である」
正門に現れたのは、宰相府の紋章を掲げた騎馬の一団だった。先日の使者とは比べものにならない、威圧的な陣容。武装した兵が十人。その中央に、冷たい目をした文官が巻物を掲げている。
父が応対に出た。私は廊下の窓から、息を殺してその様子を見ていた。
「リゼロッテ・フォン・ブランシュは国家の重要な魔力資源である。王太子殿下の召還に応じない場合、国家反逆罪として公爵家の所領没収もあり得ると——」
国家の重要な魔力資源。
——資源。
人ではなく、資源。あの国にとって私は、最後まで道具でしかないのだ。
手が震えた。怒りで。悲しみではない。もう、悲しみは残っていない。
父の声が響いた。静かだが、地を揺るがすような重さがあった。
「帰れ」
「なっ——」
「筆頭公爵たるこの私に、脅迫まがいの書面を送りつけるとは。宰相閣下に伝えよ。我が家は三百年の歴史を持つ。王家が我が娘を資源と呼ぶなら、それ相応の覚悟をしてもらおう」
父の全身から、重厚な魔力が立ち昇った。風もないのに、門前の木々がざわざわと揺れる。使者たちの馬が怯えたようにいななき、兵たちの顔が一様に強張った。
「我が家を敵に回すということの意味を、宰相殿は理解しておられるのか?」
誰も、何も言い返せなかった。
馬車が去っていく蹄の音が、砂利道に虚しく響いた。やがてそれも遠ざかり、庭園にはいつもの静寂が戻ってきた。
私は窓辺で、拳を握りしめていた。指の爪が掌に食い込むのも構わず。
——もう、迷わない。
窓から離れ、自室に戻った。机の上に置いたままのヴェルムントの招待状が、夕日を受けて光っている。羊皮紙を手に取った。手紙の一節を、もう一度読む。
——『貴女の力は決して搾取されることなく、正当に評価され、敬意をもって遇されることをお約束いたします』
搾取されない。正当に評価される。敬意をもって遇される。
それは、五年間一度も与えられなかったものだ。
手紙を胸に抱いた。羊皮紙の微かな温もりが、掌に伝わった。
◇ ◇ ◇
その夜、父の書斎を訪ねた。
暖炉の炎がぱちぱちと爆ぜている。書棚に並ぶ革表紙の本が、炎の光を受けて柔らかく光っていた。古い紙とインクの匂い。幼い頃から大好きだった、この書斎の匂い。
——この匂いとも、しばらくお別れだ。
「父上。私、ヴェルムントに参ります」
父は窓辺に立ち、振り返った。暖炉の炎が、白髪交じりの横顔を照らしている。
「……そうか」
短い沈黙のあと、父は小さく頷いた。その目に悲しみはなかった。ただ、静かな誇りがあった。
「私を必要としてくれる場所で、私自身の力で生きたいのです。もう誰かの道具としてではなく——一人の人間として」
「お前は正しい、リゼロッテ。最初から——お前は正しかった」
父が机の上に地図を広げた。ガルディアとヴェルムントの国境地帯が描かれている。
「あの国の王は魔術研究に熱心な賢王だと聞く。魔力を持つ者を道具としてではなく、学者として敬う国だ。セレスティアが生まれた国でもある」
「母上の故郷……」
「お前にとって、あの国は異国ではない。いずれわかる」
父はそう言って地図をたたむと、書斎の奥に歩いた。壁にかけられた一枚の肖像画の前で立ち止まる。布がかけられていて、これまで一度も見たことがない絵だ。
「出発の前に、お前に見せたいものがある」
父の手が布をつかみ、ゆっくりと引いた。
そこに描かれていたのは——若い女性の姿だった。
銀色の髪に、深い碧の瞳。柔らかく微笑んでいるその顔は、私がぼんやりと覚えている母の面影と重なった。
だが驚いたのは、その衣装だ。
母が纏っているのは、ガルディア貴族のドレスではなかった。見覚えのない紋章が胸元に刺繍された、異国の正装——。
「父上、これは——」
「お前の母——セレスティアは、ヴェルムントの出身だった」
呼吸が止まった。
「お前の強大な魔力が、ブランシュ家の血統だけでは説明がつかないと、ずっと不思議に思っていただろう」
父が静かに微笑んだ。暖炉の光が、母の肖像画を柔らかく照らしている。
「答えは、ヴェルムントにある」
母の碧い瞳が、揺れる炎の中で私を見つめている気がした。
——私の魔力の秘密が、あの国にあるというのか。
胸の奥で、知らない力がかすかに脈動した。まるで母の名前に、私の中の何かが応えたように。




