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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
2章 半分の力で

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22/25

不完全な私で

 夜だった。


 離宮の裏手を抜けて、南部汚染域の外縁まで歩いた。誰にも告げずに。マリアが寝息を立て始めたのを確認してから、素足のまま革靴だけを突っかけて。


 月が出ていた。薄い雲を透かした光が、枯れた地面を白く染めている。ここは昨日の暴走で半分だけ色を取り戻した場所だ。境界線がはっきりと見える。右側は黒みがかった茶色の土。生きている土。左側は灰色に乾いた、呼吸をやめた大地。その境目に腰を下ろした。


 地面は冷たかった。昼間の熱を手放した土が、薄い夜着の布越しに体温を吸い取っていく。枯れた草の茎が掌に刺さる。折れた茎の断面はざらついていて、指先で触れると乾いた粉が零れた。風が吹くたびに砂埃が舌の上に落ちて、苦い土の味がした。


 虫の声がない。生きている側の土からは微かに秋の虫が鳴いているのに、汚染された側は沈黙している。二つの世界の境目に座って、私は自分の両手を膝の上に置いた。


 震えている。まだ。昨日から、ずっと。


 目を閉じると、骨が折れる音が蘇る。乾いた、短い音。木の枝を踏み折ったような——けれどあれは枝ではなかった。ルーカスの右腕だった。私の暴走した力が弾き飛ばし、地面に叩きつけ、折った。近づくなと声に出すこともできなかった。止めることも。ただ力が溢れて、最も近くにいた人を壊した。


 掌を見る。月明かりの下で、指の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。この手に力がある。大地を癒す力がある。アリシアの残滓に触れ、汚染を浄化しかけた力がある。そして同時に、同じ手が、ルーカスの腕を折った。


 考えろ。


 感じるな、ではない。感じることをやめるのは、もう終わりにした。感じた上で、考えろ。


 枯れた土を掌で掬った。指の隙間から、砂のように零れていく。昨日もこうだった。大地に力を流し込んだとき、水路に水を通すような手応えがあった。だからもっと流した。もっと深く。もっと遠くまで。


 アリシアの声が聞こえた瞬間、蛇口が壊れた。溢れる水を、もっと強い力で止めようとした。


 蛇口が壊れたら、もっと強くひねろうとした。あの男と同じだ。


 ガルディアは私の力だけを見て、私を見なかった。私は自分の力だけを見て、大地を見なかった。


 風が止んだ。夜の空気が静まり返り、遠くの森の輪郭が月明かりに浮かんでいる。星が見えた。雲の切れ間から、冬に向かう空の星が冷たく光っている。手を伸ばしても届かない光。けれど確かにそこにある光。


 アリシアは力を手放せなかった。握り締めて、腐らせた。私は力で大地を治そうとした。治すこと自体は間違っていない。けれど力で蛇口をねじ伏せようとしたのが誤りだった。


 もっと単純な話だ。


 借りた水は返す。返すのに、力は要らない。手を開くだけでいい。


 全部でなくていい。返せる分だけ。一輪の花が枯れた分だけ。それで足りなければ、また明日返す。一度に全部を解決しようとしたことが、そもそもの間違いだった。


 立ち上がった。膝が冷えて軋む。枯れた草の屑が夜着の裾にくっついている。払い落とすと、乾いた土の粉が月光の中を舞った。


 離宮に戻る足取りは、来たときよりも軽かった。


◇ ◇ ◇


 朝。ルーカスの部屋の前に立った。


 扉を三回叩く。間隔を揃えて。マリアの真似だと気づいて、少しだけ口元が歪んだ。


「……開いてる」


 中に入った。窓際の寝台に腰掛けたルーカスが、左手で水差しを持っていた。右腕は布と添え木で胸の前に固定されている。朝の光が窓から差し込み、部屋の中に埃の粒子を浮かび上がらせている。薬草の湿布の匂い。苦い、青い匂いだった。


