戻れと言われても
朝の光が、テラスの白いテーブルクロスに木漏れ日の模様を落としている。
鳥の声が幾重にも重なって、庭の向こうで小さな合唱を作っていた。風が運んでくるのは、刈りたての草と、マリアが淹れたばかりの紅茶の香り。
庭の薔薇がちょうど盛りを迎えていて、朝露を含んだ花弁が光を弾いている。ガルディアの王宮庭園にも薔薇はあったが、あちらは見た目だけを整えた造り物のような庭だった。ここの庭は、少し雑で、少しいびつで——だからこそ、生きている。
「お嬢様、今朝はベルガモットの茶葉ですわ。南部の市場で見つけたものです」
マリアが差し出したカップを受け取る。湯気が指先をくすぐって、柑橘の匂いがふわりと立ち上った。白磁のカップの縁は薄くて、唇に触れるとひやりと滑らかだ。
一口含む。舌の上に、ほのかな渋みと甘みが重なり合う。
「……おいしい」
「よかったですわ」
マリアが微笑む。この人の笑顔には、どんな茶葉にも出せない味がある。
テラスの端では、ルーカスが籠盛りのパンと格闘していた。
固めのライ麦パンを、片手で千切ろうとしている。千切れない。両手で引っ張る。それでも千切れない。剣なら何でも斬れる男が、パン一つに苦戦している図。
「……ナイフ使ったら?」
「うるさい。騎士が食卓でナイフに頼るのは邪道だ」
「聞いたことのない騎士道ね」
ルーカスが渋い顔でパンに噛みつく。硬い皮が、ぱりっと小気味よく鳴った。頬を膨らませて咀嚼する横顔が、大型犬に似ている。
「……うまいな、このパン。外は硬いのに、中はもっちりしてる」
「素直に言えるじゃない」
「パンには素直になれる。人間相手だと、どうも勝手が違う」
「マリア、ルーカスにもお茶を淹れてあげて。パンだけじゃ喉が詰まるわ」
「はい、ただいま」
マリアが嬉しそうに席を立つ。ルーカスが「別にいい」と言いかけて、結局何も言わなかった。不器用な男。でも、こうして隣で朝食を囲んでくれる人がいること。マリアの紅茶があること。鳥が鳴いていること。
五年間の私には、何一つなかったもの。
ヴェルムントに来て、もう数週間になる。この穏やかな朝が日常になりつつあった。奪われない日常。消費されない時間。自分の意思で紅茶を選び、好きなだけテラスに座っていられる朝。
紅茶をもう一口。ベルガモットの苦味が、喉の奥でほどける。
贅沢だ、と思う。
◇ ◇ ◇
午後、離宮の客間に行商人が通された。
この一帯の村を巡回しているという中年の男で、荷馬車にはヴェルムント産の陶器と、諸国から集めた雑貨が積まれている。フリードリヒ陛下の計らいで、行商人が定期的に立ち寄るようになっていた。
マリアが日用品を選んでいる横で、男が声を落とした。
「お嬢様方、最近のガルディアの噂はお聞きで?」
手にしていたカップを、テーブルに置く。音を立てないように。
「いいえ。何かあったの?」
「いやあ、大変なことになってるらしいですよ。王太子殿下の魔法がまた弱まったとかで。宮廷魔術師団が総出で原因を調べているって話です」
そう。当然だろう。
五年間、蛇口から水を汲み続けていた人間が、ある日その水源を失った。出なくなって初めて慌てる。どこから水が来ていたかすら、把握していなかった人間が。
「それだけじゃありません。宰相閣下も更迭されたそうで」
「宰相が?」
「ええ。あの老練なドルン宰相がですよ。魔力低下は管理体制の問題だと王太子殿下がお怒りになって。三十年仕えた忠臣を、たった一言で切り捨てたとか」
行商人は身を乗り出して、さらに声を潜めた。
「宮廷はもう蜂の巣をつついたような騒ぎらしいです。なんでも——ある公爵令嬢が国を出てから、すべてが狂い始めたって噂でして」
ちらり、と行商人の視線がこちらに走った。名乗ってはいない。だが、勘のいい商人なら察しているかもしれない。
「そうですか」
私は微笑んだ。カップを持ち上げ、紅茶を一口。ベルガモットの香りが鼻腔をすっと抜けていく。
蛇口は閉じたままだ。
