王太子の後悔
それは、深夜のことだった。
ブランシュ公爵邸の窓の外で、空が赤く染まった。
地を揺るがすような轟音が遠くから響き、寝室の窓ガラスがびりびりと震えた。私は飛び起き、窓に駆け寄った。
北の空が——燃えている。
大結界があるはずの方角に、巨大な裂け目のような赤い光が走っていた。まるで空に亀裂が入ったかのように、禍々しい光が脈動している。
「お嬢様!」
マリアが蒼白な顔で飛び込んできた。
「北の村から早馬が——大結界が、破れたそうです……!」
心臓が冷たく縮んだ。
「魔物が——国境の外壁を突破して、北部の村々に侵入し始めていると……!」
——起きてしまった。
私は唇を噛み、拳を握った。こうなることは、予想していた。予想していたけれど、実際に起きると——胸の奥が、鉛のように重い。
魔物に襲われるのは、兵士や騎士ではない。逃げる力を持たない、普通の人々だ。
◇ ◇ ◇
それから三日間、北部からの報告が次々と届いた。
外壁を突破した魔物は数十体。国境沿いの三つの村が被害を受け、住民たちは南へ避難を始めている。王国騎士団が出動したが、結界の補修が追いつかず、新たな魔物が次々と侵入してくる。
王都は混乱に陥っていた。
父の書斎に、連日のように情報が集まってくる。
「宮廷魔術師団を総動員しているが、結界の修復には王族の魔力が不可欠だ。だが肝心のアレクシスの魔力では——」
父の声には、隠しきれない苛立ちがあった。
「もともとあの結界は、歴代の王妃——つまり、ブランシュ家から嫁いだ女性たちの魔力で支えられてきた。アレクシスがリゼロッテの魔力を吸い上げていたのも、それを知っていたからだろう」
知っていて、道具のように使い、不要になったら捨てた。
それが、アレクシス王太子という人間だ。
「……父上。民の安全は」
「北部の領主たちが避難誘導を進めている。ブランシュ領は地理的に離れているから、直接の被害はないだろう。だが——」
父が言い淀んだ。
その先を、私は知っている。結界が完全に崩壊すれば、魔物の侵入は北部だけでは済まなくなる。
◇ ◇ ◇
そして——その日がやってきた。
午後の庭園で、私は一人で紅茶を飲んでいた。
薔薇が咲き誇る静かなテラス。風が花弁を揺らし、甘い香りを運んでくる。この数日の不安を忘れたくて、いつもの日課に没頭していた。
「お嬢様! た、大変です!」
マリアが三度目の蒼白な顔で駆けてきた。
「今度は何——」
言いかけて、止まった。
正門の方から、馬のいななきが聞こえる。複数の蹄の音。そして——見覚えのある紋章を掲げた旗。
王家の旗だ。
しかも、先日の書記官レナードのような使者ではない。護衛騎士を引き連れた、豪華な行列。
その先頭に——金髪の青年が馬から降り立った。
端正な顔立ち。青い瞳。だが——以前とは明らかに様子が違っていた。顔には疲労の色が濃く、目の下に隈がある。何より、全身から感じる魔力の気配が、驚くほど薄くなっていた。
アレクシス・ルーク・ガルディア。
この国の王太子にして——私を捨てた男。
「リゼロッテ」
彼が私の名を呼んだ。その声には、かつての傲慢さはなかった。代わりに、必死さが滲んでいる。
私は紅茶のカップを置き、立ち上がった。
「ご無沙汰しております、殿下。突然のご訪問に驚いておりますわ」
穏やかに、微笑みながら言った。
アレクシスが一歩、前に出た。
「頼む。——戻ってきてくれ」
その一言に、庭園の空気が凍りついた。
「大結界が崩壊しかけている。魔物が北部に侵入し、民が被害を受けている。宮廷魔術師団では修復が追いつかない。お前の力が——お前の魔力がなければ、この国は——」
「殿下」
私は静かに遮った。
「婚約破棄の宣言の際、殿下はこう仰いましたわね。『お前はもう必要ない。お前の代わりなどいくらでもいる』と」
アレクシスの顔が歪んだ。
「……あれは」
「代わりがいくらでもいるのでしたら、そちらに頼まれてはいかがですか?」
「そんなものはいない! お前ほどの魔力を持つ者など、この国にはいない! あの言葉は——俺が間違っていた!」
アレクシスが膝を折った。
王太子が——公爵令嬢の前で、膝をついた。護衛の騎士たちが息を呑む気配がした。
「頼む、リゼロッテ。俺が悪かった。お前の力を、もう一度貸してくれ。条件は何でも——」
「殿下」
私は彼を見下ろした。
かつては見上げるばかりだった人。この人の隣で笑顔を作り続けた五年間。体が壊れそうになっても、この人の役に立てるならと耐え続けた日々。
——もう、終わったのだ。
「私の答えは変わりません」
声は静かだった。怒りでもなく、恨みでもなく、ただ穏やかに。
「私はもう、あなたの道具には戻りません。この領地で、私自身のために生きると決めました」
「しかし——民が! 国が——!」
「民を守るのは、王族のお務めです。殿下ご自身の力で、お守りください」
アレクシスが絶句した。
立ち上がることもできず、ただ私を見上げている。その目に浮かんでいるのは——後悔だ。
本物の、遅すぎる後悔。
私はテラスを離れ、屋敷へ向かって歩き出した。
「リゼロッテ——!」
背後から呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
アレクシスの一行が去った後、父の書斎で一通の手紙を受け取った。
差出人は——隣国ヴェルムント王国の紋章。
「これは……」
父が静かに言った。
「ヴェルムント王国からの正式な書簡だ。国王の署名入りでな」
封を切り、中の羊皮紙を広げた。
美しい筆跡で、こう記されていた。
『ブランシュ公爵令嬢リゼロッテ殿
貴女の比類なき魔力について、かねてより耳にしておりました。
ガルディア王国における貴女のお立場が変わられたと聞き及び、僭越ながら筆を執りました。
我がヴェルムント王国は、貴女を宮廷魔術顧問としてお迎えしたく存じます。ヴェルムントにおいては、貴女の力は決して搾取されることなく、正当に評価され、敬意をもって遇されることをお約束いたします。
ご検討いただければ幸いです。
ヴェルムント王国国王 フリードリヒ三世』
手紙を持つ指先が、わずかに震えた。
「……隣国が、私を?」
「大結界の異変は、近隣諸国にも伝わっている。お前の魔力の価値を正しく理解している者は、この国の外にもいるということだ」
父はゆっくりと椅子に座り、私を見つめた。
「どうする、リゼロッテ。この国を出るか——それとも、残るか」
窓の外では、北の空がまだうっすらと赤い。
この国は、私を道具として使い、捨てた。
だけど——この国には、私が大切に思う人々もいる。
答えは、まだ出せなかった。
ただ一つ確かなのは——もう誰かの道具にはならないということだけだ。
「少し、考える時間をください」
手紙を丁寧に折りたたみ、胸元にしまった。
——物語は、新たな局面を迎えようとしていた。




