その呼び方は、違う
呼び名は、ただの言葉じゃない。距離そのものです。
呼び名は、距離だ。
そう気づいたのは、あの日より少し後のことだった。
名前で呼ばれると、私は軽くなる。
呼ばれないと、私は重くなる。
どちらが正しいかは分からない。
ただ、どちらも“私”だ。
そして、その違いを――
無口な公爵様は、もう見逃さなくなっていた。
*
午前、聖堂から使いが来た。
灰色の衣をまとった修道士は、礼儀正しく頭を下げ、
廊下の中央に立つ私を、じっと観察するように見つめた。
視線に、測る意図が混じっている。
「……あなた」
その一語が落ちた瞬間、空気が沈んだ。
――呼ばれない。
胸の奥が、ずしりと重くなる。
輪郭がはっきりし、足元の石畳の感触まで鮮明になる。
修道士は、気づいていない。
自分が何を起こしたのかを。
「契約終了後の経過観察として、いくつか確認を」
彼は淡々と続ける。
“あなた”という呼び方のまま。
重い。
世界が、私を固定しようとしている。
私は息を整えた。
消えない。薄れない。
でも、このままでは――私が私でいられなくなる。
その時だった。
足音が、廊下の奥で止まった。
公爵様だと、分かった。
気配だけで分かるようになってしまった自分が、少し怖い。
修道士は振り返り、慌てて姿勢を正した。
「殿下」
公爵様は短く頷き、私の方を一瞥した。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
それでも、見た。
私が“重く”なっているのを。
公爵様の眉が、わずかに寄った。
「……彼女」
その呼び方が、落ちた。
たったそれだけ。
名前でも、合図でもない。
なのに。
空気が、変わった。
重さが抜ける。
輪郭がほどける。
世界が、私を“包む”形に変わる。
息が、しやすい。
修道士が、小さく息を呑んだ。
彼も気づいたのだ。
呼び方が、違うことに。
公爵様は、それ以上何も言わなかった。
ただ、修道士に向かって言う。
「……要件だけ、簡潔に」
修道士は咳払いをし、視線を私から外した。
「契約者――いえ、こちらの方の状態を、記録院で共有したいと」
“こちらの方”。
距離の遠い呼び方。
安全で、冷たい。
再び、空気が沈みかける。
その瞬間、公爵様の声が重なった。
「その呼び方は、違う」
低く、短い一言。
廊下が、静まり返った。
修道士が目を見開く。
私も、息を止めた。
公爵様は、正しい呼び名を提示しなかった。
名前も、役割も、立場も言わない。
ただ、「違う」とだけ言った。
それは、拒絶だった。
同時に、守りでもあった。
修道士は一瞬沈黙し、やがて慎重に言い直す。
「……失礼しました。では、その……」
言葉に詰まる。
名前を知らない。
呼び方を、決められない。
その迷いが、空気を揺らす。
私は感じていた。
呼び名が定まらないことで、私は不安定になる。
軽くも重くもなりきれない、宙づりの状態。
公爵様の指が、わずかに動いた。
触れない。
触れないが、止めたい。
公爵様は一歩、私の前に出た。
「……彼女でいい」
その言葉は、命令ではなかった。
妥協でもなかった。
今、選べる限界の距離だった。
“彼女”。
それは、近すぎず、遠すぎない。
個人として扱いながら、名を縛らない呼び方。
空気が、安定した。
修道士はそれ以上踏み込まなかった。
踏み込めなかった。
「……承知しました」
そう言って、深く一礼し、去っていった。
*
廊下には、私と公爵様だけが残った。
気まずい沈黙。
けれど、さっきまでとは質が違う。
私は、勇気を出して聞いた。
「……どうして、止めたんですか」
公爵様は答えなかった。
少しだけ視線を逸らし、息を整えてから、言う。
「……あの呼び方だと、お前は“固定される”」
核心を突く言葉だった。
「固定……?」
公爵様は頷く。
「……重くなる。動けなくなる」
私の胸が、ひやりとした。
「じゃあ、さっきの“彼女”は……」
公爵様は、しばらく黙っていた。
無口な人が、言葉を選んでいる時間。
「……軽すぎるのも、危ない」
その一言で、全部分かった。
軽くなりすぎると、私は“どこかへ行ってしまう”。
重くなりすぎると、私は“ここに縛られる”。
その中間。
公爵様は、私をその場所に置こうとしている。
「だから、呼べない」
昨日と同じ言葉。
でも、今日は意味が違って聞こえた。
「……呼ぶと、決めてしまう」
何を?
関係を。
距離を。
未来を。
私は喉が熱くなった。
「……それでも」
言葉が震える。
「それでも、さっきは呼びましたよね」
“彼女”と。
公爵様の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「……あれ以上は、耐えられなかった」
耐えられなかった。
それは、感情の告白に近い。
私の胸が、強く脈打つ。
「……ありがとうございます」
何に対しての感謝か、自分でも分からない。
公爵様は、視線を上げずに言った。
「……礼は要らない」
そして、ほんの少しだけ距離を取る。
触れない。
でも、離れすぎない。
あの日から続く、この距離。
「……今日は、もう下がれ」
命令の形をしている。
でも、追い払う声じゃない。
私は一礼して、歩き出した。
数歩進んだところで、足が止まる。
振り返りたい。
でも、振り返らない。
その代わり、言った。
「……公爵様」
呼び名ではない。
でも、呼びかけ。
公爵様が、ほんの少しだけ顔を上げた。
「……その呼び方」
私の声は、静かだった。
「私は、嫌いじゃありません」
言い切った。
それ以上、何も言わない。
期待もしない。
公爵様は答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
でも。
私が去った後も、
しばらくその場に立ち尽くしていたことを――
私は、振り返らなくても分かっていた。
呼び名は、距離だ。
そして今、
私たちは、戻れない場所まで来てしまった。
それを否定しないでいられるほど、
もう、互いに無関係じゃなかった。
「その呼び方は違う」――ここが、すべての分岐点でした。
感想やブクマで教えてもらえると、とても励みになります。次話、触れない選択が“揺らぎ”ます。




