大地への問い
目が覚めたとき、最初に気づいたのは指先の痺れだった。
椅子に座ったまま眠っていたらしい。首が嫌な角度に折れていて、こめかみの奥がずきずきと脈打っている。机の上には白紙のままの羊皮紙。インク壺の蓋が開きっぱなしで、乾いた鉄錆の匂いが鼻を刺した。
——自分の魔力を、自分で定義する言葉を。
昨日の誓いが、頭の中でまだ回っている。言葉だけなら簡単だ。問題は、その先にある。
洗面台の水で顔を洗った。水が頬を叩く。この城の水は石灰を含んでいて、肌の上にかすかなざらつきを残す。タオルで拭うと、布目の粗い繊維が頬骨に引っかかった。鏡に映る自分の顔。目の下の隈が、昨日より濃い。カイルに「兵器」と呼ばれた朝から、まだ一日しか経っていない。ずいぶんと長い時間が過ぎた気がするのに。
扉を叩く音。三回、均等な間隔。
「リゼロッテ様、おはようございます」
マリアだ。盆を抱えた彼女がいつもの笑顔で立っている。焼き立てのパンの香ばしさが、廊下から流れ込んできた。
「マリア。ルーカスは?」
「巡回に出られましたよ。今朝はずいぶんと首が痛そうにしていらっしゃいましたけれど」
あの男が身体の不調を顔に出すのは珍しい。
「寝違えたのかしら」
「さあ……。ルーカス様、昨夜ずっとお部屋の前にいらっしゃいましたから」
マリアは盆を机に置きながら、何でもないことのように続けた。
「私が夜の見回りをした十二刻頃、扉の前の石の床に座り込んでおいででした。明け方まで、ずっと」
「……それで今朝、首が痛いと」
「ええ。石の床は冷たいですもの」
朝食の皿から湯気が立ち上っている。パンの横に添えられた蜂蜜の壺。琥珀色の表面に、窓からの光が小さく跳ねていた。
あの男は何も言わなかった。昨日の評議会の後も、自室に戻る廊下でも。「大丈夫か」も、「気にするな」も。ただ扉の前の石の上に座って、一晩。
マリアが去った後、パンをちぎって口に運んだ。小麦の甘みが舌の上に広がる。蜂蜜をつけると、花の匂いが鼻の奥まで届いた。噛み締めるたびに顎の筋肉が動いて、止まっていた時間がゆっくりと回り始める。
石の床は硬い。この城の廊下は特に。夜通し座っていれば、身体のあちこちが軋むだろう。それを分かった上で、あの男は座っていたのだ。何も言わずに。
不器用な男だ。けれどその不器用さが——少しだけ、眩しい。
理由は分かっている。分かっているけれど、今はまだ。朝食を済ませるのが先だ。
◇ ◇ ◇
エルヴィラの研究室は離宮の地下にある。
石段を降りると、空気が変わった。古い書物と乾燥した薬草の匂いが層になって漂い、棚に並んだ硝子瓶の中で琥珀色の液体がゆっくり揺れている。壁面の書架には背表紙の文字が擦れて読めなくなった本が詰まっていた。どこかで水滴の落ちる音が、一定の間隔で石を打っている。
エルヴィラは机に向かっていた。銀の髪を無造作に束ね、羊皮紙の上に図を描いている。羽根ペンの先が紙を引っ掻く音。左目の下にインクの跡がある。徹夜したのだろう。
「昨日の件は聞いたわ。兵器、と」
顔も上げずに言う。
「ええ。道具から格上げされましたの。喜ぶべきかしら」
「皮肉を言えるうちは余裕がある証拠ね。結構」
エルヴィラは羽根ペンを置いて、ようやく目を上げた。
「次の評議会までに代案が要る。カイルの管理方針に代わるものを。そのために来たの」
「分かっているわ」
エルヴィラが広げた羊皮紙には、魔力の流れを図式化したものが描かれていた。線が交差し、分岐し、ある一点に集中する構造。
「搾取も管理も、構造は同じよ。中心に対象を置いて、そこから引き出す。ガルディアの養父も、カイルも。器に溜めて、蛇口を開けて、使う」
見覚えのある形だった。五年間、私の身体が、まさにその「器」だった。
「でも——理論上、もうひとつ可能な形がある」
