新しい朝
ヴェルムントの国境を越えた瞬間、空気が変わった。
緑の匂い。湿った土の温もり。風が頬を撫でるたびに、花の香りが鼻をくすぐる。
大地の鼓動が——足の裏から、じんわりと全身に染み渡ってきた。
——帰ってきた。
胸の奥が、温かいもので満たされた。
王都に近づくにつれ、街道の両脇に人の姿が増えていった。農夫が手を止め、商人が荷車を停め——こちらを指差している。
門をくぐった瞬間、歓声が上がった。
「大地の巫女が帰ってきたぞ!」
「ヴェルムントの花の姫だ!」
街道の両側に、市民たちが詰めかけていた。花束を抱えた子供たち。手を振る老人。涙を浮かべて拍手する女性たち。
「巫女様! ありがとうございます!」
「お帰りなさい!」
次々と投げかけられる声に、胸がいっぱいになった。
この国に来たとき——私はただの亡命者だった。婚約破棄された元婚約者。行き場のない、傷だらけの女。
それが今——歓迎されている。必要とされている。でもそれは「道具として」ではない。この人たちは、私を——私自身を、迎え入れてくれている。
馬車の窓から手を振ると、花を持った女の子が駆け寄ってきた。
「巫女様、これ!」
小さな手が差し出したのは、野に咲く白い花だった。茎が少し曲がっていて、花弁が一枚欠けている。
それが——どんな宝石より、美しく見えた。
「ありがとう」
受け取って微笑むと、女の子がぱっと顔を輝かせて、母親の元へ駆け戻っていった。母親が深く頭を下げている。
ルーカスが馬上から肩をすくめた。
「人気者だな。俺なんか見向きもされない」
「あなたは怖い顔してるからよ」
「失礼な。これでも笑ってるんだが」
エルヴィラが呆れた顔で嘆息した。
「……全然笑えていませんよ、ルーカス殿」
馬車の中で、マリアが目を赤くしながらも微笑んでいた。
◇ ◇ ◇
翌日。王宮の謁見の間。
フリードリヒ陛下が、穏やかな笑みとともに私を迎えた。
「よく戻りました、リゼロッテ殿。ガルディアの新しい結界は安定していると、エルヴィラから報告を受けています」
「はい。大地に直接書き込んだ結界ですので、私の魔力を常に供給する必要はありません。大地そのものが維持してくれます」
「見事な力だ」
陛下が頷いた。その碧い瞳に、深い慈しみが宿っている。
「リゼロッテ殿。あなたの功績に報いたい。——正式な提案があります」
背筋を伸ばした。
「王立魔術研究院 名誉院士。その称号をあなたに贈りたい」
——名誉院士。
宮廷魔術顧問でも、宮仕えの魔術師でもない。研究院に所属しながら、束縛されない自由な立場。
「あなたを役職で縛るつもりはありません。自由に研究し、自由に生きてほしい。ただ——この国に、あなたの居場所がある。それを証として」
言葉が、胸に染み込んでいく。一滴ずつ、一滴ずつ。乾いた大地に水が浸み渡るように。
ガルディアでは「国家財産」だった。王家の所有物。使い減らされる道具。
この国は——自由をくれる。居場所をくれる。でも、鎖はつけない。
それがどれほど——どれほど贅沢で、尊い扱いか。五年間搾取された私には、痛いほどわかる。
「ありがたく、お受けします」
深く頭を下げた。涙が落ちそうになったけれど——今度はこらえた。これは、泣く場面じゃない。笑う場面だ。
顔を上げて、微笑んだ。
陛下が——少しだけ目を細めた。
「あなたの母君と同じ笑顔だ」
その一言で、こらえていたものが全部崩れた。
泣いた。声を殺して、でも止められなくて——涙が頬を伝って、顎から落ちた。
陛下が黙って、ハンカチを差し出してくれた。その仕草が——父に似ていた。
ヴェルムントに来て、こんなにたくさん泣いた。でも——全部、温かい涙だ。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ると、父からの手紙が届いていた。
封を開けた指先が、温かかった。さっきの涙の余韻が、まだ体に残っている。
『リゼロッテへ。
お前が国を救ったと聞いた。
誇りに思う。
