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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
2章 半分の力で

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朝の光の中で

 朝の光が、テラスの白い石畳を柔らかく染めていた。


 昨夜はよく眠れた。夢も見なかった。目を覚ましたとき窓から差し込む光が白くて、一瞬どこにいるのかわからなくなった。すぐに思い出す。ここは私の居場所だ。


 テラスに出ると、マリアがすでにテーブルの支度を整えていた。


「おはようございます、リゼロッテ様。紅茶をお淹れしますね」


 白磁のティーポットから琥珀色の液体が注がれる。湯気がゆるやかに立ち昇り、ベルガモットの香りがテーブルの上を漂った。朝の空気はまだひんやりとしていて、その香りがいっそう鮮やかに鼻腔をくすぐる。


「ありがとう、マリア」


 カップを手に取る。両手で包むと、陶器越しにじんわりと温もりが伝わってきた。一口含む。舌の上にほのかな渋みと、花の甘さが広がる。美味しい。それだけのことが、今朝はひどく胸に染みた。


 足音がして、ルーカスが現れた。右腕のギプスを庇いながら、左手で椅子を引いて腰を下ろす。テーブルの上のパン籠に手を伸ばし、左手だけで器用にパンをちぎった。焼きたての小麦の香ばしい匂いがふわりと広がる。


 見ていると、ルーカスはパンにバターまで塗り始めた。左手一本でナイフを巧みに操っている。片腕の生活も何日にもなるから、もう慣れたのだろう。


「……何見てんだよ」


「別に。上手だなと思って」


「片腕生活も長くなりゃ慣れる」


 ぶっきらぼうに言いながら、パンを頬張る。その横顔に朝日が当たって、短い髪の輪郭が金色に光っていた。


 しばらくして、エルヴィラがノートの束を抱えてやってきた。


「おはよう。……ああ、パンがある。助かるわ」


 言うなり椅子に座り、パンを一つ取りながら、空いた手でノートを広げる。昨日の魔術理論の続きらしい。朝食の席にまで研究ノートを持ち込むのは彼女の日課で、もう誰も何も言わなくなっていた。


 テラスの外の庭で、小鳥が鳴いている。高く短い声。枝から枝へ飛び移る羽音。風が木の葉を揺らして、テラスの上に光の斑を作っては消した。


 紅茶を飲み、パンを食べ、ときどき短い言葉を交わす。


 何でもない朝だった。


 紅茶があって、パンがあって、顔を合わせる人がいて、陽の光が温かい。それだけの朝。でも、この「それだけ」がどれほど得がたいものか、今の私にはわかる。


 魔力の大半を失った。始源級の座を降りた。婚約は破棄され、王宮を追われた。セレンは遠いロストリアへ旅立った。フリードリヒ殿下が、私の居場所を言葉にしてくれた。カイルが、私を認めた。


 たくさんのものが変わった。たくさんのものを手放した。


 そのすべての果てに残ったのが、この朝だ。


 私はカップの中の紅茶を見つめた。琥珀色の水面に、テラスの天蓋の影がゆらゆらと揺れている。もう一口飲んだ。温かかった。


◇ ◇ ◇


 食事を終え、私は庭に降りた。


 石畳の小道を歩くと、朝露を含んだ草がサンダルの縁を濡らす。ひやりとした感触が素足の指先に触れて、思わず足を止めた。


 背後から、足音。


「おい」


 振り向くと、ルーカスが立っていた。ギプスの右腕を体の前に抱え、左手をポケットに突っ込んでいる。逆光で表情がよく見えなかったが、いつもとどこか様子が違う。


「散歩?」


「……いや」


 短く答えて、ルーカスは私の隣に来た。並んで庭の奥を見る。花壇の向こうに、まだ低い朝日が木々の輪郭を金色に縁取っていた。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。鳥の声だけが、二人の間の沈黙を埋めている。風が草を撫でて、さわさわと小さな音を立てた。


