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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
2章 半分の力で

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許しは差し上げられません

 朝から、離宮の空気が違った。


 マリアが三度も花瓶の位置を直し、廊下では使用人たちの足音がいつもより速い。客間の卓上には磨かれた銀の燭台が並び、蜜蝋の甘い匂いがかすかに漂っている。


 ガルディア王国の外交使節団が到着する。その一行の中に、アレクシスがいる。


 鏡の前で髪を整えながら、自分の表情を確かめた。動揺はない。少なくとも、表には。胃の底に沈む鈍い重さは、昨夜から変わらない。


 マリアが淹れてくれたカモミール茶を一口含んだが、味がほとんどしなかった。いつもなら草原を煮詰めたような丸い甘さが広がるのに、今朝は舌の上でただ温い液体が転がるだけ。カップを置くと、ソーサーの上で磁器が小さく鳴った。


 扉の外から、革靴の踏む音。ルーカスだ。あの男は足音で分かる。規則正しく、重く、迷いがない。


「リゼロッテ」


 ノックもなく名を呼ばれた。廊下に出ると、ルーカスが壁に背を預けていた。腕を組み、どこか不機嫌そうに口を引き結んでいる。


「辛くなったら、俺が連れ出す」


 唐突だった。ただ、短い一言。


 少しだけ笑った。皮肉ではない笑み。自分でも珍しいと思う。


「大丈夫。もう逃げないわ」


 ルーカスの目がわずかに見開かれて、すぐに元に戻った。「そうか」とだけ呟いて、先に歩き出す。


 その背中を追いながら、廊下の窓から中庭を見下ろした。馬車が三台、正門の前に停まっている。旗には金の獅子紋。ガルディアの紋章。見慣れたはずの意匠が、ひどくよそよそしい。


 五年間、毎日仰ぎ見ていた紋章なのに。今はただの布と金糸に過ぎない。



 ◇ ◇ ◇



 会見の間は、離宮の東棟にある応接室だった。


 天窓から注ぐ陽光が長卓を白く照らし、磨かれた木目に窓格子の影が落ちている。空気に混じるのは、蜜蝋と、かすかな革の匂い。使節団の正装に使われている、なめした牛革の匂いだ。懐かしい、とは思わなかった。ガルディアの宮廷は、いつもこの匂いがしていた。そしていつも、この匂いの向こう側に、私の消耗があった。


 アレクシスは、卓の向こう側に座っていた。


 変わっていない——と、最初に思った。金の髪、碧い目、整った顔立ち。ガルディアの宝石と謳われた容姿はそのまま。


 けれど、目の下に薄い隈がある。肌の色が、記憶より蒼白い。頬のあたりもわずかにこけている。魔力の供給が途絶えた影響だろう。蛇口を閉められた水路は、こうも早く干上がるものか。


 五年前、婚約の宴で初めて手を取られた夜のことを思い出した。あの手は今、革手袋に隠されている。やつれた指先を覆い隠すように、深く嵌められた手袋。


「——リゼロッテ」


 名を呼ばれた。声も、変わっていない。低くて滑らかで、人を従わせることに慣れた響き。けれど今、その声に宿る力が足りていない。残量の少ない燭台が最後に放つ灯りのような、頼りない揺らぎ。


「アレクシス殿下。遠路、お疲れ様でした」


 敬称をつけた。かつては「アレクシス」と呼んでいた。距離を置くのは、たった二文字の違い。けれどその二文字で、私たちの関係は完全に定義し直される。


 アレクシスの眉がかすかに動いた。「殿下」という響きを、舌の上で噛み締めているのが見て取れた。


「単刀直入に言う。私は——謝罪に来た」


 沈黙が落ちた。随員たちが目を伏せる。蜜蝋の炎が揺れて、長卓の影がわずかにずれた。


「お前に対する処遇は、間違っていた。魔力供給の負担を、正しく把握していなかった。宰相を更迭し、魔術師団の運用体制を一から見直した。二度とあのような搾取が起こらない仕組みを——」