お前の力で花が咲き、結界が生まれたと——こちらにも噂が届いている。枯れた大地に緑が戻り始めていると。
実家の庭にも、花が咲いた。お前が子供の頃、母さんと一緒に種を蒔いたあの花壇に——白い花が、一輪。
きっと母さんも、微笑んでいるだろう。
いつか会いに来い。花を見せてやる。
父より』
手紙を握りしめて——泣いた。
今度は声を上げて。温かくて、優しくて、胸がいっぱいになる涙だった。
母が微笑んでいる。父が誇りに思ってくれている。
それだけで——生きていてよかったと、心の底から思えた。
ペンダントが胸元で、温かく脈動していた。柔らかな光が涙を照らして、小さな虹を作っている。
「……ありがとう、お母様。お父様」
窓の外では、ヴェルムントの夕陽が王都を金色に染めていた。
◇ ◇ ◇
それから数日が過ぎた。
穏やかな日々が、当たり前のように流れていく。
朝。テラスでマリアが淹れてくれた紅茶を飲む。湯気の向こうに、庭の花々が朝露に光っている。
「今日の紅茶は、新しい茶葉ですわ。南部の農園から届いたものです」
「いい香り……花のような」
「お嬢様の庭の花が香りを移したのかもしれませんわね」
マリアが微笑む。穏やかで温かい、いつもの笑顔。
庭に目をやると、ルーカスが剣の手入れをしながら、足元の花を見ている。
「また増えてるな、この花。俺が来るたびに生えてくるんだが」
「あなたに懐いてるんじゃない?」
「花に懐かれても困る。……まあ、悪くないが」
照れたように鼻を掻いて、ルーカスが花を一輪摘んだ。くるくると回して——ふっと笑った。
そこにエルヴィラが、分厚いノートを三冊抱えてやってきた。
「リゼロッテ殿。昨日の実験結果についてですが——大地の結界の浸透率が予測値を上回っています。これは始源級魔力の共鳴特性が——」
「エルヴィラ、朝食の前にそれ?」
「学問に朝も夜もありません」
「いや、あるだろ」
ルーカスの突っ込みを完全に無視して、エルヴィラがテーブルにノートを広げた。
笑った。心の底から、自然に、笑えた。
これが——私が選んだ日常。
奪われることも、抑えつけられることもない。好きな人たちに囲まれて、自分の力を自分のために使える。
当たり前のようでいて——五年間、私が手に入れられなかったもの。
紅茶を一口飲んだ。温かくて、甘くて、花の香りがした。
——幸せだ。
そう思えることが、何より嬉しかった。
テラスにマリアが紅茶のおかわりを持ってきた瞬間——執事が一通の手紙を持って現れた。
「リゼロッテ様、お手紙が届いております」
受け取った。見慣れない封蝋。ガルディアの紋章ではない。
差出人の名前の横に、見たことのない紋章が描かれていた。翼のある蛇が、花を咥えている。
封を切ると、異国の香りがした。乾いた砂と、知らない花の匂い。
『大地の巫女の力を持つ者が現れたと聞きました。
ぜひお会いしたい。
我々の国は、かつて大地の巫女とともにあった。
失われた盟約を、もう一度——』
書簡はそこで途切れていた。続きがあるのか、それとも最初からこれだけなのか——わからない。
「大陸の南に……まだ知らない国があるの?」
呟くと、エルヴィラが身を乗り出した。ノートを放り出して、書簡を覗き込む。
彼女の顔から、さっと血の気が引いた。
「この紋章——まさか」
「知っているの?」
「……文献でしか見たことがありません。『失われた王国』——三百年前に滅んだとされる、南方大陸の古代王国の紋章です」
テラスに、風が吹いた。
知らない花の香りが、鼻先をかすめて消えていく。
ペンダントが——微かに、脈動した。
新しい物語の予感が——胸の奥で、静かに芽吹いた。
——第一章・完——
第1章(全15話)をお読みいただきありがとうございます!
道具として使い捨てにされた公爵令嬢が、自分の意志で生きる道を見つける物語、いかがでしたか?
第2章「半分の力で」(全10話)もそのままお楽しみください!
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