半分の世界
目が覚めたとき、最初に聞こえたのは鳥の声だった。
離宮の窓から差し込む朝の光が天蓋の布を透かしている。薄い金色。体の内側で唸り続けていた力の重圧が消えると、外の世界がこんなにも近い。
起き上がる。試しに意識を集中させる。指先にかすかな温もりが灯り、掌の上に淡い光が浮かんだ。小さな蕾が形を取り、ゆっくり開く。白い花弁が五枚。それだけで力が尽きた。光は消え、花は空気に溶けた。
一輪。たった一輪が精一杯。
昨日までは庭園を覆うほどの花を咲かせられた。今は一輪。けれど不思議と、その一輪の方が綺麗に見えた。花弁の縁が透き通っていて、朝の光を弾いていた。
「リゼロッテ様、お目覚めですか」
マリアの声が扉の向こうから聞こえた。いつもと変わらない声。少しだけ高い、朝専用の柔らかな声色。今日はその響きがやけに丸い。耳に触れるとき角がない。
「起きています。入って」
扉が開き、マリアが盆を持って入ってきた。茶葉の匂いが部屋に広がった。苦みの奥に甘みがある。鼻腔の奥を温かいものが通り過ぎて、そのまま胸の底まで落ちていく。
「今朝は紅茶にいたしました。エルヴィラ様が南部から持ち帰られた茶葉です」
「いい香り」
言ってから気づいた。香りを褒めたのは初めてかもしれない。マリアが一瞬きょとんとして、それから笑った。
「ありがとうございます。三煎目がいちばん香りが立つんですよ」
茶碗を受け取る。指先に陶器の熱が伝わった。口に含む。舌の上を温かい液体が滑っていく。花のような甘みと、最後にほのかな渋み。喉を通ると、胃の底に灯が入るように温度が広がった。
こんなに美味しかっただろうか、紅茶は。
体から力が減ったぶん、外の世界が違って感じる。始源級の魔力は五感のうえに膜を張っていたのかもしれない。
どちらでもいい。美味しい。それで十分だ。
着替えを終えて廊下に出ると、エルヴィラが小走りにやってきた。手に分厚い束を抱えている。
「リゼロッテ! 昨日の計測結果、まとまったわ。汚染域の縮退速度が予測を上回っているの。芽は半径八十尺まで確認できた。論文三本分のデータよ」
目が輝いていた。研究者の目だ。世界が半分壊れていようが、データが取れれば嬉しい。その単純さが眩しかった。
「エルヴィラ、息を吸って」
「吸ってるわ」
「吸ってない。顔が青い」
エルヴィラは一瞬止まり、深呼吸をひとつして、それから私の肩を掴んだ。
「あなたの体は大丈夫? 魔力残存量の推移を記録させてほしいの。週に一度の採取でいいから」
「私は実験体ですか」
「協力者よ。学術的に極めて貴重な協力者」
言い方を変えただけだ。けれど断る理由もない。頷くと、エルヴィラは束を抱え直して走り去った。廊下に風が通り、紙束の埃の匂いがした。
◇ ◇ ◇
午後、客が来た。
応接間の扉が開いたとき、最初に見えたのはカイルの肩章だった。王太子の紋様。金糸の刺繍が窓からの光を受けて鈍く光っている。
私は椅子から立ち上がらなかった。以前なら立って頭を下げていた。今はその必要を感じない。力を手放した日から、いくつかの儀礼が体から剥がれ落ちていた。
「座ったままで失礼します、カイル殿。足を怪我したわけではありませんが、立ち上がる気力が惜しいので」
カイルは一瞬眉を上げ、向かいの椅子に腰を下ろした。護衛は扉の外。二人きり。以前は婚約者としてこの距離にいた。今は他人だ。
「単刀直入に言う」
「どうぞ」
「お前が力を手放したことで、管理計画は白紙になった。……計算が狂った」
管理計画。始源級の私の魔力を国家資源として運用する計画だ。婚約はその一環だった。
「計算通りにいかないのが人間ですよ、カイル殿」
カイルの目が細くなった。怒りではない。むしろ——値踏みしている目だった。壊れたと思った道具が、思いがけず口を利いたのを見る目。
「お前は変わったな」
「力が減っただけです。中身は同じですよ。ただ前は、同じことを言う余裕がなかっただけで」
茶碗の中で紅茶の水面が小さく揺れている。窓の外で鳥が鳴いた。
「……邪魔した」
カイルは立ち上がり、背を向けた。振り返りはしなかった。そのまま、出ていった。謝罪もなければ、礼もない。最後まで自分の計算が正しかったと信じている男の背中だった。
扉が閉まった後、紅茶を一口飲んだ。冷めかけた液体が舌の上で少しだけ苦い。けれど不快ではなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、庭に出ると、セレンがいた。
旅装だった。濃い灰色の外套に革の鞄。ロストリアに帰るのだ。石壁の表情。けれど今は、その石壁に細い罅が入っているのが見える。
