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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
2章 半分の力で

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大地への返礼

 儀式の朝は、風がなかった。


 汚染域の中心部。灰色に乾ききった大地が地平線まで続いている。かつては麦畑だったらしいが、今は一本の茎も残っていない。亀裂の走る地面からは匂いがしなかった。土の匂いすら失われた場所。晴れた空の光が地面に落ちても、跳ね返る先がない。


 エルヴィラが白い粉で地表に円を描いていた。直径は十歩ほど。その中心に浅い窪みが掘られている。


「この窪みを起点にすれば、還元反応は周囲二十尺まで広がるはず。理論上は」


 最後の三文字に力がこもっていた。理論上は。つまり、まだ誰も試していない。


 ルーカスが円の外に立っている。右腕は添え木で固定されたまま。左手だけで剣の柄に触れ、視線で周囲を巡らせていた。昨日私が治療した腕。完全には繋がっていない骨。不完全な回復。それでもここに立っている。


 セレンは五歩ほど離れた場所に腕を組んで立っていた。目が合った。何も映さない黒い瞳。出会ってからずっと、この人は私を値踏みし続けている。アリシアと同じ過ちを犯すのかどうか、見定めるために。


 フリードリヒ国王は後方に。護衛と共に静かに控えていた。


 私は円の中に入った。膝をつく。乾いた土が薄い布越しに膝頭へ食い込んだ。両掌を地面に置く。灰色の土は紙のように脆く、指の重みで端から崩れた。


 首からペンダントを外す。母の形見。青い石が嵌め込まれた銀の枠。それを窪みの底に押し当てた。


 三つの冷たさが指先に重なる。金属。石。死んだ大地。


 目を閉じた。


 返す。


 借りていたものを返す。引き出すのではなく。搾取するのではなく。ガルディアが私にしたことの、正反対を。


 掌から、力が流れ始めた。


◇ ◇ ◇


 最初は温かかった。


 体の芯から指先へ、指先から土へ。川が海に注ぐように傾斜に沿って流れていく。昨日ルーカスの腕を治したときと似た感覚——ただし今回は、止めない。返せるだけ、全部。


 温度が落ち始めた。指先から冷えていく。手首を遡り、肘に届き、肩に達する。真冬の井戸水に腕を沈めたような冷たさ。けれど痛みはない。力が抜けていく感覚は、奇妙なほど穏やかだった。ガルディアで搾り取られたときの、内臓を鉤爪で引き裂かれるような暴力とはまるで違う。あれは奪われた。今は、渡している。その差が、これほど大きいとは知らなかった。


 最初に消えたのは、味覚だった。


 汚染域に踏み入れてからずっと舌の奥にあった金属の味。それがふっと消える。代わりに何かが来るわけでもない。ただ、味そのものが薄れていく。舌の上が空白になる。何を口に含んでも、甘さも苦さも感じない舌。そういうものに、私はなっていく。


 次に、音が遠ざかった。


 エルヴィラが数値を読み上げている。言葉が輪郭を失い、水底から響くように曇っていく。ルーカスの靴が砂利を踏む音。衣擦れ。虫の羽音。ひとつずつ、布に包まれて沈んでいく。世界が薄い膜の向こうに後退していく。


 そして——色が褪せた。


 薄く目を開けた。灰色の地面がさらに白くなっている。空の青が水で薄めたように淡い。エルヴィラの赤い髪が、ルーカスの深緑の外套が。すべてから彩度だけが静かに抜け落ちていく。


 私が「少なく」なっていく。


 味がない。音が遠い。色が薄い。体が芯から冷え、指先の感覚が曖昧になり、自分の輪郭が溶け出していく。


 それでも、掌の下に、何かが触れた。


 脈動。


 死んでいたはずの地面の下に、微かな拍動がある。心臓ではない。もっと大きくて、もっと緩やかなもの。大地そのものの呼吸。吸って、吐いて。私の掌を通じて力を受け取りながら、土の奥で何かが目を覚まし始めている。


 この感触を、私は知らない。ガルディアでは一度も感じなかった。あのとき大地は沈黙していた。搾り取られるだけの、声のない土。けれど今、私が返しているから、大地が応えている。呼吸が掌を押し返してくる。微かに、確かに。生きている。


 もう少し。もう少しだけ。


 体が傾いた。膝が浮きかけ、掌が地面を滑った。視界が白く飛ぶ。力がもう出ない。蛇口を開いても水が来ない。空っぽだった。搾り取られたのではない。自分で全部、出し切った。


