朝の光の中で
朝の光が、テラスの白い石畳を柔らかく染めていた。
昨夜はよく眠れた。夢も見なかった。目を覚ましたとき窓から差し込む光が白くて、一瞬どこにいるのかわからなくなった。すぐに思い出す。ここは私の居場所だ。
テラスに出ると、マリアがすでにテーブルの支度を整えていた。
「おはようございます、リゼロッテ様。紅茶をお淹れしますね」
白磁のティーポットから琥珀色の液体が注がれる。湯気がゆるやかに立ち昇り、ベルガモットの香りがテーブルの上を漂った。朝の空気はまだひんやりとしていて、その香りがいっそう鮮やかに鼻腔をくすぐる。
「ありがとう、マリア」
カップを手に取る。両手で包むと、陶器越しにじんわりと温もりが伝わってきた。一口含む。舌の上にほのかな渋みと、花の甘さが広がる。美味しい。それだけのことが、今朝はひどく胸に染みた。
足音がして、ルーカスが現れた。右腕のギプスを庇いながら、左手で椅子を引いて腰を下ろす。テーブルの上のパン籠に手を伸ばし、左手だけで器用にパンをちぎった。焼きたての小麦の香ばしい匂いがふわりと広がる。
見ていると、ルーカスはパンにバターまで塗り始めた。左手一本でナイフを巧みに操っている。片腕の生活も何日にもなるから、もう慣れたのだろう。
「……何見てんだよ」
「別に。上手だなと思って」
「片腕生活も長くなりゃ慣れる」
ぶっきらぼうに言いながら、パンを頬張る。その横顔に朝日が当たって、短い髪の輪郭が金色に光っていた。
しばらくして、エルヴィラがノートの束を抱えてやってきた。
「おはよう。……ああ、パンがある。助かるわ」
言うなり椅子に座り、パンを一つ取りながら、空いた手でノートを広げる。昨日の魔術理論の続きらしい。朝食の席にまで研究ノートを持ち込むのは彼女の日課で、もう誰も何も言わなくなっていた。
テラスの外の庭で、小鳥が鳴いている。高く短い声。枝から枝へ飛び移る羽音。風が木の葉を揺らして、テラスの上に光の斑を作っては消した。
紅茶を飲み、パンを食べ、ときどき短い言葉を交わす。
何でもない朝だった。
紅茶があって、パンがあって、顔を合わせる人がいて、陽の光が温かい。それだけの朝。でも、この「それだけ」がどれほど得がたいものか、今の私にはわかる。
魔力の大半を失った。始源級の座を降りた。婚約は破棄され、王宮を追われた。セレンは遠いロストリアへ旅立った。フリードリヒ殿下が、私の居場所を言葉にしてくれた。カイルが、私を認めた。
たくさんのものが変わった。たくさんのものを手放した。
そのすべての果てに残ったのが、この朝だ。
私はカップの中の紅茶を見つめた。琥珀色の水面に、テラスの天蓋の影がゆらゆらと揺れている。もう一口飲んだ。温かかった。
◇ ◇ ◇
食事を終え、私は庭に降りた。
石畳の小道を歩くと、朝露を含んだ草がサンダルの縁を濡らす。ひやりとした感触が素足の指先に触れて、思わず足を止めた。
背後から、足音。
「おい」
振り向くと、ルーカスが立っていた。ギプスの右腕を体の前に抱え、左手をポケットに突っ込んでいる。逆光で表情がよく見えなかったが、いつもとどこか様子が違う。
「散歩?」
「……いや」
短く答えて、ルーカスは私の隣に来た。並んで庭の奥を見る。花壇の向こうに、まだ低い朝日が木々の輪郭を金色に縁取っていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。鳥の声だけが、二人の間の沈黙を埋めている。風が草を撫でて、さわさわと小さな音を立てた。
やがて、ルーカスが口を開いた。
「前に——途中で止めたことがある」
心臓が、大きく一つ跳ねた。
昨夜。「明日、」とだけ言って止まった、あの言葉。その続きだ。すぐにわかった。
「全部片付いたら言うって。……片付いたよな?」
ルーカスはまっすぐ前を見ている。横顔に朝日が当たっていた。頬の線が硬い。
返事をする前に、私の口が勝手に動いた。
「まだ片付いてないわ。カイルの計画書は白紙になっただけで——」
「うるさい。聞け」
たった六文字。でも、その声は低くて真っ直ぐで、私の足をその場に縫い止めた。
ルーカスが左手で頭をがしがしと掻いた。右手のギプスが邪魔で、ぎこちなく左手だけで。その不器用な仕草が妙に彼らしくて、私は口を閉じた。
ルーカスが息を吸った。
「お前が好きだ」