「殿下」


 アレクシスの言葉が止まる。


「その改革は、誰のためのものですか」


 碧い瞳が揺れた。


「……国のためだ。そして——お前の力を」


 一拍の間。


「——いや。お前自身を、正当に評価できなかった。それを認めに来た」


 『力を』と言いかけて、『お前自身を』に切り替えた。その一瞬の躊躇を、私は聞き逃さなかった。


 この人はまだ、力と私を切り離せていない。「お前の力」が最初に口を突いて出る。それが本音だ。「お前自身」は後から被せた化粧にすぎない。


 五年かけて学んだ教訓がある。この男の言葉は、最初の三語を聞けばいい。言い直す前の言葉が、いつだって本当だった。


「殿下のお気持ちは、承りました」


 背筋を伸ばした。長卓の木目が、窓格子の影を真っ直ぐに受け止めている。


「ですが——許しは差し上げられません」


 声は震えなかった。


 アレクシスの目が見開かれた。随員の一人が椅子の上で身じろぎする。革靴が床板を擦る、小さな音。


「許すということは、あの五年間を『仕方なかった』と認めることです。私は認めません。殿下が改革をなさったのは結構なこと。けれどそれは殿下の責務であって、私への償いではない」


 言葉を区切る。蜜蝋の甘い匂いが鼻をかすめた。


「水源は枯れました。でも川はもう、新しい道を見つけています。あの蛇口には戻りません」


 アレクシスの唇が薄く開いた。何かを言いかけて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。


「……お前は、変わったな」


「いいえ。殿下が見ていなかっただけです」


 席を立った。背を向けて歩き出す。肩甲骨の間にアレクシスの視線が刺さっているのを感じたが、振り返らなかった。


 応接室の扉が、背後で静かに閉じた。



 ◇ ◇ ◇



 廊下に出ると、ルーカスが壁に寄りかかっていた。朝と同じ姿勢。腕を組み、片足を壁に預けている。


 ただ、その目だけが真っ直ぐこちらを見ていた。


「聞いていたの?」


「壁が薄かったからな」


 言い訳にもならない弁明。けれど追及する気にはなれなかった。


 並んで歩き始める。窓から差し込む午後の光が、石畳に二人の影を落としている。靴音が重なった。私の軽い足音と、ルーカスの重い一歩。


「よく言えたな」


 不意に、ルーカスが言った。前を向いたまま。


「昔のお前には、無理だった」


 飾りのない言葉。「偉い」とも「立派だった」とも言わない。ただ事実を置くだけの、この男らしい不器用さ。


 横顔を見た。


 午後の光が、ルーカスの横顔を淡く縁取っている。無骨な顎の線。少し乱れた髪。真っ直ぐ前だけを見据えている目。


 胸の奥が、小さくざわついた。


 心臓が一拍だけ跳ねて、戻る。何だ、今の。会見の緊張が遅れて抜けたのだろう。あるいは、廊下を抜ける風のせい。


 よく分からない。分からないことは、後で考えればいい。


「当然よ。五年も搾取されていた女が、たかが一度の謝罪で折れるものですか」


 皮肉めいた軽口を返して、少しだけ歩調を速めた。ルーカスが半歩遅れて、黙ってついてくる。


 中庭に出た。夕暮れの空が、東棟の屋根の向こうで茜色に滲んでいる。庭の薔薇が夕風に揺れて、甘い残り香を運んできた。朝には感じなかった匂いが、今は鮮やかに鼻を突く。味覚が戻ったように、嗅覚も戻っている。


 石畳に落ちた影が長い。二人分の影が、並んで伸びている。


 振り返らなかった。アレクシスにも。そしてルーカスにも。


 ただ、あのざわつきだけが、胸の底に小さな棘のように残っていた。


 明日から、使節団との本格的な交渉が始まる。許しを与えなかった私を、ガルディアがどう扱うか。穏やかではいられないだろう。


 けれど——逃げないと決めたのだ。あの廊下で、ルーカスの前で。


 棘のことは、後で考えよう。

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