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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
1章 蛇口は閉じた

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12/25

崩壊の夜

 花に満ちた演習場に、冷たい風が吹き込んだ。


 たった今咲いたばかりの花弁が舞い上がり、金色の光の粒子が散っていく。さっきまで全身を包んでいた大地の温もりが——急速に冷えていくのを感じた。


「ガルディアからの早馬が——大結界が、完全に崩壊しました!」


 ルーカスの部下の声が、石壁に反響した。


 ——崩壊。


 その一言で、私の中の喜びが凍りついた。


 大結界。ガルディア王国の北方に張られた、国土全体を守る巨大な防護結界。あれが完全に崩壊したということは——


「魔物が……国内に入ってきているの?」


「北部と東部の複数の都市が被害を受けているとのことです。民の避難が始まっていますが、騎士団だけでは対応しきれず——」


 部下の声が震えていた。息が上がっている。相当な距離を走ってきたのだろう。


 ルーカスが部下の肩を掴んだ。


「落ち着け。詳細な報告は急使から直接聞く。陛下、謁見の間に移りましょう」


 フリードリヒ陛下が静かに頷いた。花に囲まれた演習場を振り返ることなく、足早に歩き出す。


 さっきまでの穏やかな碧い瞳が——氷のように鋭くなっていた。


 花が揺れている。風もないのに、さわさわと。まるで不安に怯えるように。


 ——大地が、怯えている?


