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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
1章 蛇口は閉じた

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新しい朝

 ヴェルムントの国境を越えた瞬間、空気が変わった。


 緑の匂い。湿った土の温もり。風が頬を撫でるたびに、花の香りが鼻をくすぐる。


 大地の鼓動が——足の裏から、じんわりと全身に染み渡ってきた。


 ——帰ってきた。


 胸の奥が、温かいもので満たされた。


 王都に近づくにつれ、街道の両脇に人の姿が増えていった。農夫が手を止め、商人が荷車を停め——こちらを指差している。


 門をくぐった瞬間、歓声が上がった。


「大地の巫女が帰ってきたぞ!」


「ヴェルムントの花の姫だ!」


 街道の両側に、市民たちが詰めかけていた。花束を抱えた子供たち。手を振る老人。涙を浮かべて拍手する女性たち。


「巫女様! ありがとうございます!」


「お帰りなさい!」


 次々と投げかけられる声に、胸がいっぱいになった。


 この国に来たとき——私はただの亡命者だった。婚約破棄された元婚約者。行き場のない、傷だらけの女。


 それが今——歓迎されている。必要とされている。でもそれは「道具として」ではない。この人たちは、私を——私自身を、迎え入れてくれている。


 馬車の窓から手を振ると、花を持った女の子が駆け寄ってきた。


「巫女様、これ!」


 小さな手が差し出したのは、野に咲く白い花だった。茎が少し曲がっていて、花弁が一枚欠けている。


 それが——どんな宝石より、美しく見えた。


「ありがとう」


 受け取って微笑むと、女の子がぱっと顔を輝かせて、母親の元へ駆け戻っていった。母親が深く頭を下げている。


 ルーカスが馬上から肩をすくめた。


「人気者だな。俺なんか見向きもされない」


「あなたは怖い顔してるからよ」


「失礼な。これでも笑ってるんだが」


 エルヴィラが呆れた顔で嘆息した。


「……全然笑えていませんよ、ルーカス殿」


 馬車の中で、マリアが目を赤くしながらも微笑んでいた。


 ◇ ◇ ◇


 翌日。王宮の謁見の間。


 フリードリヒ陛下が、穏やかな笑みとともに私を迎えた。


「よく戻りました、リゼロッテ殿。ガルディアの新しい結界は安定していると、エルヴィラから報告を受けています」


「はい。大地に直接書き込んだ結界ですので、私の魔力を常に供給する必要はありません。大地そのものが維持してくれます」


「見事な力だ」


 陛下が頷いた。その碧い瞳に、深い慈しみが宿っている。


「リゼロッテ殿。あなたの功績に報いたい。——正式な提案があります」


 背筋を伸ばした。


「王立魔術研究院 名誉院士。その称号をあなたに贈りたい」


 ——名誉院士。


 宮廷魔術顧問でも、宮仕えの魔術師でもない。研究院に所属しながら、束縛されない自由な立場。


「あなたを役職で縛るつもりはありません。自由に研究し、自由に生きてほしい。ただ——この国に、あなたの居場所がある。それを証として」


 言葉が、胸に染み込んでいく。一滴ずつ、一滴ずつ。乾いた大地に水が浸み渡るように。


 ガルディアでは「国家財産」だった。王家の所有物。使い減らされる道具。


 この国は——自由をくれる。居場所をくれる。でも、鎖はつけない。


 それがどれほど——どれほど贅沢で、尊い扱いか。五年間搾取された私には、痛いほどわかる。


「ありがたく、お受けします」


 深く頭を下げた。涙が落ちそうになったけれど——今度はこらえた。これは、泣く場面じゃない。笑う場面だ。


 顔を上げて、微笑んだ。


 陛下が——少しだけ目を細めた。


「あなたの母君と同じ笑顔だ」


 その一言で、こらえていたものが全部崩れた。


 泣いた。声を殺して、でも止められなくて——涙が頬を伝って、顎から落ちた。


 陛下が黙って、ハンカチを差し出してくれた。その仕草が——父に似ていた。


 ヴェルムントに来て、こんなにたくさん泣いた。でも——全部、温かい涙だ。


 ◇ ◇ ◇


 部屋に戻ると、父からの手紙が届いていた。


 封を開けた指先が、温かかった。さっきの涙の余韻が、まだ体に残っている。