あの男が何に気づこうと、何を喚こうと、もう私の知ったことではない。問題の本質を見誤って、手近な人間に責任を押し付ける。宰相を切り捨てたのがその証拠。五年間、隣で見続けた構図と何も変わらない。
水が止まった理由にたどり着く頃には、もう手遅れだろう。たどり着けるかどうかも怪しいが。
紅茶を飲み干す。冷めたベルガモットは、少しだけ苦い。
「お客様、こちらの石鹸をいただきますわ」
マリアが、やや強引に話の流れを断ち切った。ラベンダーの石鹸を手に取り、商人の注意を引き戻す。
私の表情から何かを読み取ったのだろう。さすがの観察眼。ただ、心配には及ばない。振り返るものなど、あの国にはもう何も残していない。
行商人が帰った後、ルーカスがテラスに姿を見せた。壁に背を預け、腕を組んでいる。
「聞こえてたぞ。ガルディアの話」
「盗み聞きとは、騎士の風上にも置けないわね」
「護衛の職務だ。……どうする?」
「どうもしないわ」
ルーカスが黙って頷いた。余計な言葉を足さない。だから信用できる。
午後の日差しが傾いて、テラスのタイルに長い影を引き始めていた。遠くで、鍛冶屋の槌音が規則正しく響いている。穏やかな午後。他国の混乱が、まるで別の大陸の出来事のように遠い。
テーブルの上で、冷めた紅茶の水面がかすかに揺れた。風のせいか、それとも別の何かか。
◇ ◇ ◇
夕暮れが庭を橙色に染めた頃、門番が駆け込んできた。
「リゼロッテ様。正門に来客です。若い女性が一人——名も名乗らず、ただ『大地の巫女に会いたい』と」
マリアが眉をひそめ、ルーカスの手が腰の剣に伸びる。
「怪しいな。追い返すか?」
「……いいえ。会うわ」
ルーカスが片眉を上げた。なぜ、と問いたげな目。
理由はうまく言葉にできない。ただ、足元の大地が微かに震えた気がした。ペンダントが脈動したのか、地面そのものが揺れたのか。区別がつかないほど小さな振動。
正門に向かう。石畳を踏む靴音が、夕暮れの静寂に吸い込まれていく。
夕日を背にして、一人の人影が立っていた。
深いフードのローブ。背丈は私より低い。袖口から覗く手は細く、まだ成長しきっていない指。子供とも大人ともつかない曖昧な輪郭。
フードの奥から、灰色の瞳がこちらを見ていた。無表情。けれど瞳の奥に、何かがちりちりと燃えている。
「あなたが、大地の巫女?」
少女の声は、見た目の幼さに反して低く、乾いていた。砂を噛んだような、ざらついた響き。
「そう呼ばれることもあるわ。あなたは?」
「セレン。それだけ覚えてくれればいい」
愛想のかけらもない。まるで道端で時刻を聞かれたような、素っ気ない口調。マリアが背後で小さく息を呑む音。ルーカスの革手袋が、きゅっと剣の柄を握り直す音。
セレンと名乗った少女は、まっすぐ私の目を見た。
「警告しに来ました」
「警告?」
「ガルディアの王太子が、あなたを取り戻そうとしている」
夕風が、ローブの裾を巻き上げた。乾いた砂の匂いがかすかに鼻をかすめる。ヴェルムントの湿った土とは違う。どこか遠い、乾いた大地の匂い。
「手段は選ばないつもりだと。もう、動き出している」
口調に飾りがない。世間話をしているような素っ気なさ。だからこそ、嘘を言っている顔には見えなかった。
「なぜ、それをわざわざ私に?」
セレンは答えなかった。灰色の瞳が一瞬だけ揺れて、すぐに元の無表情に戻る。
「……それは、次に話す」
踵を返しかけて、立ち止まった。フードの奥から、こちらを振り返る。
「一つだけ。あの王太子が欲しがっているのは、あなた自身じゃない。あなたの中にあるものだ。——それだけは、忘れないで」
言い終えると、セレンの膝がかすかに揺れた。長い距離を歩いてきたのだろう。門柱に背を預けて、ずるずると座り込む。帰る気配はない。まるで野良猫が勝手に居場所を決めたような、遠慮のなさ。
夕闇が庭の隅から忍び寄ってくる。虫の声が一つ、二つと鳴き始めた。
戻れと言われても、戻るつもりはない。