 足の裏から伝わる振動が、微かに乱れていた。遠い場所で起きた異変を、この国の大地すら感じ取っている。


 ◇ ◇ ◇


 謁見の間に、次々と報告が入った。


 ガルディア王国北方の大結界が完全崩壊。魔物の群れが国境を越え、複数の都市に侵入。騎士団は各地に分散して防衛にあたっているが、戦力が足りない。


 被害は拡大し続けている。


 エルヴィラが地図を広げ、眉を顰めた。


「大結界の崩壊は予測されていましたが——これほど急激だとは。維持魔力が完全に枯渇したのでしょう」


 維持魔力。


 ——私から搾り取っていた、あの力。


 私が王宮を去った時点で、結界の維持魔力は断たれていた。いつかこうなることは、わかっていたはずだ。


 わかっていた——のに。


 胸が締めつけられた。


 そこにもう一通、急使が走り込んできた。


「ブランシュ公爵家から、リゼロッテ様宛ての書状です」


 震える手で封を切った。父の筆跡。力強いけれど、いつもより少し乱れている。


『リゼロッテへ。


 大結界が崩壊した。ブランシュ領は公爵家の独自結界で守っているが、いつまで持つかわからない。


 王都はさらに深刻だ。アレクシス殿下が最後の手段として——自分の生命力を魔力に変換し、結界を張ろうとした。


 倒れた。


 命を削ってまで結界を維持しようとしたが、それでも足りなかったのだ。


 国中が混乱している。民が逃げ惑っている。


 お前に何かをしろとは言わない。ただ——知らせておきたかった。


 父より』


 手紙を読み終えた指先が、冷たくなっていた。


「……アレクシスが、倒れた」


 声が震えた。自分でも驚くほどに。


 あの人が——命を削ってまで。生命力を魔力に変えるなんて、体を壊す禁忌の術だ。そんなことをしてまで、結界を。


 ——愚かな人。


 怒りが込み上げた。今さら何をしている。私の力を搾取し続けて、なくなった途端に自分の命で補おうとするなんて。最初から、もっと別のやり方があったはずなのに。


 でも——。


 怒りの奥に、別の感情がある。認めたくない、でも確かにそこにある感情。


 民のために命を削った。愚かだけれど——あの人なりに、必死だった。


「リゼロッテ殿」


 フリードリヒ陛下の声だった。


 顔を上げると、陛下が真っ直ぐに私を見ていた。穏やかで——でも、どこか悲しげな目だった。


「辛い知らせだとわかっています。ですが——伝えなければなりません」


 陛下が息を吸った。


「あなたの力があれば、ガルディアの結界を再生できる可能性があります。エルヴィラの見解でも、大地の巫女の力は崩壊した結界に代わる防壁を生み出せると」


「……はい」


 わかっていた。演習場であの力を見せた瞬間から——いつかこの話が来ることは。


「ですが——」


 陛下の声が、静かに、でもはっきりと響いた。


「この判断は、あなた自身がしなければなりません。我々は強制しない」


 息が詰まった。


「ガルディアがあなたにしたことを、我々は知っています。あの国に力を貸す義理はない。民は気の毒だが、それはガルディアの王家が招いた結果です」


 ルーカスが壁際で腕を組んだまま、黙って頷いている。エルヴィラも地図から目を上げて、私を見つめていた。


 誰も——「行け」とは言わなかった。


「もしあなたが望むなら——この国は全面的に支援します。魔術師団も、護衛も、必要なものはすべて」


 陛下が言葉を区切った。


「でも。望まないなら、それでいい。あなたはもう——誰かの道具ではないのですから」


 その言葉が、胸の奥深くに突き刺さった。


 ——強制しない。


 ガルディアでは、選択の余地すらなかった。命令され、搾取され、消耗し尽くされた。「国のために」「民のために」——私の意志は一度も問われなかった。


 今、この人たちは問うてくれている。


 私自身に。私の心に。


 侍女が一歩前に出た。


「お嬢様。どんな答えでも——私はお嬢様のそばにいます」


 その声が、揺るぎなくて——温かくて——涙腺が、危うくなった。


 エルヴィラが黙って地図を畳んだ。ルーカスが壁際で、何も言わずにこちらを見ていた。


 誰も急かさない。誰も責めない。


 ——この人たちが、いる。


 ◇ ◇ ◇


 夜。一人になった部屋で、窓辺に立った。


 月の光が、冷たく部屋を照らしている。


 ガルディアの方角——東の空は、うっすらと赤く染まっていた。結界の崩壊が生んだ魔力の残光。あの光の下で、今も人々が逃げ惑っている。


 子供たちが泣いている。家を焼かれた人たちが途方に暮れている。かつての領民たち。私の顔を見て笑いかけてくれた、市場のおばさん。お菓子をくれた、パン屋のおじさん。


 あの人たちは、何も悪くない。


 悪いのは——搾取を命じた王家であって、民ではない。


 でも。助けに行けば、私はまた「ガルディアのため」に力を使うことになる。それは——あの五年間と、何が違う?


 頭がぐるぐると回った。


 怒り。憎しみ。同情。罪悪感。後悔。それから——名前のつけられない、もっと深いところにある感情。


 ペンダントを握りしめた。母の形見。大地の涙石。


「お母様……私は、どうすればいいの」


 碧い宝石が、掌の中で温かく脈動した。


 心臓の鼓動と同じリズム。大地と繋がる、あの温もり。


 ——母の手のひらの温かさが、指先に甦った。


 花を咲かせてくれた、幼い日の記憶。庭で手を繋いで、小さな花に魔力を注いだ。「ほら、リゼ。あなたの力で花が咲いたのよ」


 あの日、母は笑っていた。自分の力が誰かを笑顔にする——それが嬉しくて、私も笑った。


 母は力を隠していた。でも——私に見せてくれた。力は奪うためのものじゃない。守るためのもの。咲かせるためのもの。


 ペンダントの光が、少しだけ強くなった。温かい金色。部屋の隅にまで、柔らかく染み渡る光。


 窓辺の花瓶に挿してあった白い花が——光に応えるように、ふわりと花弁を広げた。


 不思議な安らぎが、胸に広がっていく。


 ——ああ、そうか。


 答えは、もうとっくに出ていた。


 あの五年間と何が違うかって——すべてが違う。


 あの頃は命令された。搾取された。「お前の力は国のものだ」と言われた。


 でも今は——私が、自分で選ぶ。


 誰にも強制されていない。行かなくてもいいと言われている。それでも——行きたいと、思っている。


 民を見殺しにしたくない。あの人たちを守りたい。それは私の感情で、私の意志で——私自身の選択だ。


 ペンダントをぎゅっと握った。


 涙がひとすじ、頬を伝って落ちた。


「——行かなきゃ」


 声は、震えていなかった。

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