エルヴィラの指が、図の外側に新しい線を引いた。中心から外へ向かうのではなく、外から中心へ還っていく線。
「誘導。魔力を引き出すのではなく、在るべき場所に導く。大地に撒かれた種子が根を張るように、力が自然に巡る道を整えるの」
「前例は」
「ない」
短い否定。エルヴィラは肩をすくめた。
「アリシアの記録にもない。彼女は絶大な力を持っていたけれど、手放す方法には興味がなかったようね。持つことしか考えなかった人の限界」
椅子の背に体重を預けた。天井の石の隙間から落ちる水滴の音を数える。一、二、三。規則正しい間隔。薬草の乾いた匂いが舌の奥にまで届く。
考える。
天井から落ちる水滴を目で追った。石の窪みに溜まり、やがて溢れて、また下へ流れる。溜めて、溢れて、流れる。
エルヴィラが見せてくれた図は、つまり水路だ。力を汲み上げるのではなく、水が流れるように導く。
五年間、一方的に汲み上げられた。なら私は、返す。ただそれだけのことだ。
借りたものは返す。単純な道理。この身体が五年かけて覚えたこと。一方的に取られ続けた身体が知っている。だからこそ分かる——返すことの意味が。
「エルヴィラ。誘導の理論を形にできる?」
「理論だけならね。実証はあなた次第」
「十分よ。理論があれば、カイルの数字に対抗できる」
エルヴィラの口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「対抗、ね。研究者としてはもう少し穏やかな動詞がほしいところだけれど」
「提案でも説得でも構わない。ただ——自分の言葉で、対等な場所に立つの」
◇ ◇ ◇
研究室から戻ると、自室の前にセレンが立っていた。
壁に背を預け、腕を身体の前で組んでいる。長い黒髪が肩にかかり、顔の半分を覆い隠していた。この人がこちらから訪ねてくるのは初めてだ。
「セレン?」
「……少し」
部屋に入り、窓辺の椅子を勧めた。セレンは腰を下ろしたが、指先が自分の袖口を掴んだまま離さない。
私は向かいに座った。待つ。窓の外で、夕方の風が木の葉を揺らしている。庭の地面から立ち上る土の匂いが、硝子越しにもかすかに届いた。鳥が一羽、中庭の梢から飛び立つ。
「あなた——怒るのね」
セレンが言った。視線は窓の外に向けたまま。
「ガルディアでも。ここでも」
評議会のことだろう。
「怒っていたように見えた?」
「静かだった。けれど——怒っていた」
否定はしなかった。
「ガルディアでは、怒ることを許されなかった。感情を出せば魔力供給が乱れる。乱れれば養父に調整される。だから、感じることをやめようとしていた。五年間、ずっと」
自分の手のひらを見た。昨日は震えていた指が、今は静かに膝の上にある。
「でも、もうやめたわ。感じないふりは」
セレンの目を見る。
「怒ることは——生きている証だから」
セレンの瞳が、初めてまっすぐこちらを向いた。黒い目の奥で、何かが動く。
「……生きている、証」
繰り返す声は、乾いた砂地に水が染み込むときの響きに似ていた。
そして、セレンの口元がかすかに動いた。微笑みと呼ぶには淡すぎる。けれど確かに、この城で初めて見る、セレンの表情の変化だった。
「……そう」
一言だけ残して、セレンは立ち上がった。扉に向かう背中に声はかけない。引き止める言葉は要らなかった。
扉が閉まる。椅子の座面に、布が押された跡がうっすらと残っている。セレンがいた証。あの人にも、きっと怒れなかった時間がある。アリシアの残した力に縛られて、自分の感情を手放してしまった時間が。
窓の外で夕風が庭の土を撫でていく。大地の匂い。エルヴィラの図を思い出す。大地に還る力の線。借りたものを返すという、新しい道。
カイルは次の評議会で、より緻密な修正案を出してくるだろう。数値で。論理で。制度の言葉で。私を囲い込む形で。
けれど今度は、私の手にも言葉がある。
あとは——それを証明するだけだ。




