道具ではなく
戦場に、踏み込んだ。
足元の大地がぬかるんでいる。土と血と、焦げた魔力の匂いが鼻を突いた。遠くで魔物の咆哮が轟き、地面が微かに震える。空気が焦げている——大地の悲鳴が、足の裏から全身に伝わってきた。
「魔術師団、展開! 第一陣、防壁術式を!」
エルヴィラの声が凛と響いた。普段の穏やかな学者の声ではない。戦場を統べる指揮官の声だ。
ヴェルムントの魔術師たちが一斉に動く。街道に扇状に広がり、光の壁を次々と展開していく。青白い魔法陣が地面に走り、魔物の群れの進路を塞いだ。
「右翼に大型三体! 迎撃する!」
ルーカスが剣を抜いた。銀色の刃が朝日を弾いて閃く。
突進してきた魔物の黒い体に、ルーカスの剣が斬り込んだ。一閃——返す刀でもう一体。三体目が飛びかかってきたが、半身をずらして躱し、そのまま首を刎ねる。獣の断末魔が空気を裂いた。
強い。ヴェルムントの精鋭は、さすがに精鋭だった。
でも——数が多すぎる。倒しても倒しても、次から次へと黒い影が湧いてくる。
「リゼロッテ殿、城壁まで道を開きます! 私たちが押さえている間に!」
エルヴィラが叫んだ。
「城壁の根元まで行けますか!? 大地に直接触れて、結界を張るなら——」
「行けます!」
答えた瞬間、体が動いていた。ルーカスが前を駆け、私の両脇を魔術師が固める。
城壁が近づく。ガルディアの騎士たちが、壁の上から私たちを見下ろしている。「何者だ」「ヴェルムントの——」ざわめきが広がった。
城壁の門が軋みながら開いた。
中に駆け込んだ瞬間——目の前に、一人の青年が立っていた。
金色の髪は乱れ、甲冑には血が滲んでいる。頬は痩けて、かつての傲慢な輝きなど欠片も残っていなかった。
碧い瞳が——信じられないものを見るように、見開かれた。
「リゼロッテ……?」
アレクシスの声は、掠れていた。乾いた唇が震えている。あの日——婚約破棄を告げたときの傲慢な声とは、別人のようだった。
「なぜ——お前が、ここに——」
私を見つめるその目に、いくつもの感情が渦巻いている。驚き。困惑。後悔。そして——恥。自分のしたことへの、深い恥。
胸の奥で、何かが軋んだ。
この顔を、かつて見上げていた。この人の隣で笑おうとしていた。この人に認められたくて、すべてを差し出していた。
——もう、そんな私じゃない。
「あなたに言われたからじゃありません」
自分の声が、思ったより静かに響いた。
「私が——ここに来たいと思ったから。それだけです」
アレクシスが、言葉を失った。
それ以上、立ち止まっている暇はなかった。
「殿下、城壁の外に出ます。結界を張るために——大地に直接触れる必要があります」
「外に——正気か!? 魔物が——」
「私の護衛は優秀ですから」
ルーカスが剣を肩に担いで、にやりと笑った。
「ガルディアの騎士殿より腕がいいのは保証する」
◇ ◇ ◇
城壁の外に出た。
魔物の群れの中に——一つの空間が開いた。ルーカスの剣と、エルヴィラの魔術師団が、私の周囲に安全な円を作ってくれている。
でも長くは持たない。
膝をつき——両手を、大地に押し当てた。
枯れた土。冷たくて、乾いて、脈動のない死んだ大地。
指先から魔力を流し込んだ。心臓の奥にある金色の温もりを——大地に向かって、解き放つ。
最初は抵抗があった。大地が死にすぎていて、魔力を受け付けない。凍った水路に水を流し込むようなもどかしさ。指先が痺れる。体の芯が軋む。
——もっと、深く。もっと、奥へ。
胸元のペンダントが脈打った。碧い光が金色に変わり、眩い光が溢れ出す。温かい。母の手のひらのように温かい。
母の温もり。大地の涙石が——私の魔力と共鳴する。
——お母様。力を貸して。
掌の下で——大地が、微かに震えた。
応えてくれた。
死にかけていた大地の奥底から、かすかな脈動が返ってきた。弱々しい、でも確かな鼓動。何百年もこの大地を支えてきた力の残滓。大地はまだ——生きている。
涙が溢れた。嬉しいのか悲しいのか、自分でもわからない。ただ——応えてくれたことが、たまらなく愛おしかった。
