婚約破棄されたので、もう王太子に魔力は渡しません
王太子アレクシスの言葉は、いつもと同じ温度だった。
「——リゼロッテ。君との婚約を破棄する」
謁見の間ではなかった。夕食後の回廊で、侍従すら下がらせずに、彼はそう言った。隣にはステラ・ファーレンが控えている。男爵家の令嬢で、半年前から王太子の傍を離れない少女だ。
私は、一つだけ瞬きをした。
驚きはなかった。この半年で、アレクシスの視線がどこに向いているかくらいは分かっていた。
驚きがないことに、少しだけ驚いた。
「……理由を伺ってもよろしいですか」
「君は公爵令嬢だ。地位も教養もある。だが——ステラのような温かさが、君にはない」
温かさ。
私は、その言葉を頭の中で転がした。
温かさ——か。
十二歳で婚約が結ばれたとき、父は一つだけ条件を出した。
『リゼロッテは王太子殿下のお傍で、魔力の供給役を務めます。ブランシュ家の魔力は王家の結界維持に不可欠ですから、これは婚約関係の一部としてお考えください』
国土を守る大結界。その維持には膨大な魔力が必要で、代々の王妃が供給源を担ってきた。だが百年前に王家の魔力血統が細り、いまや外部からの供給がなければ結界は力を失う。
ブランシュ公爵家は、王国でもっとも魔力の濃い血統を持つ。
だから私は選ばれた。
温かさで、ではない。魔力で、だ。
アレクシスの傍にいるだけで、私の魔力は常に吸い上げられていた。それがどれだけ体に負担をかけるか、彼に説明したことはない。説明しても意味がないと分かっていたからだ。彼は私の魔力を「王家が当然に受け取るもの」だと思っている。水が上から下に流れるように、ブランシュの魔力は王家に注がれるのだと。
「——承知しました」
私は静かに言った。
アレクシスの目が一瞬だけ揺れた。食い下がると思っていたのだろう。泣くか、怒るか、せめて取り乱すか。そのどれかを期待していた顔だった。
「あっさりしているな」
「殿下がお決めになったことですから」
「……そうか。ならば、来月からの魔力供給についてだが——」
「お断りいたします」
回廊に、沈黙が落ちた。
自分でも驚くほど落ち着いていた。この瞬間を何度も頭の中で練習していたわけではない。だが体が勝手に答えを知っていた。切られた。だから切り返す。それだけのことだ。
「……何を言っている?」
「魔力の供給は、婚約関係に付随する義務として行っておりました。婚約が消滅した以上、義務もまた消滅いたします」
「待て。それとこれとは——」
「同じことです」
私はまっすぐにアレクシスの目を見た。
「私は婚約者として殿下のお傍に侍り、魔力を差し出しておりました。ブランシュ家が王家へ魔力を無償で注ぐ根拠は、婚姻の見込みです。その見込みがなくなったのですから、供給の根拠もありません」
ステラが不安そうにアレクシスの袖を引いた。だがアレクシスの視線は私に固定されている。
「……リゼロッテ。結界がどうなるか分かっているのか」
「存じております」
「国土の大結界が——」
「はい。ですから、殿下のほうでご対応ください」
私は一歩下がり、完璧な礼をした。
「五年間、お世話になりました」
そして、振り返らずに歩き出した。
背中にアレクシスの声が届いた。
「——待て、リゼロッテ!」
足を止めなかった。止める理由がなかった。
靴音だけが回廊に響く。一歩、また一歩。五年分の距離を、私は静かに巻き戻していった。
振り返っていたら、アレクシスの顔が見えたはずだ。
おそらく彼は——怒っていただろう。
まさか、ではなく、なぜ従わないのか、という顔。
水が止まるとはどういうことか、まだ計算できていない顔。
結界の維持魔力が日にどれだけ必要で、ブランシュ以外のどの家にそれが出せるのか、考えたこともない顔。
私は知っていた。答えは簡単だ。
出せる家は、ない。
*
自室に戻ると、侍女のマリアが顔色を変えた。
「リゼロッテ様——お顔が……」
「大丈夫よ。疲れただけ」
嘘ではなかった。五年間の魔力供給は、私の体に蓄積していた。アレクシスの傍にいるだけで、四六時中魔力が吸い上げられていく。朝起きたときには体が鉛のように重く、目眩がして、それでも笑顔を作って王宮に通い続けた。婚約者として——資源供給源として。
マリアが黙って温かい茶を淹れてくれた。カップを両手で包みながら、私は窓の外を見た。
王城の尖塔が、月光に白く光っている。
あの城の中で、毎日毎日、魔力を吸い取られ続けた。朝も昼も夜も、アレクシスと同じ空間にいるだけで力が抜けていく。終わりのない儀式のようだった。指先の感覚が薄れていくのを、私はいつも隠していた。
なぜそこまでしたのか。
愛していたから——ではない。
婚約者だったから。義務だったから。そして、義務を果たしていれば、いつか本当に必要とされると、どこかで思っていたから。
馬鹿なことだ、と今は思う。
アレクシスが必要としていたのは最初から魔力だけだ。リゼロッテという人間ではなく、ブランシュの血統が生む魔力。それが枯渇しない限り、彼は私に感謝する必要すらなかった。
感謝がないのは当然だ。蛇口をひねって水が出ることに、誰が感謝する?
