自分の意志で
翌朝。
謁見の間に立った私を、フリードリヒ陛下が静かに見つめていた。
エルヴィラが地図の前に立っている。ルーカスが壁際に腕を組んでいる。マリアが少し離れた場所で、両手を胸の前で組んでいた。
昨夜、一晩中考えて、泣いて、ペンダントを握りしめて——出した答え。
深呼吸をした。胸の奥で、昨夜から灯り続けているペンダントの温もりが脈打っている。
「ガルディアを助けに行きます」
短い沈黙が落ちた。謁見の間の空気が張り詰める。
「ただし——」
声に力を込めた。震えないように。でも、張り上げるのでもなく。自分自身の言葉として、真っ直ぐに。
「道具として利用されるためではありません。誰かに命じられたからでも、義務でもありません。私の意志で——私が守りたい人たちを、守るために行きます」
フリードリヒ陛下の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
それから——深い微笑みを浮かべた。
「見事な答えです、リゼロッテ殿」
陛下が一歩前に出た。
「ヴェルムントは全面的にあなたを支援します。我が国の魔術師団の精鋭を同行させましょう。——これは同盟の証だ。ガルディアに恩を売るためではなく、あなたの選択を支えるために」
胸の奥が、じんと熱くなった。
「陛下、私からも志願します」
エルヴィラだった。地図から一歩前に出て、真っ直ぐにこちらを見ている。
「大地の魔力の制御に関しては、現地での調整が不可欠です。リゼロッテ殿一人に任せるわけにはいきません」
学者としての冷静な口調。でも——目の奥に、それだけではない光があった。
「それに……始源級の魔力が大結界に代わる結界を生み出す瞬間を、この目で見届けなければ、学者として死んでも死にきれません」
少しだけ、笑いが漏れた。
「当然、俺も行く」
ルーカスだった。壁から背を離し、肩をすくめてみせる。
「護衛なしで戦場に出すわけないだろう。——それに、ガルディアの騎士がどれほどのものか、この目で見てやる」
軽い調子。でも腰の剣の柄に置いた手が、白くなるほど力が入っていた。彼なりの決意の表し方だと、もうわかっていた。
フリードリヒ陛下が一人ひとりの顔を見渡して——深く、頷いた。
「よい仲間を得ましたね、リゼロッテ殿」
この人たちが——私と一緒に行ってくれる。
強制ではなく。義務でもなく。自分の意志で。
「ありがとう……ございます」
声が詰まった。涙が滲みそうになって、慌てて瞬きをした。
でも——泣いている場合じゃない。前を向かなくちゃ。
◇ ◇ ◇
出発の準備は、驚くほど速やかに進んだ。
ヴェルムント魔術師団の精鋭二十名が選ばれ、護衛の騎士が編成され、馬車と物資が手配された。フリードリヒ陛下の号令一つで、城全体が動き出す。この国の底力を、改めて感じた。
部屋に戻ると、マリアが旅装の仕度をしてくれていた。
白い旅用のドレスの上に、深緑のマント。ヴェルムントの紋章が、肩口に銀糸で刺繍されている。
「お嬢様」
マントの留め金を止めながら、マリアが小さく言った。
「お嬢様は……お優しすぎます」
その声が、かすかに震えていた。
「あれほどひどいことをされたのに——助けに行くなんて」
「違うわ、マリア」
振り返って、マリアの手をそっと握った。
「これは優しさじゃない。私が——私自身のために、する選択よ」
マリアの目が、大きく見開かれた。
「あの人たちに言われたから行くんじゃない。見殺しにしたら自分が嫌になるから——自分自身に恥じない人間でいたいから、行くの」
マリアの瞳から、涙がぽろりとこぼれた。
「……ずるいですわ、お嬢様。そんなふうに言われたら——止められないじゃありませんか」
泣き笑いの顔で、マリアがマントの襟を丁寧に直してくれた。
