消えた魔力の代償
王宮を去って、七日が経った。
実家のブランシュ公爵領——王都から馬車で三日の距離にある、緑豊かな田舎の領地。私はそこで、静かな日々を過ごしていた。
朝は小鳥の声で目が覚める。窓を開けると、広大な庭園に朝露が光っている。薔薇の香りが風に乗って、寝室まで届いてくる。
——なんて、穏やかなのだろう。
王宮にいた頃は、毎朝起きるたびに体が重かった。魔力を搾り取られ続けていたのだから当然だ。王太子アレクシスの傍にいるだけで、私の魔力は常に吸い上げられていた。
それが今は——体が軽い。
魔力が、自分の中にちゃんと満ちている。指先まで温かい力が巡っている感覚は、何年ぶりだろうか。もしかしたら、婚約が決まってから初めてかもしれない。
「リゼロッテお嬢様、朝食のご用意ができました」
「ありがとう、マリア。今日も庭のテラスでいただくわ」
侍女のマリアが微笑む。幼い頃から私に仕えてくれている、大切な人だ。
「お嬢様、最近はお顔の色がとても良くなりましたね。王宮にいらした頃は、いつも青白いお顔をされていましたから……」
「そうね。自分でも驚いているの」
テラスに座り、焼きたてのパンを千切る。バターの香りが鼻をくすぐり、紅茶の湯気がふわりと立ち上る。
こんな当たり前の朝食が、こんなに美味しいなんて。
午前中は庭園の手入れをした。魔力が戻ったおかげで、花々が私の手元でいきいきと咲き始める。ブランシュ家の女性は代々、植物を育てる魔法に長けている。それも、王宮にいた五年間は一度も使えなかった力だ。
「お嬢様の魔力は、やはりすごいですわ。お花たちがとても嬉しそう」
マリアが感嘆する。私は微笑んで——ふと、王宮のことを思い出した。
◇ ◇ ◇
——その頃、王都では異変が始まっていた。
私がそれを知ったのは、領地を訪れた商人の噂話からだった。
「いやあ、最近の王都は物騒でしてね」
週に一度やってくる行商人のトマスが、荷物を降ろしながら言った。
「物騒? 何かあったの?」
「王太子殿下の魔法が、急に弱くなったとかで。宮廷魔術師たちが大騒ぎしているそうですよ」
私の手が止まった。
「弱く、なった……」
「ええ。つい先日も、宮廷の定例儀式で殿下の魔法が途中で途切れたとか。あんなことは前代未聞だと、貴族たちが噂しておりました」
当然だ——と、私は心の中で呟いた。
アレクシスの魔法が強かったのは、彼自身の力ではない。私から吸い上げた魔力を使っていたからだ。その供給源がなくなれば、彼の本来の魔力量に戻る。
そして、アレクシスの本来の魔力量は——王族としては、凡庸な部類だった。
「他にも色々あるらしいですよ。宮廷の結界が薄くなっているとか、城壁の防御魔法が不安定だとか——」
「結界が?」
「はい。王宮を守る魔法障壁の維持に、以前より多くの魔術師が必要になっているそうです。前は殿下お一人で補強できていたのに、と皆不思議がっているとか」
不思議でも何でもない。あの結界を補強していた魔力の大半は、私のものだったのだから。
私は紅茶を一口飲んで、窓の外の青空を見上げた。
——可哀想だとは思わない。
五年間、私は道具のように扱われた。笑顔を貼り付けて、体が壊れそうになりながら魔力を差し出し続けた。そして最後に渡されたのは、婚約破棄の書状一枚。
同情する義理など、どこにもない。
◇ ◇ ◇
さらに三日後。
穏やかな午後の昼下がり、庭園で薔薇の手入れをしていたときだった。
「お嬢様! 王宮からの使者が参りました!」
マリアが息を切らせて駆けてきた。その顔が、緊張で強張っている。
「王宮から?」
正門に向かうと、王家の紋章が入った馬車が停まっていた。中から降りてきたのは、宮廷書記官のレナード。冷たい目をした痩せた男で、王太子の側近の一人だ。
「リゼロッテ・フォン・ブランシュ嬢」
レナードは巻物を広げ、抑揚のない声で読み上げた。
「王太子殿下より命令です。あなたには直ちに王宮へ帰還し、宮廷魔術師団の補佐として従事していただく。拒否は認められません」
——命令。
婚約を破棄しておいて、今度は「命令」。
私は胸の中で、何かが冷たく固まるのを感じた。
「お断りします」
レナードの目が見開かれた。
「……何と言った?」
「お断りします、と申し上げました」
私は穏やかに微笑んだ。声は震えなかった。王宮にいた頃の私なら、きっと従っていただろう。でも、もうあの頃の私ではない。
「私はもう王太子殿下の婚約者ではありません。殿下の命令に従う義務もありません。ブランシュ公爵家の令嬢として、自領で静かに暮らすことを選びます」
「し、しかし——これは王太子殿下のご意向だ! 公爵家の立場を考えれば——」
「私の父、ブランシュ公爵にご確認ください。父も同じお考えですわ」
実際、父は私が帰ってきたとき、すべてを聞いて静かに怒っていた。「よく耐えた」と、ただ一言だけ言ってくれた。
レナードは歯噛みしたが、公爵家を敵に回すことはさすがにできなかったらしい。
「……後悔することになるぞ」
捨て台詞を残して、馬車は去っていった。
私はその背を見送りながら、深く息を吐いた。
「お嬢様……よろしかったのですか?」
マリアが心配そうに私の顔を覗き込む。
「ええ。これでいいの」
もう、あの場所には戻らない。
◇ ◇ ◇
その夜。
父の書斎に呼ばれた。
ブランシュ公爵——グレゴリオ・フォン・ブランシュは、窓辺に立って月を見上げていた。白髪交じりの髪と、厳しくも温かい瞳。この国の筆頭公爵にして、私の最大の理解者。
「リゼロッテ。王宮から、もうひとつ報告が入った」
父の声は重かった。
「王都北方の大結界——あれに、ほころびが出始めているそうだ」
息が止まった。
王都北方の大結界。それは、隣国との国境沿いに張られた、王国最大の防御障壁だ。魔物の侵入を防ぎ、国土を守る——この王国の生命線とも言える結界。
「まさか——」
「元々あの結界は、代々の王族の魔力で維持されてきた。だが、アレクシス王太子の魔力低下によって、補強が追いつかなくなっているらしい」
父が振り返り、私を見つめた。
「お前の魔力が、どれほどこの国を支えていたか——あの愚かな王太子は、ようやく気づき始めたようだ」
私は唇を噛んだ。
結界が破れれば、魔物が王国領内に侵入する。民に被害が出る。それは——私が望んだことではない。
でも。
「それは、殿下が——いいえ、王家が解決すべき問題です。私はもう、あの方の道具ではありません」
父は長い沈黙のあと、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな。お前は正しい」
月明かりが、書斎の窓から差し込んでいる。
遠くの空に目を向けると——北の方角に、うっすらと赤い光が明滅しているのが見えた。
大結界の光が、揺らいでいる。
——あの光が消えたとき、この国は一体どうなるのだろう。
私にはもう関係のない話だ。
——そう、思おうとした。




