表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『距離を誤ってキスしてしまったので、無口な公爵様と気まずいまま過ごしています』  作者: 百花繚乱


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/3

その呼び方は、違う

呼び名は、ただの言葉じゃない。距離そのものです。

呼び名は、距離だ。


 そう気づいたのは、あの日より少し後のことだった。


 名前で呼ばれると、私は軽くなる。

 呼ばれないと、私は重くなる。


 どちらが正しいかは分からない。

 ただ、どちらも“私”だ。


 そして、その違いを――

 無口な公爵様は、もう見逃さなくなっていた。


 *


 午前、聖堂から使いが来た。


 灰色の衣をまとった修道士は、礼儀正しく頭を下げ、

 廊下の中央に立つ私を、じっと観察するように見つめた。


 視線に、測る意図が混じっている。


 「……あなた」


 その一語が落ちた瞬間、空気が沈んだ。


 ――呼ばれない。


 胸の奥が、ずしりと重くなる。

 輪郭がはっきりし、足元の石畳の感触まで鮮明になる。


 修道士は、気づいていない。

 自分が何を起こしたのかを。


 「契約終了後の経過観察として、いくつか確認を」


 彼は淡々と続ける。

 “あなた”という呼び方のまま。


 重い。

 世界が、私を固定しようとしている。


 私は息を整えた。

 消えない。薄れない。

 でも、このままでは――私が私でいられなくなる。


 その時だった。


 足音が、廊下の奥で止まった。


 公爵様だと、分かった。

 気配だけで分かるようになってしまった自分が、少し怖い。


 修道士は振り返り、慌てて姿勢を正した。


 「殿下」


 公爵様は短く頷き、私の方を一瞥した。


 一瞬。

 ほんの一瞬だけ。


 それでも、見た。


 私が“重く”なっているのを。


 公爵様の眉が、わずかに寄った。


 「……彼女」


 その呼び方が、落ちた。


 たったそれだけ。

 名前でも、合図でもない。


 なのに。


 空気が、変わった。


 重さが抜ける。

 輪郭がほどける。

 世界が、私を“包む”形に変わる。


 息が、しやすい。


 修道士が、小さく息を呑んだ。


 彼も気づいたのだ。

 呼び方が、違うことに。


 公爵様は、それ以上何も言わなかった。

 ただ、修道士に向かって言う。


 「……要件だけ、簡潔に」


 修道士は咳払いをし、視線を私から外した。


 「契約者――いえ、こちらの方の状態を、記録院で共有したいと」


 “こちらの方”。


 距離の遠い呼び方。

 安全で、冷たい。


 再び、空気が沈みかける。


 その瞬間、公爵様の声が重なった。


 「その呼び方は、違う」


 低く、短い一言。


 廊下が、静まり返った。


 修道士が目を見開く。

 私も、息を止めた。


 公爵様は、正しい呼び名を提示しなかった。

 名前も、役割も、立場も言わない。


 ただ、「違う」とだけ言った。


 それは、拒絶だった。

 同時に、守りでもあった。


 修道士は一瞬沈黙し、やがて慎重に言い直す。


 「……失礼しました。では、その……」


 言葉に詰まる。


 名前を知らない。

 呼び方を、決められない。


 その迷いが、空気を揺らす。


 私は感じていた。

 呼び名が定まらないことで、私は不安定になる。

 軽くも重くもなりきれない、宙づりの状態。


 公爵様の指が、わずかに動いた。


 触れない。

 触れないが、止めたい。


 公爵様は一歩、私の前に出た。


 「……彼女でいい」


 その言葉は、命令ではなかった。

 妥協でもなかった。


 今、選べる限界の距離だった。


 “彼女”。


 それは、近すぎず、遠すぎない。

 個人として扱いながら、名を縛らない呼び方。


 空気が、安定した。


 修道士はそれ以上踏み込まなかった。

 踏み込めなかった。


 「……承知しました」


 そう言って、深く一礼し、去っていった。


 *


 廊下には、私と公爵様だけが残った。


 気まずい沈黙。


 けれど、さっきまでとは質が違う。


 私は、勇気を出して聞いた。


 「……どうして、止めたんですか」


 公爵様は答えなかった。

 少しだけ視線を逸らし、息を整えてから、言う。


 「……あの呼び方だと、お前は“固定される”」


 核心を突く言葉だった。


 「固定……?」


 公爵様は頷く。


 「……重くなる。動けなくなる」


 私の胸が、ひやりとした。


 「じゃあ、さっきの“彼女”は……」


 公爵様は、しばらく黙っていた。

 無口な人が、言葉を選んでいる時間。


 「……軽すぎるのも、危ない」


 その一言で、全部分かった。


 軽くなりすぎると、私は“どこかへ行ってしまう”。

 重くなりすぎると、私は“ここに縛られる”。


 その中間。


 公爵様は、私をその場所に置こうとしている。


 「だから、呼べない」


 昨日と同じ言葉。

 でも、今日は意味が違って聞こえた。


 「……呼ぶと、決めてしまう」


 何を?

 関係を。

 距離を。

 未来を。


 私は喉が熱くなった。


 「……それでも」


 言葉が震える。


 「それでも、さっきは呼びましたよね」


 “彼女”と。


 公爵様の肩が、ほんの少しだけ揺れた。


 「……あれ以上は、耐えられなかった」


 耐えられなかった。


 それは、感情の告白に近い。


 私の胸が、強く脈打つ。


 「……ありがとうございます」


 何に対しての感謝か、自分でも分からない。


 公爵様は、視線を上げずに言った。


 「……礼は要らない」


 そして、ほんの少しだけ距離を取る。


 触れない。

 でも、離れすぎない。


 あの日から続く、この距離。


 「……今日は、もう下がれ」


 命令の形をしている。

 でも、追い払う声じゃない。


 私は一礼して、歩き出した。


 数歩進んだところで、足が止まる。


 振り返りたい。

 でも、振り返らない。


 その代わり、言った。


 「……公爵様」


 呼び名ではない。

 でも、呼びかけ。


 公爵様が、ほんの少しだけ顔を上げた。


 「……その呼び方」


 私の声は、静かだった。


 「私は、嫌いじゃありません」


 言い切った。


 それ以上、何も言わない。

 期待もしない。


 公爵様は答えなかった。

 答えられなかったのだと思う。


 でも。


 私が去った後も、

 しばらくその場に立ち尽くしていたことを――

 私は、振り返らなくても分かっていた。


 呼び名は、距離だ。


 そして今、

 私たちは、戻れない場所まで来てしまった。


 それを否定しないでいられるほど、

 もう、互いに無関係じゃなかった。

「その呼び方は違う」――ここが、すべての分岐点でした。

感想やブクマで教えてもらえると、とても励みになります。次話、触れない選択が“揺らぎ”ます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「その呼び方は、違う」 この話は、物語の核心です。 名前でも、役割でもない「呼び方」が、 人を縛り、固定し、あるいは自由にしてしまう。 公爵様が「違う」と言った理由。 それは支配でも独占でもなく…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