表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
2章 半分の力で

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/25

半分の世界

 目が覚めたとき、最初に聞こえたのは鳥の声だった。


 離宮の窓から差し込む朝の光が天蓋の布を透かしている。薄い金色。体の内側で唸り続けていた力の重圧が消えると、外の世界がこんなにも近い。


 起き上がる。試しに意識を集中させる。指先にかすかな温もりが灯り、掌の上に淡い光が浮かんだ。小さな蕾が形を取り、ゆっくり開く。白い花弁が五枚。それだけで力が尽きた。光は消え、花は空気に溶けた。


 一輪。たった一輪が精一杯。


 昨日までは庭園を覆うほどの花を咲かせられた。今は一輪。けれど不思議と、その一輪の方が綺麗に見えた。花弁の縁が透き通っていて、朝の光を弾いていた。


「リゼロッテ様、お目覚めですか」


 マリアの声が扉の向こうから聞こえた。いつもと変わらない声。少しだけ高い、朝専用の柔らかな声色。今日はその響きがやけに丸い。耳に触れるとき角がない。


「起きています。入って」


 扉が開き、マリアが盆を持って入ってきた。茶葉の匂いが部屋に広がった。苦みの奥に甘みがある。鼻腔の奥を温かいものが通り過ぎて、そのまま胸の底まで落ちていく。


「今朝は紅茶にいたしました。エルヴィラ様が南部から持ち帰られた茶葉です」


「いい香り」


 言ってから気づいた。香りを褒めたのは初めてかもしれない。マリアが一瞬きょとんとして、それから笑った。


「ありがとうございます。三煎目がいちばん香りが立つんですよ」


 茶碗を受け取る。指先に陶器の熱が伝わった。口に含む。舌の上を温かい液体が滑っていく。花のような甘みと、最後にほのかな渋み。喉を通ると、胃の底に灯が入るように温度が広がった。


 こんなに美味しかっただろうか、紅茶は。


 体から力が減ったぶん、外の世界が違って感じる。始源級の魔力は五感のうえに膜を張っていたのかもしれない。


 どちらでもいい。美味しい。それで十分だ。


 着替えを終えて廊下に出ると、エルヴィラが小走りにやってきた。手に分厚い束を抱えている。


「リゼロッテ! 昨日の計測結果、まとまったわ。汚染域の縮退速度が予測を上回っているの。芽は半径八十尺まで確認できた。論文三本分のデータよ」


 目が輝いていた。研究者の目だ。世界が半分壊れていようが、データが取れれば嬉しい。その単純さが眩しかった。


「エルヴィラ、息を吸って」


「吸ってるわ」


「吸ってない。顔が青い」


 エルヴィラは一瞬止まり、深呼吸をひとつして、それから私の肩を掴んだ。


「あなたの体は大丈夫? 魔力残存量の推移を記録させてほしいの。週に一度の採取でいいから」


「私は実験体ですか」


「協力者よ。学術的に極めて貴重な協力者」


 言い方を変えただけだ。けれど断る理由もない。頷くと、エルヴィラは束を抱え直して走り去った。廊下に風が通り、紙束の埃の匂いがした。


◇ ◇ ◇


 午後、客が来た。


 応接間の扉が開いたとき、最初に見えたのはカイルの肩章だった。王太子の紋様。金糸の刺繍が窓からの光を受けて鈍く光っている。


 私は椅子から立ち上がらなかった。以前なら立って頭を下げていた。今はその必要を感じない。力を手放した日から、いくつかの儀礼が体から剥がれ落ちていた。


「座ったままで失礼します、カイル殿。足を怪我したわけではありませんが、立ち上がる気力が惜しいので」


 カイルは一瞬眉を上げ、向かいの椅子に腰を下ろした。護衛は扉の外。二人きり。以前は婚約者としてこの距離にいた。今は他人だ。


「単刀直入に言う」


「どうぞ」


「お前が力を手放したことで、管理計画は白紙になった。……計算が狂った」


 管理計画。始源級の私の魔力を国家資源として運用する計画だ。婚約はその一環だった。


「計算通りにいかないのが人間ですよ、カイル殿」


 カイルの目が細くなった。怒りではない。むしろ——値踏みしている目だった。壊れたと思った道具が、思いがけず口を利いたのを見る目。


「お前は変わったな」


「力が減っただけです。中身は同じですよ。ただ前は、同じことを言う余裕がなかっただけで」


 茶碗の中で紅茶の水面が小さく揺れている。窓の外で鳥が鳴いた。


「……邪魔した」


 カイルは立ち上がり、背を向けた。振り返りはしなかった。そのまま、出ていった。謝罪もなければ、礼もない。最後まで自分の計算が正しかったと信じている男の背中だった。


 扉が閉まった後、紅茶を一口飲んだ。冷めかけた液体が舌の上で少しだけ苦い。けれど不快ではなかった。


◇ ◇ ◇


 夕方、庭に出ると、セレンがいた。


 旅装だった。濃い灰色の外套に革の鞄。ロストリアに帰るのだ。石壁の表情。けれど今は、その石壁に細い罅が入っているのが見える。


「大地が、少しだけ息を吹き返しています」


 セレンが言った。報告のような口調だった。


「ロストリアでも確認できたの?」


「地脈は繋がっている。南部が回復すれば、東の汚染域にも影響が出る。……時間はかかるけれど」


 風が吹いた。庭の草が揺れて、青い匂いが立ち上った。草いきれ。生きている植物の匂い。汚染域にはなかった匂いだ。セレンの鼻が僅かに動いた。匂いを嗅いでいる。この人も、同じ匂いを感じているのだ。