 地面が迫ってくる。倒れる——と思った瞬間、腕に支えられた。


 フリードリヒではなかった。ルーカスでもない。


 セレンだった。


 細い腕が私の肩を抱えている。いつ駆け寄ったのか分からない。華奢な体。けれど腕は揺るがない。乾いた木の根のように確かな力で、私を受け止めている。


 色を失った視界にセレンの顔が浮かんだ。輪郭だけが、ぼんやりと。


「あなたは」


 低く、静かな声。遠くなった聴覚にも、その声だけは届いた。


「——アリシアとは、違った」


 違った。過去形。比べているのではない。確かめているのだ。この人はずっと私を見ていた。同じ過ちを繰り返すのかと、見張っていた。そして今、答えが出た。


 セレンの唇が動いた。


「リゼロッテ」


 名前だった。


 出会ってから今日まで、この人は一度も私の名前を呼ばなかった。「あなた」と、「あの娘」と、ときにはただ視線だけで。けれど今、初めて。


 応えたかった。声が出なかった。力を出し切った喉は、呼吸を通すだけで精一杯で、代わりに唇の端をほんの少し持ち上げた。笑えたかどうかは、自分では分からない。


◇ ◇ ◇


 どのくらい横たわっていたのだろう。


 意識は途切れなかった。ただ世界がずっと遠かった。味のない口の中。曇った耳。色の薄い視界。セレンの腕に支えられたまま、白い空を見上げていた。


 エルヴィラの声が、水底から浮かぶように聞こえた。


「汚染濃度、儀式前の七割まで低下。魔力残存量は——」


 言葉が途切れる。


「……始源級の閾値を、下回っています」


 知っていた。体で分かる。昨日まで体の奥にあった力の塊。熱く、重く、常に脈打っていたもの。それが半分以上、消えている。水瓶の底に残った最後の一杯ほどの、心許ない残り。


 始源級ではなくなった。私はもう、ただの魔術師だ。


「セレン」


 掠れた声が出た。自分のものとは思えないほど薄い。


「何」


「見て」


 右手を持ち上げた。震える指で、ペンダントを押し当てていた窪みのあたりを指す。


 セレンの目がそちらに向いた。


 灰色の、乾ききった大地。亀裂の走る死んだ地面。その割れ目から——小さな緑が、突き出ていた。


 芽だった。


 親指の先ほどの双葉が、灰色の土を割って朝の光に向かっている。たったひとつ。それだけ。枯死した大地にぽつんと生まれた、ひとひらの緑。


 そしてその芽の根元から、湿った土の匂いが立ち上っていた。砂埃しかなかった場所に、雨上がりの匂い。味を失い、音が遠のき、色の褪せた世界の中で——嗅覚だけが、それを拾い上げた。生きている土の匂い。


 セレンの腕が震えた。


 私を支えている腕が一瞬硬くなり、それからかすかに震え始めた。見上げる。セレンの表情は変わらなかった。口は結ばれたまま。眉は動かない。石壁のまま。


 けれど目から、水が落ちた。


 音もなく。声もなく。まばたきの下から涙がひとすじ、頬を伝い、顎の先から灰色の地面に落ちた。もうひとすじ。セレンはそれを拭わなかった。表情を崩さないまま、ただ涙だけが頬を滑っていく。


 この人が泣くのを、誰も見たことがないのだろう。アリシアが大地を壊したとき。故郷の森が枯れたとき。異国でたった一人、答えを探し続けたとき。この人は泣かなかった。腕を組んで、石壁の顔で耐えてきた。


 けれど今、芽がひとつ。たった一つの双葉で、涙が落ちた。


 私は泣かなかった。泣く力が残っていなかったのではない。泣く必要がなかった。掌の奥にまだ残っている大地の脈動。あの呼吸の記憶が、涙よりも確かな答えだった。


「……ありがとう」


 セレンが言った。震えた声だった。


 何に対してかは訊かなかった。芽に対してだ。大地に対してだ。アリシアがやり残したことを、不完全ながら少しだけ継いだことに対して。


 ルーカスが近づいてきた。添え木の腕を庇いながら私の傍にしゃがみ込む。何も言わない。左手を伸ばして、私の背中を支えた。硬い掌。昨日の胼胝の感触。色のない世界の中で、温度だけが確かだった。


 体が軽い。


 力を手放した体は、荷を降ろした馬のように軽かった。ずっと体の奥で唸り続けていた力の重圧が消えて、自分の輪郭がかえってはっきりする。少なくなった。けれど、軽くなった。背負っていた荷物の重さを、降ろして初めて知る。あれはずっと、重かったのだ。


 始源級の力は失われた。大地の半分はまだ枯れている。完璧には程遠い。


 けれど大地は呼吸をしている。芽がひとつ。湿った土の匂いがする。


 それで十分だと、今は思えた。


 花を一輪咲かせるのが精一杯かもしれない。治癒魔法は小さな切り傷まで。半分の力。昨日までの私とは別の、小さな器。


 半分の力で、半分の世界で。これから私は、どう生きていくのだろう。


 目を閉じた。セレンの腕とルーカスの掌に支えられながら、答えのない問いを胸の中で転がした。その問いの角は丸く、抱えていても手を傷つけなかった。

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