「大地が、少しだけ息を吹き返しています」
セレンが言った。報告のような口調だった。
「ロストリアでも確認できたの?」
「地脈は繋がっている。南部が回復すれば、東の汚染域にも影響が出る。……時間はかかるけれど」
風が吹いた。庭の草が揺れて、青い匂いが立ち上った。草いきれ。生きている植物の匂い。汚染域にはなかった匂いだ。セレンの鼻が僅かに動いた。匂いを嗅いでいる。この人も、同じ匂いを感じているのだ。
「セレン」
「何」
「また来て」
セレンの眉が一ミリほど上がった。間があった。三秒か、五秒か。
「……考えておきます」
素っ気ない返事だった。けれど口元が、ほんの少しだけ持ち上がっていた。笑みと呼ぶには足りない。けれど石壁には確かになかったもの。
セレンは背を向けて庭の門に向かった。外套の裾が風に揺れる。考えておきます、は、この人の言葉では「はい」に最も近い返事だ。
日が傾いていた。離宮の壁が夕陽を受けて温かい色に変わった。
その色を眺めていると、背後に足音がした。重い足取り。護衛のものとは違う。振り返ると、フリードリヒ国王がいた。
「散歩の途中だ。たまたま通りかかった」
たまたまの散歩にしては護衛の配置が整いすぎている。けれど指摘はしなかった。
「お座りになりますか」
庭の石段を示すと、フリードリヒは頷いて腰を下ろした。膝に手を置き、夕焼けの空を見上げる。
「力を失ったことを、悔いているか」
「いいえ」
「そうか」
短いやり取りだった。フリードリヒはそれ以上踏み込まなかった。沈黙が心地よかった。王と臣下の沈黙ではない。何も求めない隣り合わせ。
「この国に、まだいるか」
「はい。ここが私の家ですから」
フリードリヒの口元が微かに緩んだ。笑ったのかどうかは分からない。けれど空気が柔らかくなった。石段の石が夕陽の熱を含んでいて、座っている場所からじんわりと温もりが昇ってくる。
「そうか。——それは、よかった」
それだけ言って、フリードリヒは立ち上がった。ルーカスより広い背中が遠ざかっていく。
その背中が角を曲がった直後、入れ替わるように別の足音が聞こえた。
「親父、何しに来た」
ルーカスだった。添え木の腕を庇いながら、石段のそばに立っている。夕陽が横顔を照らして、目元の影が濃い。
「散歩の途中だそうよ」
「嘘だろ。あの人が散歩なんかするか」
「知ってる。でも言わないであげて」
ルーカスは鼻を鳴らして、フリードリヒが座っていた場所に腰を下ろした。石段は二人分の幅しかない。肩と肩の間に拳ひとつ分の隙間。近い。添え木の白い布が視界の隅に見えた。
しばらく、何も言わなかった。空が橙から紫に変わり、最初の星が瞬いた。庭の草むらから虫の声が聞こえ始めた。昼の草いきれが退いて、湿った土の匂いが立ち上ってくる。
「ルーカス」
「何だ」
「腕、痛む?」
「別に」
嘘だ。さっきから添え木の端を左手で押さえ直している。痛むときの癖。指摘はしない。この人は痛みを認めない。
「さっき花を咲かせてみたの。一輪だけ。それが今の限界」
「知ってる。窓から見えた」
見ていたのか。
「一輪だろうが百輪だろうが、関係ない」
ぶっきらぼうな声だった。夕焼けの残照が消えかけた空を見たまま、こちらを向かない。
「弱くなったお前の方が、俺は好きだ」
空気が止まった。虫の声が遠くなった。ルーカスはまだ空を見ている。表情が変わらない。天気の話と同じ重さで、決定的なことを言う人だ。
「……それは褒めているの?」
「さあ。考えろ」
考えろ。この人らしい。好きだと言いながら解釈は丸投げする。けれどその不器用さに慣れている自分がいた。始源級だった頃も、力を失った今も、この人の態度は何ひとつ変わっていない。態度が変わらないことが、どんな言葉よりも重かった。
「ありがとう。褒め言葉として受け取っておく」
「勝手にしろ」
ルーカスが立ち上がった。添え木の腕を庇いながら、伸ばした左手でこちらの頭を一度だけ軽く叩いた。乱暴な手つき。胼胝のある掌の感触が髪越しに伝わった。温かい手だった。
背を向けて歩き出す。三歩目で足を止めた。
「——明日、」
振り返りかけて、やめた。首を横に振って、そのまま歩いていった。
明日、何だろう。
その言いかけた言葉の続きが気になった。星が三つに増えた。虫の声が重なって、夜の庭は昼より賑やかだ。
石段にはまだ二人分の温もりが残っていた。ルーカスが座っていた場所に手を置く。石はまだ温かかった。
明日。
その一言が胸の中に残って、紅茶の余韻のように消えなかった。