「どうか——ご無事で」
「ええ。必ず帰ってくるわ」
マリアを抱きしめた。五年間、隣にいてくれた人。花の香りがする、温かい人。
マリアの手が、私の背中をそっと叩いた。幼い頃、泣いた夜にそうしてくれたように。
「お帰りを待っています。いつものお紅茶を用意して」
「……うん」
この温もりが——帰る場所の温もりだ。
玄関を出るとき、振り返った。マリアが両手を胸の前で組んで、微笑んでいた。
泣いてなかった。泣くのを我慢しているのが——わかった。だから私も、笑った。
◇ ◇ ◇
ヴェルムントの国境を越えた瞬間——世界が変わった。
まるで、見えない壁を一枚隔てた向こう側に踏み込んだような断絶。
街道の両脇には、枯れた木々が骨のように突き立っていた。地面は乾ききって、ひび割れた土が延々と続いている。空は鉛色の雲に覆われ、太陽の光が届かない。
風が吹くたびに、乾いた砂埃が舞い上がる。鼻の奥に、焦げたような——魔力が枯渇した大地の、死んだ匂いが染みついた。
ヴェルムントの緑豊かな大地との差が、あまりにも残酷だった。
「これが……大結界崩壊の影響か」
ルーカスが馬上で呟いた。いつもの軽い口調が、消えていた。
「結界の崩壊で、大地の魔力ごと吸い上げられたのです」
エルヴィラが馬車の窓から外を見つめていた。学者の目で——でも、顔色は悪い。
「木も草も、魔力を失えば枯れる。大地が死んでいるのです」
道沿いの村を通り過ぎた。家々の窓は暗く、人の気配がない。畑は荒れ果て、井戸は干上がっていた。避難したのか、それとも——。
それ以上、考えたくなかった。
私は馬車の座席で、掌を見つめた。足の裏から微かに伝わるはずの大地の鼓動が——ここでは、感じられない。
脈のない、冷たい大地。
胸が痛んだ。
かつて私が住んでいた国。父が治める領地も、この惨状のどこかにある。幼い頃、母と花を咲かせた庭も——今はきっと、こんなふうに枯れ果てている。
ペンダントを握った。温もりが、掌にじんわりと広がる。この温かさだけが——枯れた大地の中で、唯一の光だった。
「お嬢様、前方に——」
馬車の御者が声を上げた。
顔を上げて、窓の外を見た。
荒れ果てた街道の先に——ガルディア王都の城壁が見えた。
灰色の壁。かつては白く輝いていた石壁が、煤と魔力の残滓で汚れている。城壁のあちこちが崩れ、修復の跡が生々しく刻まれていた。
そしてその周囲を——無数の影が蠢いている。
魔物だ。
黒い靄のような体を持つ獣の群れが、城壁を取り囲んでいた。空には翼を持つ大型の魔物が旋回し、時折城壁に向かって急降下している。獣の咆哮が風に乗って、ここまで届いた。腹の底を震わせるような、低い唸り。
「あの数は……」
エルヴィラの声が、初めて震えた。
「百や二百じゃない。千を超えている——」
隣でルーカスが剣の柄に手をかけた。表情が、完全に戦士のそれに変わっている。
城壁の上で、騎士たちが必死に戦っていた。矢が放たれ、魔法の光が閃く。でも——明らかに劣勢だった。防戦一方で、少しずつ押されている。壁が一箇所、崩れかけていた。
そのとき——城壁の最前線に、一つの光が見えた。
金色の髪。ボロボロの甲冑。片膝をつきながらも、魔法を放ち続ける一人の青年。
——あの人だ。
あの人がいた。顔は血と泥にまみれ、体はよろめいている。生命力を削って結界を張ろうとした代償が、その体をぼろぼろに蝕んでいるのが——遠目にも、わかった。
それでもなお——最前線に立っている。
複雑な感情が、嵐のように胸を渦巻いた。
怒り。軽蔑。それから——認めたくない、何か。
「……殿下」
呟いた声は、風にさらわれて消えた。
でも——感傷に浸っている場合じゃない。
私は拳を握った。
「ルーカス。エルヴィラ。——行きましょう」
声は、もう震えていなかった。




