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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
2章 半分の力で

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暴走

 報告が届いたのは、エルヴィラと誘導理論の詳細を詰めている最中だった。


 伝令の兵士は息を切らしていた。革の胸当てから汗の匂いが立ち上り、羊皮紙を差し出す手が土で汚れている。


「南部汚染域の拡大速度が、昨日の三倍を記録しました」


 エルヴィラの羽根ペンが止まった。


「三倍? 観測誤差では?」


「観測点二箇所で同一の数値です。周辺の植生が枯死し始めています」


 私は窓の外に目をやった。離宮から南を望む。地平線は穏やかに霞んでいる。あの向こうで大地が腐りかけているとは、ここからは分からない。けれど分からないことと、起きていないことは違う。


「行くわ」


 自分の声が思ったより硬かった。エルヴィラが顔を上げる。


「理論の検証がまだ——」


「待っている間に汚染が街まで届いたら、理論の正しさを証明する土地がなくなる」


 エルヴィラは数秒、私を見つめてから頷いた。


「……現地で理論を試すことになるわね」


「いいえ。現地で理論を実証するの」


 廊下に出ると、ルーカスがすでに壁際に立っていた。伝令の声が聞こえていたのだろう。何も訊かずに歩き出す背中を、私は追った。石畳を踏む二人分の足音だけが廊下に残る。彼の歩幅は、私が小走りにならずに済む速度に調整されている。


◇ ◇ ◇


 南部汚染域に踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 変わった、というより途切れた。草の匂いがない。土の湿り気がない。風はあるのに、風が何も運んでこない。まるで大地が呼吸をやめてしまったような、空白の空間だった。


 足元の地面は灰色に変色している。かつて草地だっただろう場所に、乾ききった亀裂が走り、割れ目の奥は黒く澱んでいた。靴底を通して伝わる地面の感触が硬く、冷たい。生きている土の弾力とは、まるで違うものだった。


 セレンが地面に片膝をついた。掌を地表に押し当て、目を閉じる。


「……深い。汚染の根が、地下十数尺まで達している」


 エルヴィラが観測器具を取り出し、数値を記録し始めた。ルーカスは周囲を警戒しながら、私の三歩後ろに立っている。


 私は汚染域の中心に向かって歩いた。一歩ごとに空気が重くなる。舌の奥に金属の味が滲む。アリシアが大地から引き上げ、返さなかった力の残滓。それが腐敗し、土を蝕んでいる。


「ここで試すわ」


 振り返らずに言った。


 膝をつき、両掌を地面に置いた。灰色の土は紙のように乾いていて、指の間からさらさらと崩れた。目を閉じる。


 魔力を手のひらから大地へ流す。引き出すのではなく、還す。川が海に注ぐように、自然な勾配を作る。


 最初に変わったのは、温度だった。掌の下の土が、わずかに温みを帯びる。死んでいた地面に体温が戻るように。指先から力が流れ出ていく感覚は、ガルディアで搾り取られたときの切り裂かれるような痛みとはまるで違う。ただ穏やかに、流れていく。


「……反応がある。汚染値が下がっている」


 エルヴィラの声が遠くから聞こえた。


 もう少し。もう少しだけ深く。大地の奥に、腐敗の底に沈んだ古い力の残骸がある。アリシアが遺したもの。それに手を伸ばし——


 掴まれた。


 比喩ではない。魔力の流れの中で、何かが私の意識を掴み、引きずり込んだ。


 音が消えた。


 風の音が消えた。エルヴィラの声が消えた。虫の羽音さえ。世界から一切の音が剥ぎ取られて、完全な静寂だけが残った。


 静寂は優しくなかった。何も聞こえないということは、何にも頼れないということだ。自分がまだ息をしているのかどうかさえ、確かめる術がない。


 暗い。冷たい。そしてどこかから、声がした。


 ——守りたかっただけ。


 私の声ではない。けれど私の声によく似ていた。もう少し柔らかくて、もう少し疲れた声。


 ——ただ、それだけだったの。


 暗闇の中に、輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。長い髪。伏せた目。私よりもずっと大きな力を持っていたはずなのに、その姿はひどく小さく見えた。