 やがて、ルーカスが口を開いた。


「前に——途中で止めたことがある」


 心臓が、大きく一つ跳ねた。


 昨夜。「明日、」とだけ言って止まった、あの言葉。その続きだ。すぐにわかった。


「全部片付いたら言うって。……片付いたよな?」


 ルーカスはまっすぐ前を見ている。横顔に朝日が当たっていた。頬の線が硬い。


 返事をする前に、私の口が勝手に動いた。


「まだ片付いてないわ。カイルの計画書は白紙になっただけで——」


「うるさい。聞け」


 たった六文字。でも、その声は低くて真っ直ぐで、私の足をその場に縫い止めた。


 ルーカスが左手で頭をがしがしと掻いた。右手のギプスが邪魔で、ぎこちなく左手だけで。その不器用な仕草が妙に彼らしくて、私は口を閉じた。


 ルーカスが息を吸った。


「お前が好きだ」


 風が止んだ。そう感じた。世界のあらゆるものが、一瞬だけ静止したように。


「力があってもなくても。始源級でも、ただの魔術師でも」


 声は淡々としていた。飾りがない。取り繕う気もない。ただ、喉の奥から絞り出すように一語一語を置いていく。


「——関係ない。お前が、好きだ」


 沈黙が降りた。


 鳥も鳴き止んだように思えた。風も、木々のざわめきも、すべてが遠のいて、ルーカスの声の残響だけが耳の奥で震えていた。


 何か言わなければ。返事をしなければ。でも、喉が詰まって動かない。嬉しいとか驚いたとか、そんな簡単な言葉では全然足りなくて、かといってそれ以上の言葉など持ち合わせていなくて。


 声の代わりに、左手が動いた。


 ルーカスの左手に触れる。指先に、硬い感触。剣を握り続けてきた手のひらの、厚い皮膚。その下に、かすかな震えがあった。


 私は、その手を握った。


 ルーカスが、握り返した。


 力強く。でも乱暴ではなく。ただ、離さない、というように。


 それだけだった。言葉はなかった。口づけもなかった。ただ手を握り合って、朝の庭に並んで立っていた。——それだけで、十分だった。


 どれくらいそうしていたかわからない。木漏れ日が足元で揺れていた。風がまた吹き始めて、花壇の花を揺らした。どこかで鳥がまた歌い出す。まるで世界が、止まっていた時間を取り戻すように動き始めた。


 視界がにじんだ。


 右手の甲で、素早く目元を拭う。泣くつもりなんてなかった。ただ一滴、どうしても堪えきれなかった。


「……泣くなよ」


「泣いてないわ」


「泣いてる」


「一滴だけよ」


「一滴でも泣いてるっていうんだよ」


 ルーカスが、小さく笑った。その声を聞いて思った。——ああ、大丈夫だ。


 握った手はそのままだった。どちらも離さなかった。離す理由が、なかった。


◇ ◇ ◇


 テラスに戻ると、マリアが何も言わずに紅茶を淹れ直してくれた。その目元がわずかに緩んでいた気がしたけれど、何も聞かなかった。私も何も言わなかった。エルヴィラは相変わらずノートに没頭していて、顔すら上げない。


 私は椅子に座り、淹れたての紅茶の香りを吸い込んだ。ベルガモットと、かすかな柑橘。朝と同じ香り。でも、何かが違う気がした。同じ紅茶なのに、少しだけ世界の輪郭が鮮やかに見える。


 ふと、テーブルの端に見慣れない封筒が置かれていることに気づいた。


「先ほど届きました」


 マリアが言う。


「セレン様からです」


 セレンの手紙。ロストリアへ旅立ってから、まだそれほど日は経っていない。もう手紙が届くとは、彼女らしい手際の良さだった。


 封を切り、便箋を広げた。


 砂漠への旅路は順調であること。現地の魔術師団と合流を果たしたこと。ロストリアの乾いた風は肌に痛いほどだが、夜空の星は信じがたいほど美しいこと。セレンらしい、簡潔で正確な文章が並んでいる。


 そして、最後の段落で、セレンの筆跡がわずかに乱れていた。


『砂漠の中央部に、建造物が出現しました。相当に古いもののようです。調査はこれからですが、ひとつ気になることがあります。その建物の入口に刻まれた紋章が——リゼロッテ、あなたのペンダントに刻まれた意匠と、同じものでした』


 手紙を持つ指先が、かすかに強張った。


 無意識に胸元へ手が伸びる。使い込まれた銀の小さなペンダント。母から受け取った形見。その紋章と同じものが、遠いロストリアの砂漠に。


 続きには、調査が進み次第また報告する、とだけ書かれていた。


 新しい謎。新しい物語の予感。砂漠の遥か彼方で、何かが目を覚まそうとしている。


 でも、今はまだ。


 テラスには朝の光が満ちている。マリアの淹れてくれた紅茶はよい香りがする。エルヴィラのペンがノートの上を走る音がかすかに聞こえる。庭のどこかで、ルーカスがくしゃみをした。


 私は手紙を置いて、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。——まだ温かかった。

第2章「半分の力で」(全10話)をお読みいただきありがとうございます!


道具に戻されない戦い——リゼロッテが自分の意志で選んだ答え、いかがでしたか?

力は半分になりました。でも一番大切なものは、ちゃんと手の中にあります。

ルーカスの不器用な告白、いかがでしたか? 第3章でもう少しだけ進展します。


ブックマークと評価を押していただきありがとうございます!

皆様の応援が次の章を生み出す力になります!

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