だが、蛇口は閉じた。
「マリア」
「はい」
「明日、お父様に会いに行くわ。それと——荷造りを始めて」
マリアは何も聞き返さなかった。聡い娘だった。
「かしこまりました」
私はカップを置いた。
五年分の疲労が、ゆっくりと体から剥がれていくような感覚があった。重かったのだ、とようやく気づいた。毎日毎日、魔力を削られることが。それを当然だと思い込もうとすることが。
もう、あの城へは行かない。
蛇口は閉じた。水は止まった。
あとは——向こうが気づくのを待つだけだ。
*
同じ夜。
アレクシスは、自室で書類に目を通していた。
婚約破棄の手続き書類。ステラとの新たな縁組の草案。政務官が用意した段取りは完璧で、明日の朝には宰相へ提出できる。
すべて順調だった。
「殿下、お茶をどうぞ」
ステラが微笑みながら茶器を差し出す。アレクシスは受け取り、一口飲んだ。穏やかな味がした。リゼロッテの淹れる茶はいつも苦かった——いや、苦かったのではなく、何の味もしなかった。あの女は、茶の温度にすら感情を込めない。
「殿下。リゼロッテ様は、お怒りでしたか?」
「いいや。驚くほどあっさりしていた」
「そう、ですか……」
「むしろ好都合だ。面倒が少ない」
アレクシスは書類に署名した。
魔力供給の件は、少し気になった。だが、それはあくまで手続きの問題だ。ブランシュ家との交渉は宰相に任せればいい。婚約がなくなっても、公爵家が国に協力しないわけがない。大結界の維持は国家事業だ。個人の感情で左右されるものではない。
アレクシスは窓の外に目をやった。
月が白い。明日は晴れるだろう。新しい婚約の発表には良い日だ。
「ステラ。明日は忙しくなる。早めに休むといい」
「はい、殿下」
ステラが退室したあと、アレクシスは机に頬杖をついた。
リゼロッテの最後の言葉が、わずかに引っかかっていた。
『殿下のほうでご対応ください』
対応。何の対応だ。
ブランシュ家が大結界への魔力供給を拒否する? 公爵家が? 国の柱である結界を?
ありえない。
あの女の虚勢だ、とアレクシスは結論づけた。
切られた腹いせに、大きなことを言っただけだ。来月になれば、父親に説得されて、おとなしく戻ってくるだろう。ブランシュ公爵は忠臣だ。娘の我儘で国家に穴を開けたりはしない。
そう判断して、アレクシスはペンを置いた。
灯りを落として寝台に向かう。
——あと四週間で大結界の魔力残量が危険域に入ることを、彼はまだ知らない。
ブランシュ公爵が娘の判断を全面的に支持することを、彼はまだ知らない。
来月の供給予定日に、王城に誰も現れないことを、彼はまだ知らない。
水が止まったあと、蛇口の向こう側で何が起きるか。
それを考える能力が、アレクシスにはなかった。
考える必要があると思ったことすら、一度もなかった。
第1話をお読みいただきありがとうございます!
蛇口を閉じたリゼロッテと、まだ何も気づいていないアレクシス。
ここから、静かな崩壊が始まります。
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