大地の記憶
翌朝、エルヴィラに連れられて研究院の地下書庫に降りた。
階段を下りるたびに空気が変わっていく。地上の温かさが遠ざかり、ひんやりとした石の匂いが鼻を包む。足音が反響して、まるで大地の鼓動のように聞こえた。
「この書庫には、建国期の資料が保管されています。一般の研究者は立ち入りが許されていません」
エルヴィラが古い鍵で錠前を開けた。重い扉がぎいっと軋み、その奥に——薄暗い空間が広がっていた。
壁一面に、古びた巻物と革装の書物が並んでいる。空気の中に、何百年分の時間が凝縮されたような、甘くて重い紙の匂いが漂っていた。
エルヴィラが奥の棚から一冊の書物を取り出した。表紙は色褪せ、金箔の文字がかろうじて読める。
「『始祖記』。ヴェルムント建国の歴史を記した、最も古い書物です」
彼女がそっと頁を開いた。乾いた羊皮紙が、かすかな音を立てる。
「ヴェルムント建国の始祖は、一人の女性でした。名を——『大地の巫女』と呼ばれた方です」
「大地の巫女……」
「彼女は大地そのものから魔力を引き出し、結界を張ることができました。剣も軍勢も持たず、ただその力だけで——荒野だったこの地を豊かな国に変えたと伝えられています」
頁に描かれた古い挿絵には、花に囲まれた女性が大地に手を触れている姿があった。その足元から光の波紋が広がり、荒れた大地に緑が芽吹いている。
——私が庭園でやったことと、同じだ。
胸がどくんと脈打った。
「始祖の血脈は、王家の中で細々と受け継がれてきました。しかし大地の魔力を発現させた者は、もう何世代もいません。力は途絶えたと考えられていました——あなたが現れるまでは」
エルヴィラが私をまっすぐに見た。
「リゼロッテ殿。あなたの母君のことを、教えていただけませんか」
◇ ◇ ◇
母のことは、あまり覚えていない。
幼い頃に亡くなったから。残っているのは断片的な記憶——温かい手のひら。花の香り。優しい子守歌の旋律。
「父は、母がヴェルムントの出身だと言っていました。でも詳しいことは何も——」
「おそらく、お父上にも話せない事情があったのでしょう」
エルヴィラの声が柔らかくなった。
「あなたのお母上は——ヴェルムント王家の傍系に連なる姫でした」
呼吸が止まった。
「ヴェルムント王家の……?」
「はい。ただし、政略結婚ではなくグレゴリオ殿との恋愛で嫁がれたため、公式記録からは消されています。王家を離れた方として、その存在自体がなかったことにされていた」
目の前が、ぐるりと回った気がした。
——母が、王家の人間だった。
あの優しかった母が。花を咲かせる魔法を教えてくれた母が。
「リゼロッテ殿、お持ちのペンダントを見せていただけますか」
震える手で、胸元からペンダントを外した。碧い宝石が、地下書庫の薄闇の中で静かに光を放っている。
エルヴィラがそれを受け取った瞬間——彼女の顔から、すべての色が消えた。
「……これは」
声が、掠れていた。
「『大地の涙石』——始祖の巫女が身につけていたとされる、王家の至宝です。王宮の秘宝庫にあるはずの——」
「秘宝庫に?」
「はい。少なくとも、そう記録されていました。しかし——本物はここにあった。あなたのお母上が、持ち出していたのですね」
母が——始祖の至宝を持ち出した。
なぜ。何のために。
答えは、すぐにわかった。
——私に、渡すためだ。
母は知っていたのだ。自分の娘に、始祖の力が受け継がれることを。だからこの石を、形見として残した。
目頭が、焼けるように熱くなった。
◇ ◇ ◇
地下書庫から出ると、謁見の間にフリードリヒ陛下が待っていた。
エルヴィラが事情を報告すると、陛下は長い沈黙の後——深く、ゆっくりと息を吐いた。
「やはり、そうでしたか」
「陛下は……ご存じだったのですか?」
「確信はありませんでした。ただ——あなたの母君は、私の従姉にあたる方だった。若くして亡くなられたと聞いたときは、深く悲しみました」
従姉。
つまりフリードリヒ陛下と母は、血のつながった親族だったのだ。
「あなたをこの国に招いたのは、魔力のためだけではありません。血縁として——あなたを守りたかった」
陛下の碧い瞳が、潤んでいた。穏やかで温かい、でも少し寂しそうな目。母を失った悲しみが、何十年も経った今もそこに残っている。
「リゼロッテ殿。あなたは我が国の血を引く者です。ヴェルムント王家の一員と名乗る権利がある」
——王家の一員。
その言葉は、魅力的だった。強大な後ろ盾を得られる。ガルディアの「国家財産」という暴論にも、王族の身分で対抗できる。
でも。
「陛下、ありがたいお言葉です。ですが——私は、ブランシュ家の娘です」
自分でも驚くほど、声は澄んでいた。
「父に育てられ、父の愛で守られてきました。血統がどうであれ——私の力は私のもの。どこかの国の血を引いているから強いのではなく、私自身の力として、この手に宿っている。そう信じたいのです」
沈黙が降りた。
長い、長い沈黙。
そして——フリードリヒ陛下が、深い感嘆の笑みを浮かべた。
「あなたの母君も、同じことを言いました。『王家の姫としてではなく、私自身として生きたい』と。——よく似ている」
胸の奥で、温かいものが弾けた。
母と同じ言葉を、私は選んだ。
知らなかったのに。教えられなかったのに。血が——魂が、同じ道を指し示していた。
◇ ◇ ◇
夜。部屋に戻って、ペンダントを掌に載せた。
大地の涙石。始祖の巫女の至宝。
碧い光が、心臓の鼓動に合わせて脈動している。温かい。まるで母の手のひらのように。
「お母様……ありがとう」
小さく呟いた。
母は何もかも知った上で、この石を遺してくれた。私がいつか、この力に目覚める日のために。
涙が一粒、宝石の表面に落ちた。
その瞬間——石が、淡い金色の光を放った。碧ではなく、金色。温かく、柔らかく、部屋全体を包み込むような光。
掌の上で、光が渦を巻く。指先から腕を伝い、全身に金色の温もりが広がっていく。
大地の鼓動が——聞こえた。
建物の床を通して、地面を通して、この国の大地そのものの、ゆっくりとした脈動が。
翌朝、エルヴィラが研究院で待っていた。
「リゼロッテ殿。大地の巫女の力が本物なら、あなたは結界を『張る』だけでなく、『書き換える』ことができるはずです」
彼女の目は真剣だった。
「明日、王立魔術研究院の大演習場で——試してみませんか?」
私は掌を見つめた。
昨夜から消えない、淡い金色の光が——自然に、静かに灯り続けていた。