『リゼロッテへ。


 お前が国を救ったと聞いた。


 誇りに思う。


 お前の力で花が咲き、結界が生まれたと——こちらにも噂が届いている。枯れた大地に緑が戻り始めていると。


 実家の庭にも、花が咲いた。お前が子供の頃、母さんと一緒に種を蒔いたあの花壇に——白い花が、一輪。


 きっと母さんも、微笑んでいるだろう。


 いつか会いに来い。花を見せてやる。


 父より』


 手紙を握りしめて——泣いた。


 今度は声を上げて。温かくて、優しくて、胸がいっぱいになる涙だった。


 母が微笑んでいる。父が誇りに思ってくれている。


 それだけで——生きていてよかったと、心の底から思えた。


 ペンダントが胸元で、温かく脈動していた。柔らかな光が涙を照らして、小さな虹を作っている。


「……ありがとう、お母様。お父様」


 窓の外では、ヴェルムントの夕陽が王都を金色に染めていた。


 ◇ ◇ ◇


 それから数日が過ぎた。


 穏やかな日々が、当たり前のように流れていく。


 朝。テラスでマリアが淹れてくれた紅茶を飲む。湯気の向こうに、庭の花々が朝露に光っている。


「今日の紅茶は、新しい茶葉ですわ。南部の農園から届いたものです」


「いい香り……花のような」


「お嬢様の庭の花が香りを移したのかもしれませんわね」


 マリアが微笑む。穏やかで温かい、いつもの笑顔。


 庭に目をやると、ルーカスが剣の手入れをしながら、足元の花を見ている。


「また増えてるな、この花。俺が来るたびに生えてくるんだが」


「あなたに懐いてるんじゃない?」


「花に懐かれても困る。……まあ、悪くないが」


 照れたように鼻を掻いて、ルーカスが花を一輪摘んだ。くるくると回して——ふっと笑った。


 そこにエルヴィラが、分厚いノートを三冊抱えてやってきた。


「リゼロッテ殿。昨日の実験結果についてですが——大地の結界の浸透率が予測値を上回っています。これは始源級魔力の共鳴特性が——」


「エルヴィラ、朝食の前にそれ?」


「学問に朝も夜もありません」


「いや、あるだろ」


 ルーカスの突っ込みを完全に無視して、エルヴィラがテーブルにノートを広げた。


 笑った。心の底から、自然に、笑えた。


 これが——私が選んだ日常。


 奪われることも、抑えつけられることもない。好きな人たちに囲まれて、自分の力を自分のために使える。


 当たり前のようでいて——五年間、私が手に入れられなかったもの。


 紅茶を一口飲んだ。温かくて、甘くて、花の香りがした。


 ——幸せだ。


 そう思えることが、何より嬉しかった。


 テラスにマリアが紅茶のおかわりを持ってきた瞬間——執事が一通の手紙を持って現れた。


「リゼロッテ様、お手紙が届いております」


 受け取った。見慣れない封蝋。ガルディアの紋章ではない。


 差出人の名前の横に、見たことのない紋章が描かれていた。翼のある蛇が、花を咥えている。


 封を切ると、異国の香りがした。乾いた砂と、知らない花の匂い。


『大地の巫女の力を持つ者が現れたと聞きました。


 ぜひお会いしたい。


 我々の国は、かつて大地の巫女とともにあった。


 失われた盟約を、もう一度——』


 書簡はそこで途切れていた。続きがあるのか、それとも最初からこれだけなのか——わからない。


「大陸の南に……まだ知らない国があるの?」


 呟くと、エルヴィラが身を乗り出した。ノートを放り出して、書簡を覗き込む。


 彼女の顔から、さっと血の気が引いた。


「この紋章——まさか」


「知っているの?」


「……文献でしか見たことがありません。『失われた王国』——三百年前に滅んだとされる、南方大陸の古代王国の紋章です」


 テラスに、風が吹いた。


 知らない花の香りが、鼻先をかすめて消えていく。


 ペンダントが——微かに、脈動した。


 新しい物語の予感が——胸の奥で、静かに芽吹いた。


——第一章・完——

第1章(全15話)をお読みいただきありがとうございます!


道具として使い捨てにされた公爵令嬢が、自分の意志で生きる道を見つける物語、いかがでしたか?


第2章「半分の力で」(全10話)もそのままお楽しみください!


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