花は嘘をつかない
昨夜から、セレンと名乗った少女は離宮の一室に寝かされている。
門前で崩れるように座り込んだ後、マリアが運び入れたらしい。客間を用意しようとしたが、本人は「壁際の小部屋でいい」と一言で済ませた。贅沢を拒んだのではなく、知らないのだ。あの灰色の瞳には、柔らかい寝具より乾いた地面のほうが馴染むのだろう。
朝食には現れなかった。マリアが粥を部屋に運んだが、半分も減っていなかったという。
眠る直前、少女はもう一つだけ口にした。
「あなたの力には対価がある。花を咲かせた分だけ、どこかの大地が痩せる」
壁に背を預けたまま、まるで天気の話でもするように。
今朝のカモミール茶は、草原を煮詰めたような丸い甘さだった。舌の上で、ゆっくりほどける。
「お嬢様、今朝はよくお休みになれましたか?」
「ええ。マリア、エルヴィラ様に伝言をお願い。午前中に、南の荒れ地で実験をしたいの」
マリアの手が、ティーポットの上で止まった。
「実験、ですか」
「口伝だけでは信じられない。自分の目で確かめるわ」
カップをソーサーに戻す。磁器同士がかちりと鳴った。
私は五年間、他人の言葉を鵜呑みにして生きてきた。「王国のために必要だ」と言われれば魔力を差し出し、「あなたにしかできない」と囁かれれば疑問を飲み込んだ。あの繰り返しを、誰の言葉であっても、もう一度やるつもりはない。
セレンの警告が真実でも、嘘でも。確かめるのは私自身だ。
◇ ◇ ◇
南の荒れ地は、離宮から馬車で半刻の距離にあった。
かつて鉱山だったという。掘り尽くされた大地は灰色に乾いて、草一本生えていない。風が吹くたび砂埃が舌に絡み、鉄錆びた味がした。
「ここなら周囲への影響も最小限です。まずは半径十歩ほどから始めましょう」
エルヴィラが地図を広げる。紙の端が風にばたついて、白手袋の指が押さえた。
セレンは少し離れた岩の上に腰を下ろしている。フードを目深に被ったまま、腕を組み、何も言わない。
手袋を外した。
素手で、乾いた地面に触れる。ざらついた砂の粒が爪の間に入り込む。水気のない土は、握ると粉のように崩れた。
目を閉じる。意識を大地へ向けた。指先から何かが抜けていく。体温が一度、また一度と下がり、小指の感覚が遠のいた。
指先が土に沈む。乾いた砂の奥に、微かな鼓動を感じた。大地の律動。ゆっくりと、深く。荒れ果てた地面の下にも、何かが息づいている。
灰色の地面に、亀裂が走る。
亀裂から緑が噴き出した。茎が伸び、葉が開き、蕾が膨らむ。白い花弁が一斉にほどけた。
気づけば、荒れ地の中心に花畑が広がっていた。
風が花を揺らす。蜜に似た甘い香りが立ち上って、鉄錆の匂いを塗り潰す。花弁は陽光を受けて絹のように揺れ、どこからか蜂が一匹飛んできて花の上を旋回した。
「素晴らしい……」
エルヴィラが息を呑む。手袋を外し、花弁に触れた。
「これほどの規模を単独で。記録にある始源級の巫女にも匹敵しますわ」
美しかった。
白い花の海が、風のたびに波のようにうねる。地面に膝をつくと、先ほどまで粉だった土が湿って柔らかい。花弁から立ち上る香りは蜂蜜とジャスミンを混ぜたような厚い甘さで、息を吸うたびに喉の奥まで沁みた。
私の力は、こんなこともできる。
指先の感覚は鈍い。息が浅い。けれど、この光景の前では些細なことに思えた。
セレンだけが花を見ていなかった。地平線の向こうを、灰色の目で眺めている。
エルヴィラが水筒の水を注いでくれた。喉を通る感触はあるのに、味がしない。ただの液体が落ちていくだけ。指先の痺れも残ったまま。代償というなら、この程度だろう——そう、思っていた。
三時間後。
外縁部の花弁が、茶色く縮んだ。
次に茎が黒ずんで倒れる。内側の花も順番に色を失っていく。白が灰に、灰が褐色に。花弁が地面に落ちるたび、紙を破くような小さな音がした。
甘い香りは消え、代わりに腐葉土の湿った匂いが鼻を突く。