 アリシア。


 大地の記憶の中に残った、彼女の欠片。


 ——力があれば守れると思った。だから手放せなかった。手放したら、もう何も守れないと思ったから。


 その言葉が胸の奥で引っかかった。理解できてしまった。力がなければ守れない。守るためには力を手放せない。手放せないから、力は澱み、腐り、大地を蝕む。


 アリシアは敵ではなかった。かつての私だった。ガルディアで魔力を搾り取られながら、それでも養父の求めに応じ続けた私。従わなければ居場所を失うと、自分を差し出し続けた私と——


 理解した瞬間、制御が外れた。


 還すはずだった力が逆流する。大地の底から腐敗した魔力が噴き上がり、私の身体を通路にして地表に溢れ出した。止められない。指先から爪先まで、他人の力が奔流のように駆け巡る。


 意識の端で、何かが弾ける音がした。木が裂ける音。地面が割れる振動。私の周囲で力が暴れている。分かるのに、止められない。


 考えろ。


 自分に命じた。


 アリシアの声に引きずられた。二つの水が一つの水路でぶつかっている。だから溢れる。原因は分かっている。分かっているのに身体が応じない。


 遠くで声がした。


 聞こえないはずなのに——足音だけが、静寂を割って届いた。重い足音。迷いのない歩幅。


 やめて。近づかないで。今の私に触れたら——


 衝撃。


 暴走した魔力が、近づいてきたものを弾き飛ばした。鈍い音。人が地面に叩きつけられる音。そして、骨が折れる短く乾いた音。


 その音で、世界が戻った。


 風の唸り。土煙の中で咳き込む声。エルヴィラの叫び。そして自分の呼吸。荒く、速く、肺が軋むほどに。


 目を開けた。


 地面に両手をついている。指の下の土は灰色ではなかった。黒みがかった茶色。生きている土の色に、わずかに戻っている。


 五歩先に、ルーカスが倒れていた。


 仰向け。右腕が——あり得ない角度に曲がっている。肘と手首の間で、本来折れるはずのない方向に。


 彼は左手で身体を起こそうとしていた。顔は土に汚れ、唇の端が切れて血が滲んでいる。それでも私を見ていた。痛みに霞んだ目で、まっすぐに。


「……止まったか」


 声は掠れていた。折れた右腕を庇いながら、それだけを確認する声。


◇ ◇ ◇


 セレンがルーカスの腕を布で固定し、エルヴィラが私の傍に膝をついた。


「意識は。視界は」


「ぼやけている。けれど、見えている」


 立ち上がろうとして膝が折れた。エルヴィラの腕が支えてくれなければ、顔から地面に落ちていた。身体が重い。指一本動かすのに、呼吸三つ分かかる。


 汚染域を見た。完全には癒えていない。けれど中心部の色は戻り、亀裂の縁にわずかな湿り気がある。半分だけ、成功した。そして半分、壊した。


 視線がルーカスに戻る。セレンが固定を終え、ルーカスは左手だけで身体を起こしていた。額に汗が浮いている。骨が折れた状態で、それだけで済ませているのが彼らしかった。


 私が折った。


 あの力が。私の力が。近づくなと叫ぶこともできず、止めることもできず。


「リゼロッテ」


 ルーカスが呼んだ。痛みに掠れた声で、それでもいつもと変わらない調子で。


「動くな。まだ身体が戻っていない」


 折れた腕を抱えた人間が、私に動くなと言っている。喉の奥が詰まった。


 返す言葉が見つからなかった。謝罪では足りない。説明では届かない。


 私は自分の両手を見下ろした。


 震えている。細かく、深く、止まらない。評議会で兵器と呼ばれたときよりも長く、ガルディアで養父の計画書を見つけたときよりも深く。


 この手が力を大地に流した。アリシアの声を聞いた。そして制御を失い、ルーカスの腕を折った。同じ手だ。癒そうとした手と、壊した手が。


 まだ名前をつけられないものを、この手は壊した。立ち上がる力は、もう残っていなかった。


 ——アリシアの声が、まだ耳の奥で響いている。守りたかっただけ。私もそうだ。けれど守りたいと願う手が壊すなら、次はどうすればいい。その問いに、まだ答えがない。

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