崩壊の夜
花に満ちた演習場に、冷たい風が吹き込んだ。
たった今咲いたばかりの花弁が舞い上がり、金色の光の粒子が散っていく。さっきまで全身を包んでいた大地の温もりが——急速に冷えていくのを感じた。
「ガルディアからの早馬が——大結界が、完全に崩壊しました!」
ルーカスの部下の声が、石壁に反響した。
——崩壊。
その一言で、私の中の喜びが凍りついた。
大結界。ガルディア王国の北方に張られた、国土全体を守る巨大な防護結界。あれが完全に崩壊したということは——
「魔物が……国内に入ってきているの?」
「北部と東部の複数の都市が被害を受けているとのことです。民の避難が始まっていますが、騎士団だけでは対応しきれず——」
部下の声が震えていた。息が上がっている。相当な距離を走ってきたのだろう。
ルーカスが部下の肩を掴んだ。
「落ち着け。詳細な報告は急使から直接聞く。陛下、謁見の間に移りましょう」
フリードリヒ陛下が静かに頷いた。花に囲まれた演習場を振り返ることなく、足早に歩き出す。
さっきまでの穏やかな碧い瞳が——氷のように鋭くなっていた。
花が揺れている。風もないのに、さわさわと。まるで不安に怯えるように。
——大地が、怯えている?
足の裏から伝わる振動が、微かに乱れていた。遠い場所で起きた異変を、この国の大地すら感じ取っている。
◇ ◇ ◇
謁見の間に、次々と報告が入った。
ガルディア王国北方の大結界が完全崩壊。魔物の群れが国境を越え、複数の都市に侵入。騎士団は各地に分散して防衛にあたっているが、戦力が足りない。
被害は拡大し続けている。
エルヴィラが地図を広げ、眉を顰めた。
「大結界の崩壊は予測されていましたが——これほど急激だとは。維持魔力が完全に枯渇したのでしょう」
維持魔力。
——私から搾り取っていた、あの力。
私が王宮を去った時点で、結界の維持魔力は断たれていた。いつかこうなることは、わかっていたはずだ。
わかっていた——のに。
胸が締めつけられた。
そこにもう一通、急使が走り込んできた。
「ブランシュ公爵家から、リゼロッテ様宛ての書状です」
震える手で封を切った。父の筆跡。力強いけれど、いつもより少し乱れている。
『リゼロッテへ。
大結界が崩壊した。ブランシュ領は公爵家の独自結界で守っているが、いつまで持つかわからない。
王都はさらに深刻だ。アレクシス殿下が最後の手段として——自分の生命力を魔力に変換し、結界を張ろうとした。
倒れた。
命を削ってまで結界を維持しようとしたが、それでも足りなかったのだ。
国中が混乱している。民が逃げ惑っている。
お前に何かをしろとは言わない。ただ——知らせておきたかった。
父より』
手紙を読み終えた指先が、冷たくなっていた。
「……アレクシスが、倒れた」
声が震えた。自分でも驚くほどに。
あの人が——命を削ってまで。生命力を魔力に変えるなんて、体を壊す禁忌の術だ。そんなことをしてまで、結界を。
——愚かな人。
怒りが込み上げた。今さら何をしている。私の力を搾取し続けて、なくなった途端に自分の命で補おうとするなんて。最初から、もっと別のやり方があったはずなのに。
でも——。
怒りの奥に、別の感情がある。認めたくない、でも確かにそこにある感情。
民のために命を削った。愚かだけれど——あの人なりに、必死だった。
「リゼロッテ殿」
フリードリヒ陛下の声だった。
顔を上げると、陛下が真っ直ぐに私を見ていた。穏やかで——でも、どこか悲しげな目だった。
「辛い知らせだとわかっています。ですが——伝えなければなりません」
陛下が息を吸った。
「あなたの力があれば、ガルディアの結界を再生できる可能性があります。エルヴィラの見解でも、大地の巫女の力は崩壊した結界に代わる防壁を生み出せると」
「……はい」