「腕は」


「折れてる」


 当たり前のことを訊いて、当たり前の答えが返ってきた。


「……ごめんなさい」


 声に出した。短く。それだけを。


 ルーカスが水差しを置いた。左手で置いたので、少し不安定に卓の端に当たって硬い音が鳴った。


「謝るために来たのか」


「違う」


 息を吸った。薬草の苦い匂いが肺の奥まで沁みる。


「あなたの腕を折ったのは私の力よ。でもそれを治せるのも、私の力。だから——最後にもう一度だけ、使わせて」


 ルーカスの目が細くなった。私を見ている。何も言わない。三秒。五秒。窓の外で雀が二羽、石壁の隙間から飛び立つ音がした。


「……やれよ」


 寝台の横に膝をついた。ルーカスの右腕に手を伸ばす。添え木の隙間から覗く肌に、指先が触れた。熱い。腫れた肌の熱が指に伝わる。


 力を流す。昨夜決めたやり方で。ねじ伏せるのではなく、通す。骨が在るべき形に戻るように、道を作るだけ。完璧でなくていい。


 光が手のひらから滲んだ。昨日の暴走のときとは違う。静かな、細い光。安定している。震えている手から、安定した光が出ている。その矛盾が、喉の奥にひとつ小石を置いたように引っかかった。


 ルーカスの左手が動いた。


 私の手を掴んだ。


 治療中の右腕ではなく——添え木で固定された腕のすぐ横を、左手が私の指ごと包み込んだ。大きな手だった。剣を握り続けた掌は硬く、指の腹には胼胝の厚い層がある。その荒れた皮膚が、震えている私の指に直に触れている。


「震えてんぞ」


「……うるさい」


 手を引かなかった。引けなかった。ルーカスも離さなかった。


 光は細く、静かに、骨の継ぎ目に沁み込んでいく。完全には治らない。折れた骨が一度で元に戻るほどの力は、出していない。けれど痛みは和らぐはずだ。腫れは引くはずだ。不完全な回復。それでいい。


 光が消えた。力が尽きたのではなく、流すべき量を流し終えたからだ。


 ルーカスが右手の指を動かした。ゆっくりと。握って、開いて。添え木に制限されて途中までしか動かない。けれど昨日よりは動いている。


「……マシになった」


「完全には治っていないけど」


「知ってる」


 左手がまだ私の手を掴んでいた。離すタイミングを逃したのか、離す気がないのか。どちらでもいい。私も引く気がなかった。


 胼胝の感触が指に残っている。硬くて、乾いていて、温かい。この手が折れた腕を庇いながら「止まったか」と私に訊いた。この手が石の廊下で一晩中座り込んでいた。


 手を離した。ゆっくりと。名残が指の腹に焼きついている。


「ありがとう」


 ルーカスが言った。小さな声だった。


「……何に対して」


「治療に」


 目を合わせなかった。窓の外を見ている横顔。耳の先が、ほんの少し赤い。


◇ ◇ ◇


 立ち上がった。膝の裏が痺れている。治療に使った力の代償で、指先の感覚が薄れていた。爪の先まで、ぬるい水に浸したような鈍さがある。


「エルヴィラに伝えるわ。儀式——今の私にできる形でいい。返せるものだけ、大地に返す方法を」


 扉に向かう途中で、ルーカスの声が背中に届いた。


「リゼロッテ」


 振り返らなかった。


「今度は一人で行くな」


 足を止めた。一拍。


「……わかった」


 廊下に出た。朝の光が石壁を白く照らしている。昨夜座っていた枯れた大地の冷たさが、まだ身体の芯に残っていた。けれど指先にはそれとは別の温度がある。胼胝の感触。あの硬くて乾いた掌の記憶。


 ——儀式の準備が要る。エルヴィラの理論を、今の私にできる形に組み直す。今度は暴走しない。力でねじ伏せない。ただ返す。借りた水を、大地に。


 けれどその前に、あの男の耳が赤かった理由について、考えるのはやめておく。今はまだ。

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