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婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません  作者: 凪乃
1章 蛇口は閉じた

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大地の記憶

 翌朝、エルヴィラに連れられて研究院の地下書庫に降りた。


 階段を下りるたびに空気が変わっていく。地上の温かさが遠ざかり、ひんやりとした石の匂いが鼻を包む。足音が反響して、まるで大地の鼓動のように聞こえた。


「この書庫には、建国期の資料が保管されています。一般の研究者は立ち入りが許されていません」


 エルヴィラが古い鍵で錠前を開けた。重い扉がぎいっと軋み、その奥に——薄暗い空間が広がっていた。


 壁一面に、古びた巻物と革装の書物が並んでいる。空気の中に、何百年分の時間が凝縮されたような、甘くて重い紙の匂いが漂っていた。


 エルヴィラが奥の棚から一冊の書物を取り出した。表紙は色褪せ、金箔の文字がかろうじて読める。


「『始祖記』。ヴェルムント建国の歴史を記した、最も古い書物です」


 彼女がそっと頁を開いた。乾いた羊皮紙が、かすかな音を立てる。


「ヴェルムント建国の始祖は、一人の女性でした。名を——『大地の巫女』と呼ばれた方です」


「大地の巫女……」


「彼女は大地そのものから魔力を引き出し、結界を張ることができました。剣も軍勢も持たず、ただその力だけで——荒野だったこの地を豊かな国に変えたと伝えられています」


 頁に描かれた古い挿絵には、花に囲まれた女性が大地に手を触れている姿があった。その足元から光の波紋が広がり、荒れた大地に緑が芽吹いている。


 ——私が庭園でやったことと、同じだ。


 胸がどくんと脈打った。


「始祖の血脈は、王家の中で細々と受け継がれてきました。しかし大地の魔力を発現させた者は、もう何世代もいません。力は途絶えたと考えられていました——あなたが現れるまでは」


 エルヴィラが私をまっすぐに見た。


「リゼロッテ殿。あなたの母君のことを、教えていただけませんか」


 ◇ ◇ ◇


 母のことは、あまり覚えていない。


 幼い頃に亡くなったから。残っているのは断片的な記憶——温かい手のひら。花の香り。優しい子守歌の旋律。


「父は、母がヴェルムントの出身だと言っていました。でも詳しいことは何も——」


「おそらく、お父上にも話せない事情があったのでしょう」


 エルヴィラの声が柔らかくなった。


「あなたのお母上は——ヴェルムント王家の傍系に連なる姫でした」


 呼吸が止まった。


「ヴェルムント王家の……?」


「はい。ただし、政略結婚ではなくグレゴリオ殿との恋愛で嫁がれたため、公式記録からは消されています。王家を離れた方として、その存在自体がなかったことにされていた」


 目の前が、ぐるりと回った気がした。


 ——母が、王家の人間だった。


 あの優しかった母が。花を咲かせる魔法を教えてくれた母が。


「リゼロッテ殿、お持ちのペンダントを見せていただけますか」


 震える手で、胸元からペンダントを外した。碧い宝石が、地下書庫の薄闇の中で静かに光を放っている。


 エルヴィラがそれを受け取った瞬間——彼女の顔から、すべての色が消えた。


「……これは」


 声が、掠れていた。


「『大地の涙石』——始祖の巫女が身につけていたとされる、王家の至宝です。王宮の秘宝庫にあるはずの——」


「秘宝庫に?」


「はい。少なくとも、そう記録されていました。しかし——本物はここにあった。あなたのお母上が、持ち出していたのですね」


 母が——始祖の至宝を持ち出した。


 なぜ。何のために。


 答えは、すぐにわかった。


 ——私に、渡すためだ。


 母は知っていたのだ。自分の娘に、始祖の力が受け継がれることを。だからこの石を、形見として残した。


 目頭が、焼けるように熱くなった。


 ◇ ◇ ◇


 地下書庫から出ると、謁見の間にフリードリヒ陛下が待っていた。


 エルヴィラが事情を報告すると、陛下は長い沈黙の後——深く、ゆっくりと息を吐いた。


「やはり、そうでしたか」


「陛下は……ご存じだったのですか?」


「確信はありませんでした。ただ——あなたの母君は、私の従姉にあたる方だった。若くして亡くなられたと聞いたときは、深く悲しみました」


 従姉。


 つまりフリードリヒ陛下と母は、血のつながった親族だったのだ。


「あなたをこの国に招いたのは、魔力のためだけではありません。血縁として——あなたを守りたかった」


 陛下の碧い瞳が、潤んでいた。穏やかで温かい、でも少し寂しそうな目。母を失った悲しみが、何十年も経った今もそこに残っている。


「リゼロッテ殿。あなたは我が国の血を引く者です。ヴェルムント王家の一員と名乗る権利がある」


 ——王家の一員。


 その言葉は、魅力的だった。強大な後ろ盾を得られる。ガルディアの「国家財産」という暴論にも、王族の身分で対抗できる。


 でも。


「陛下、ありがたいお言葉です。ですが——私は、ブランシュ家の娘です」


 自分でも驚くほど、声は澄んでいた。


「父に育てられ、父の愛で守られてきました。血統がどうであれ——私の力は私のもの。どこかの国の血を引いているから強いのではなく、私自身の力として、この手に宿っている。そう信じたいのです」


 沈黙が降りた。


 長い、長い沈黙。


 そして——フリードリヒ陛下が、深い感嘆の笑みを浮かべた。


「あなたの母君も、同じことを言いました。『王家の姫としてではなく、私自身として生きたい』と。——よく似ている」


 胸の奥で、温かいものが弾けた。


 母と同じ言葉を、私は選んだ。


 知らなかったのに。教えられなかったのに。血が——魂が、同じ道を指し示していた。


 ◇ ◇ ◇


 夜。部屋に戻って、ペンダントを掌に載せた。


 大地の涙石。始祖の巫女の至宝。


 碧い光が、心臓の鼓動に合わせて脈動している。温かい。まるで母の手のひらのように。


「お母様……ありがとう」


 小さく呟いた。


 母は何もかも知った上で、この石を遺してくれた。私がいつか、この力に目覚める日のために。


 涙が一粒、宝石の表面に落ちた。


 その瞬間——石が、淡い金色の光を放った。碧ではなく、金色。温かく、柔らかく、部屋全体を包み込むような光。


 掌の上で、光が渦を巻く。指先から腕を伝い、全身に金色の温もりが広がっていく。


 大地の鼓動が——聞こえた。


 建物の床を通して、地面を通して、この国の大地そのものの、ゆっくりとした脈動が。


 翌朝、エルヴィラが研究院で待っていた。


「リゼロッテ殿。大地の巫女の力が本物なら、あなたは結界を『張る』だけでなく、『書き換える』ことができるはずです」


 彼女の目は真剣だった。


「明日、王立魔術研究院の大演習場で——試してみませんか?」


 私は掌を見つめた。


 昨夜から消えない、淡い金色の光が——自然に、静かに灯り続けていた。

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