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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
1章 蛇口は閉じた

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始源の花

 大演習場は、王宮の裏手に広がる巨大な石造りの広場だった。


 周囲を高い壁で囲まれ、壁面には防護の魔法陣が幾重にも刻まれている。石畳は長年の訓練で所々がひび割れ、焦げ跡が黒い模様を描いていた。冷たい朝の空気に、石と土の匂いが混じっている。


「ここなら、全力を出しても問題ありません。防護結界は最高等級のものを張ってあります」


 エルヴィラが演習場の中央に立ち、腕を広げてみせた。


 周囲には、フリードリヒ陛下をはじめ、研究院の魔術師たちが見守るように並んでいた。ルーカスが壁際に腕を組んで立っている。マリアは少し離れた場所で、両手を胸の前で組み、祈るような表情を浮かべていた。


「リゼロッテ殿。今日やっていただきたいのは、大地の魔力を意識的に制御することです」


「意識的に……」


「先日の庭園では、あなたの力は無意識に溢れ出ました。あれは制御ではなく、放出です。今日は——自分の意志で、力の方向と範囲を定めていただきたい」


 頷いて、演習場の中央に進んだ。


 石畳が足の裏に冷たい。深呼吸をすると、肺の奥まで冷えた空気が染み渡った。


 目を閉じる。


 体の中の魔力に意識を向けた。心臓の奥で、金色の温もりが静かに脈動している。昨夜からずっと消えない、母の石が呼び覚ました力。


 ——行きなさい。


 掌から魔力を流し込もうとした。


 石畳に手をかざす。力を送る。集中する。


 ——何も、起きなかった。


 もう一度。もっと強く。


 額に汗が滲む。歯を食いしばって、体の中の魔力を絞り出すように押し込む。


 石畳が、びくりとも動かない。


「……っ」


 三度目。四度目。力を込めるたびに、体の芯がぎしぎしと軋んだ。腕が震え、膝が笑い始める。


 ——駄目だ。何も起きない。


 焦りが胸を焼いた。庭園ではあれほど簡単にできたのに。あのとき花が咲き乱れた力は、どこに消えたのか。


「力みすぎです」


 エルヴィラの声が、静かに届いた。


「魔力は筋力ではありません。押し込むものではなく、通すものです」


 わかっている。頭では、わかっている。


 でも——「意識的に」使おうとした途端、体が固くなる。五年間、魔力を抑え続けた体が、反射的に力を封じ込めようとしているのだ。


 抑えなければ奪われる。使えば搾取される。だから隠せ、閉じ込めろ、感じるな——


 王宮で刻み込まれた恐怖が、体の奥底に根を張っていた。


「お嬢様」


 マリアの声だった。壁際から、一歩だけ前に出て。


「王宮にいた頃は、力を抑えることばかり考えていましたわね」


 ——そうだ。あの頃、私は毎日自分の魔力を押し殺していた。感じないように。溢れないように。少しでも奪われる量を減らそうと、必死に蓋をしていた。


「もう——抑えなくていいのですよ」


 マリアの目が、真っ直ぐに私を見ていた。優しくて、でも揺るぎない瞳。


 五年間、隣にいてくれた人。私が泣いた夜も、震えた朝も、ただそばにいてくれた人。


 その人が言う。


 ——もう、抑えなくていい。


 体の中で、何かが外れた。


 蓋が。鍵が。五年分の恐怖で固めた、分厚い壁が。


 ——音もなく、崩れた。


 ◇ ◇ ◇


 金色の光が、指先から溢れ出した。


 石畳に手を触れた瞬間——大地が、応えた。


 足元の石が割れた。割れ目から、小さな緑の芽が顔を出す。芽はみるみるうちに茎を伸ばし、葉を広げ、蕾をつけ——


 花が、咲いた。


 白い花。たった一輪。


 でもそれは始まりに過ぎなかった。


 一輪の花を中心に、波紋のように力が広がっていく。石畳が次々と割れ、隙間から無数の草花が芽吹いた。緑の蔦が壁面を駆け上がり、枯れた蕾が一斉に花開く。


 止まらなかった。止める必要がなかった。


 演習場の端から端まで——石の床を突き破って、花が咲き乱れていく。白、碧、紫、金色。見たこともない色の花々が、風もないのにさわさわと揺れている。


 地面が盛り上がった。演習場の隅で、こんこんと水が湧き出す。透明な泉が石の間から生まれ、せせらぎの音が響き始めた。水面に花弁が散り、金色の光の粒子がきらきらと漂う。


 甘い花の香りが、冷たかった朝の空気を塗り替えていく。蝶が舞い、小鳥がどこからともなく飛んできて、新しく生まれた木の枝に止まった。


 大地の鼓動が——全身に響いていた。心臓と同じリズムで、大地が脈打っている。私の魔力と大地の魔力が一つになって、共鳴している。


 温かい。どこまでも温かい。


 これが——私の力。


 奪われるためのものでも、抑え込むためのものでもない。大地に花を咲かせ、水を湧かせ、命を育む力。


 目を開けた。


 演習場は——もう演習場ではなかった。


 石畳の広場が、一面の庭園に変わっていた。花と緑と水に満ちた、生きた庭園。防護結界の壁面にまで蔦が絡み、壁の魔法陣が花の光で淡く輝いている。


 ◇ ◇ ◇


 沈黙が降りた。


 長い、長い沈黙。


 最初に声を上げたのは、研究院の若い魔術師だった。震える声で、一言だけ。


「……嘘だろう」


 それが合図だったように、ざわめきが広がった。魔術師たちが顔を見合わせ、頷き合い、ある者は記録板に狂ったように書き込み始めた。


 エルヴィラが一歩、また一歩と近づいてきた。足元の花を踏まないように、慎重に。


 彼女の目が——潤んでいた。学者の目ではなく、一人の人間として、純粋な感動に打たれた目だった。


「これが……始源級の力。大地そのものが、あなたに応えている」


 声が震えていた。


 フリードリヒ陛下が静かに頷いた。その碧い瞳に、深い感慨が浮かんでいる。母の面影を、この庭園に見ているのかもしれなかった。


 ルーカスが壁際から歩いてきた。花を一輪、そっと手に取って——くるくると回しながら、にっと笑った。


「花の魔女、どころじゃないな。花の女神だ」


 おどけた声なのに、目が赤かった。


 私は微笑んだ。涙が頬を伝っていた。


 悲しみの涙ではない。悔しさの涙でもない。


 ——喜びの涙だ。


「これが、私の本当の力——」


 五年間奪われ続けた。抑え込まれ続けた。自分の力を感じることすら許されなかった。


 でも今——力は、ここにある。私の中に。私の手に。


 花に囲まれた演習場で、私は両手を見つめた。金色の光が、まだ淡く灯っている。


 もう二度と、この光を誰かに奪わせはしない。


 歓声が上がり始めた瞬間——演習場の入口から、ルーカスの部下が駆け込んできた。息を切らし、顔面蒼白で。


「ルーカス様! 緊急の急報です!」


 ルーカスが振り返る。笑顔が消えた。


「ガルディアからの早馬が——大結界が、完全に崩壊しました! 王都にまで魔物が迫っているとのことです!」


 花の香りに満ちた庭園に、冷たい風が吹き抜けた。


 東の空を見た。


 昼間だというのに——赤い光が、空の端をはっきりと焦がしていた。

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