「セレン」


「何」


「また来て」


 セレンの眉が一ミリほど上がった。間があった。三秒か、五秒か。


「……考えておきます」


 素っ気ない返事だった。けれど口元が、ほんの少しだけ持ち上がっていた。笑みと呼ぶには足りない。けれど石壁には確かになかったもの。


 セレンは背を向けて庭の門に向かった。外套の裾が風に揺れる。考えておきます、は、この人の言葉では「はい」に最も近い返事だ。


 日が傾いていた。離宮の壁が夕陽を受けて温かい色に変わった。


 その色を眺めていると、背後に足音がした。重い足取り。護衛のものとは違う。振り返ると、フリードリヒ国王がいた。


「散歩の途中だ。たまたま通りかかった」


 たまたまの散歩にしては護衛の配置が整いすぎている。けれど指摘はしなかった。


「お座りになりますか」


 庭の石段を示すと、フリードリヒは頷いて腰を下ろした。膝に手を置き、夕焼けの空を見上げる。


「力を失ったことを、悔いているか」


「いいえ」


「そうか」


 短いやり取りだった。フリードリヒはそれ以上踏み込まなかった。沈黙が心地よかった。王と臣下の沈黙ではない。何も求めない隣り合わせ。


「この国に、まだいるか」


「はい。ここが私の家ですから」


 フリードリヒの口元が微かに緩んだ。笑ったのかどうかは分からない。けれど空気が柔らかくなった。石段の石が夕陽の熱を含んでいて、座っている場所からじんわりと温もりが昇ってくる。


「そうか。——それは、よかった」


 それだけ言って、フリードリヒは立ち上がった。ルーカスより広い背中が遠ざかっていく。


 その背中が角を曲がった直後、入れ替わるように別の足音が聞こえた。


「親父、何しに来た」


 ルーカスだった。添え木の腕を庇いながら、石段のそばに立っている。夕陽が横顔を照らして、目元の影が濃い。


「散歩の途中だそうよ」


「嘘だろ。あの人が散歩なんかするか」


「知ってる。でも言わないであげて」


 ルーカスは鼻を鳴らして、フリードリヒが座っていた場所に腰を下ろした。石段は二人分の幅しかない。肩と肩の間に拳ひとつ分の隙間。近い。添え木の白い布が視界の隅に見えた。


 しばらく、何も言わなかった。空が橙から紫に変わり、最初の星が瞬いた。庭の草むらから虫の声が聞こえ始めた。昼の草いきれが退いて、湿った土の匂いが立ち上ってくる。


「ルーカス」


「何だ」


「腕、痛む?」


「別に」


 嘘だ。さっきから添え木の端を左手で押さえ直している。痛むときの癖。指摘はしない。この人は痛みを認めない。


「さっき花を咲かせてみたの。一輪だけ。それが今の限界」


「知ってる。窓から見えた」


 見ていたのか。


「一輪だろうが百輪だろうが、関係ない」


 ぶっきらぼうな声だった。夕焼けの残照が消えかけた空を見たまま、こちらを向かない。


「弱くなったお前の方が、俺は好きだ」


 空気が止まった。虫の声が遠くなった。ルーカスはまだ空を見ている。表情が変わらない。天気の話と同じ重さで、決定的なことを言う人だ。


「……それは褒めているの?」


「さあ。考えろ」


 考えろ。この人らしい。好きだと言いながら解釈は丸投げする。けれどその不器用さに慣れている自分がいた。始源級だった頃も、力を失った今も、この人の態度は何ひとつ変わっていない。態度が変わらないことが、どんな言葉よりも重かった。


「ありがとう。褒め言葉として受け取っておく」


「勝手にしろ」


 ルーカスが立ち上がった。添え木の腕を庇いながら、伸ばした左手でこちらの頭を一度だけ軽く叩いた。乱暴な手つき。胼胝のある掌の感触が髪越しに伝わった。温かい手だった。


 背を向けて歩き出す。三歩目で足を止めた。


「——明日、」


 振り返りかけて、やめた。首を横に振って、そのまま歩いていった。


 明日、何だろう。


 その言いかけた言葉の続きが気になった。星が三つに増えた。虫の声が重なって、夜の庭は昼より賑やかだ。


 石段にはまだ二人分の温もりが残っていた。ルーカスが座っていた場所に手を置く。石はまだ温かかった。


 明日。


 その一言が胸の中に残って、紅茶の余韻のように消えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