風が止んだ。そう感じた。世界のあらゆるものが、一瞬だけ静止したように。
「力があってもなくても。始源級でも、ただの魔術師でも」
声は淡々としていた。飾りがない。取り繕う気もない。ただ、喉の奥から絞り出すように一語一語を置いていく。
「——関係ない。お前が、好きだ」
沈黙が降りた。
鳥も鳴き止んだように思えた。風も、木々のざわめきも、すべてが遠のいて、ルーカスの声の残響だけが耳の奥で震えていた。
何か言わなければ。返事をしなければ。でも、喉が詰まって動かない。嬉しいとか驚いたとか、そんな簡単な言葉では全然足りなくて、かといってそれ以上の言葉など持ち合わせていなくて。
声の代わりに、左手が動いた。
ルーカスの左手に触れる。指先に、硬い感触。剣を握り続けてきた手のひらの、厚い皮膚。その下に、かすかな震えがあった。
私は、その手を握った。
ルーカスが、握り返した。
力強く。でも乱暴ではなく。ただ、離さない、というように。
それだけだった。言葉はなかった。口づけもなかった。ただ手を握り合って、朝の庭に並んで立っていた。——それだけで、十分だった。
どれくらいそうしていたかわからない。木漏れ日が足元で揺れていた。風がまた吹き始めて、花壇の花を揺らした。どこかで鳥がまた歌い出す。まるで世界が、止まっていた時間を取り戻すように動き始めた。
視界がにじんだ。
右手の甲で、素早く目元を拭う。泣くつもりなんてなかった。ただ一滴、どうしても堪えきれなかった。
「……泣くなよ」
「泣いてないわ」
「泣いてる」
「一滴だけよ」
「一滴でも泣いてるっていうんだよ」
ルーカスが、小さく笑った。その声を聞いて思った。——ああ、大丈夫だ。
握った手はそのままだった。どちらも離さなかった。離す理由が、なかった。
◇ ◇ ◇
テラスに戻ると、マリアが何も言わずに紅茶を淹れ直してくれた。その目元がわずかに緩んでいた気がしたけれど、何も聞かなかった。私も何も言わなかった。エルヴィラは相変わらずノートに没頭していて、顔すら上げない。
私は椅子に座り、淹れたての紅茶の香りを吸い込んだ。ベルガモットと、かすかな柑橘。朝と同じ香り。でも、何かが違う気がした。同じ紅茶なのに、少しだけ世界の輪郭が鮮やかに見える。
ふと、テーブルの端に見慣れない封筒が置かれていることに気づいた。
「先ほど届きました」
マリアが言う。
「セレン様からです」
セレンの手紙。ロストリアへ旅立ってから、まだそれほど日は経っていない。もう手紙が届くとは、彼女らしい手際の良さだった。
封を切り、便箋を広げた。
砂漠への旅路は順調であること。現地の魔術師団と合流を果たしたこと。ロストリアの乾いた風は肌に痛いほどだが、夜空の星は信じがたいほど美しいこと。セレンらしい、簡潔で正確な文章が並んでいる。
そして、最後の段落で、セレンの筆跡がわずかに乱れていた。
『砂漠の中央部に、建造物が出現しました。相当に古いもののようです。調査はこれからですが、ひとつ気になることがあります。その建物の入口に刻まれた紋章が——リゼロッテ、あなたのペンダントに刻まれた意匠と、同じものでした』
手紙を持つ指先が、かすかに強張った。
無意識に胸元へ手が伸びる。使い込まれた銀の小さなペンダント。母から受け取った形見。その紋章と同じものが、遠いロストリアの砂漠に。
続きには、調査が進み次第また報告する、とだけ書かれていた。
新しい謎。新しい物語の予感。砂漠の遥か彼方で、何かが目を覚まそうとしている。
でも、今はまだ。
テラスには朝の光が満ちている。マリアの淹れてくれた紅茶はよい香りがする。エルヴィラのペンがノートの上を走る音がかすかに聞こえる。庭のどこかで、ルーカスがくしゃみをした。
私は手紙を置いて、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。——まだ温かかった。
第2章「半分の力で」(全10話)をお読みいただきありがとうございます!
道具に戻されない戦い——リゼロッテが自分の意志で選んだ答え、いかがでしたか?
力は半分になりました。でも一番大切なものは、ちゃんと手の中にあります。
ルーカスの不器用な告白、いかがでしたか? 第3章でもう少しだけ進展します。
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