——大丈夫。まだ間に合う。
私の魔力が大地の鼓動と重なった瞬間、世界が変わった。
金色の光が——大地を走った。
手のひらを起点に、光の線が四方八方に延びていく。崩壊した結界の跡に沿って、新しい力が大地に刻み込まれる。
修復じゃない。
旧い結界の跡を辿りながら——新しい結界を、大地そのものに「書き込んで」いる。
光が走った先から——花が咲いた。
枯れた土を割って、緑の芽が吹き出す。茎が伸び、葉が広がり、白い花弁が風に揺れる。蔦が大地を覆い、木々が根を張り——生きた大地が、生きた壁になっていく。
花が咲き、草が茂り、木が伸びるたびに——結界が強くなる。自然そのものが防壁。大地の魔力と共鳴する、生きた結界。
始祖の巫女と同じ方法——いや、これは私の力だ。始祖から受け継ぎ、母から託され、私自身が目覚めさせた力。
金色の光は広がり続けた。城壁を越え、平野を越え、遠くの丘陵まで——大地を駆け抜けていく。
魔物たちが——怯んだ。
花の光に触れた魔物が、悲鳴を上げて後退する。一体、また一体。光の波が押し寄せるたびに、黒い影が退いていく。
やがて——最後の一体が、大地を離れた。
花と緑に満ちた光の壁が、かつて結界があった場所を——いや、もっと広く、もっと深く——覆い尽くしていた。
◇ ◇ ◇
力を使い果たして、手を離した。
立ち上がる。膝が震えたけれど——倒れなかった。ペンダントがまだ温かく脈動していて、その温もりが体を支えてくれていた。
周囲が、静まり返っていた。
城壁の上の騎士たちが、口を開けたまま動かない。ヴェルムントの魔術師たちも、息を呑んで花に満ちた大地を見つめていた。
遠くで——民の歓声が、かすかに聞こえた。
足元に——白い花が一輪、揺れていた。風もないのに、まるで私に語りかけるように。
アレクシスが城壁から降りてきた。
よろめきながら、私の前に立ち——膝をついた。
「……すまなかった」
絞り出すような声だった。
「俺は——お前の価値を、何も理解していなかった。お前を道具としか——」
「殿下」
遮った。静かに。
アレクシスが顔を上げた。ボロボロの顔に、涙の筋が光っていた。
「謝罪は受け取ります。でも——ひとつだけ、理解してください」
真っ直ぐに見下ろした。もう——見上げる必要はない。
「私がここに来たのは、あなたのためではありません。この国の民のためでもありません」
息を吸った。
「——私自身が、こうしたいと思ったから。それだけです」
風が吹いた。花弁が舞い上がり、金色の光の粒子が空に散る。
「もう一度——やり直すことは——」
「ありません」
即答した。でも——声は穏やかだった。憎しみでも復讐でもない。ただ静かな、確かな断絶。
「私はもう、あなたの隣に立つ人間ではない。あなたの魔力供給源でも、道具でもありません」
アレクシスが、唇を噛んだ。目から涙が一筋、頬を伝った。
「でも——あなたが本当に変わるなら。もう二度と、誰かを道具として扱わないなら——いつか、対等な立場で話せる日が来るかもしれませんね」
それが、私の答えだった。
赦しではない。和解でもない。ただ——過去を断ち切って、前に進むための言葉。
アレクシスが深く、深く頭を垂れた。その肩が微かに震えていた。
かつて——あの日、婚約破棄を告げたとき。私は見上げていた。王太子の前に跪いて、頭を下げて、涙を堪えていた。
今は——私が立っている。自分の足で。自分の意志で。
もう、見上げなくていい。
私はそこから目を逸らして——西の空を見た。
夕焼けが、金色に燃えている。ヴェルムントの方角だ。
隣に、エルヴィラが立っていた。反対側にルーカスが立った。少し離れたところで、マリアの姿が見える——馬車から降りて、花に囲まれた大地の上に立っている。
「帰りましょう、お嬢様」
マリアの声だった。温かくて、優しくて、揺るぎない声。
微笑んだ。涙が一粒、頬を伝った。
「ええ——帰りましょう。私たちの場所に」