十分と経たずに、花畑は枯れ野に変わった。蜂はとうに飛び去っている。ここにはもう何もないと、最初に悟ったのはあの小さな羽虫だった。
元の荒れ地より、なおひどい。土の色は黒く沈み、地面に触れると冷たい泥がべたりと指に張りついた。先ほどの柔らかさとは別物の、腐った感触。
「……だから言ったのに」
振り返る。セレンは腕を組んだまま、こちらを見下ろしていた。
「力を使えば、別の場所が枯れる。あなたが咲かせた花のぶんだけ、どこかの草が枯れた。土は覚えている」
「知っていたなら、止めればよかったのに」
「昨日言った。聞かなかったのはあなた」
反論の余地がない。口の中が渇いている。朝のカモミールの味も花の香りも残っていない。舌の上がざらついて、砂を噛んだような鈍さだけがある。
エルヴィラが測定器を覗き込んでいる。数値の意味は、訊かなくてもわかった。
私は枯れた花を一本、拾い上げた。茎はもろく、指先で触れただけで折れる。
「……つまり、こういうことね」
折れた茎を、手の中で転がした。
「私の力は、井戸から水を汲み上げているようなもの。でもあの井戸は——私のものじゃなかった。大地の井戸だ。汲み上げるたびに水位が下がっていく」
セレンの灰色の瞳が、わずかに細まった。
「ガルディアが私にしたことと、私が大地にしていることは——同じだ」
声に出すと、言葉の輪郭がはっきりする。
アレクシスは私の魔力を汲み上げて、王国の繁栄を維持した。私は大地の力を汲み上げて、花を咲かせた。蛇口の向こう側を見なかった点まで、同じ。
花を咲かせて酔いしれていた数時間前の私は、あの男と何が違う。
「汲み上げすぎれば、井戸が涸れる。私が壊れたように、大地も壊れる」
「あなたは……怒るのですね。泣くのかと思った」
素っ気なさの奥に、何かが覗いた。驚きか、それとも安堵か。
「泣いて花が戻るなら、いくらでも泣くわ」
枯れた茎を地面に戻した。黒い土が、それを呑み込むように沈む。
◇ ◇ ◇
夜。
自室の寝台に腰かけ、膝の上に枯れた花弁を一枚載せていた。茶色く縮んで、触れれば粉になりそうなほど脆い。
窓の外でフクロウが鳴いている。二拍の沈黙を挟んで、また一声。夜の静けさには、昼の花畑とは別の密度がある。
マリアが置いていった紅茶に口をつけた。甘さは感じない。味覚は、まだ遠い。
胸元で、ペンダントが光った。
いつもの脈動とは違う。もっと深い、もっと遠い振動。鋳物の表面に刻まれた紋様が、一つずつ光を帯びていく。母から受け継いだ、唯一の形見。
光が頂点に達した瞬間——声が聞こえた。
『この子なら。きっと、逃げなくていい方法を見つけてくれる』
母の声だった。記憶にあるよりも若い。私が生まれる前の声かもしれない。柔らかくて、でも揺るぎがない。迷いなく、ただ信じている人の声。
ペンダントの光が薄れる。声はそれきり聞こえなかった。
両手でペンダントを包み込む。金属越しに、母の体温が触れたような錯覚があった。
枯れた花弁が、涙で滲んだ。
拭わなかった。頬を伝う一筋を、そのまま受け入れた。
力が怖いのではない。代償に怯えているのでもない。母が——まだ何も成していない私を、信じていた。花を咲かせることしかできない娘を、迷いもなく。それを知ったことが、ひどく重い。
花弁の上に、もう一滴。茶色い表面に小さな染みが広がった。
フクロウが鳴く。二拍。沈黙。また一声。
花は嘘をつかない。咲いた事実も、枯れた事実も、どちらも本当のこと。
ならば——枯らさない方法を見つければいい。
対価のない魔法は存在しない。それはもう理解した。問題は、対価をどう支払うか。奪うのでなく。汲み上げるのでなく。
ペンダントを握る。金属が掌の中で、ゆっくり温まっていった。
明日、エルヴィラに相談しよう。セレンにも、訊きたいことがある。
枯れた花弁を窓辺に置いた。月明かりが、茶色い欠片をほの白く照らしている。
母が信じた私なら——きっと、見つけられる。