わかっていた。演習場であの力を見せた瞬間から——いつかこの話が来ることは。
「ですが——」
陛下の声が、静かに、でもはっきりと響いた。
「この判断は、あなた自身がしなければなりません。我々は強制しない」
息が詰まった。
「ガルディアがあなたにしたことを、我々は知っています。あの国に力を貸す義理はない。民は気の毒だが、それはガルディアの王家が招いた結果です」
ルーカスが壁際で腕を組んだまま、黙って頷いている。エルヴィラも地図から目を上げて、私を見つめていた。
誰も——「行け」とは言わなかった。
「もしあなたが望むなら——この国は全面的に支援します。魔術師団も、護衛も、必要なものはすべて」
陛下が言葉を区切った。
「でも。望まないなら、それでいい。あなたはもう——誰かの道具ではないのですから」
その言葉が、胸の奥深くに突き刺さった。
——強制しない。
ガルディアでは、選択の余地すらなかった。命令され、搾取され、消耗し尽くされた。「国のために」「民のために」——私の意志は一度も問われなかった。
今、この人たちは問うてくれている。
私自身に。私の心に。
侍女が一歩前に出た。
「お嬢様。どんな答えでも——私はお嬢様のそばにいます」
その声が、揺るぎなくて——温かくて——涙腺が、危うくなった。
エルヴィラが黙って地図を畳んだ。ルーカスが壁際で、何も言わずにこちらを見ていた。
誰も急かさない。誰も責めない。
——この人たちが、いる。
◇ ◇ ◇
夜。一人になった部屋で、窓辺に立った。
月の光が、冷たく部屋を照らしている。
ガルディアの方角——東の空は、うっすらと赤く染まっていた。結界の崩壊が生んだ魔力の残光。あの光の下で、今も人々が逃げ惑っている。
子供たちが泣いている。家を焼かれた人たちが途方に暮れている。かつての領民たち。私の顔を見て笑いかけてくれた、市場のおばさん。お菓子をくれた、パン屋のおじさん。
あの人たちは、何も悪くない。
悪いのは——搾取を命じた王家であって、民ではない。
でも。助けに行けば、私はまた「ガルディアのため」に力を使うことになる。それは——あの五年間と、何が違う?
頭がぐるぐると回った。
怒り。憎しみ。同情。罪悪感。後悔。それから——名前のつけられない、もっと深いところにある感情。
ペンダントを握りしめた。母の形見。大地の涙石。
「お母様……私は、どうすればいいの」
碧い宝石が、掌の中で温かく脈動した。
心臓の鼓動と同じリズム。大地と繋がる、あの温もり。
——母の手のひらの温かさが、指先に甦った。
花を咲かせてくれた、幼い日の記憶。庭で手を繋いで、小さな花に魔力を注いだ。「ほら、リゼ。あなたの力で花が咲いたのよ」
あの日、母は笑っていた。自分の力が誰かを笑顔にする——それが嬉しくて、私も笑った。
母は力を隠していた。でも——私に見せてくれた。力は奪うためのものじゃない。守るためのもの。咲かせるためのもの。
ペンダントの光が、少しだけ強くなった。温かい金色。部屋の隅にまで、柔らかく染み渡る光。
窓辺の花瓶に挿してあった白い花が——光に応えるように、ふわりと花弁を広げた。
不思議な安らぎが、胸に広がっていく。
——ああ、そうか。
答えは、もうとっくに出ていた。
あの五年間と何が違うかって——すべてが違う。
あの頃は命令された。搾取された。「お前の力は国のものだ」と言われた。
でも今は——私が、自分で選ぶ。
誰にも強制されていない。行かなくてもいいと言われている。それでも——行きたいと、思っている。
民を見殺しにしたくない。あの人たちを守りたい。それは私の感情で、私の意志で——私自身の選択だ。
ペンダントをぎゅっと握った。
涙がひとすじ、頬を伝って落ちた。
「——行かなきゃ」
声は、震えていなかった。




