距離を誤ってしまった朝
距離を誤っただけ。たったそれだけのはずでした。
第3巻、始まります。
最初に触れたのは、唇じゃなかった。
彼の息だった。
近すぎた、と気づいた時には、もう遅かった。
石畳に落ちた水桶を避けようとして、無口な公爵様が反射的に私の腕を引いた。
強くも乱暴でもない。ただ、迷いのない動きだった。
体が前に流れる。
足元が滑り、視界が傾き――次の瞬間、世界が静かになった。
確かな感触は、ほとんど残らなかった。
触れたのかどうか、確かめるよりも早く、離れてしまったから。
ただ、温度だけがあった。
――距離を、誤った。
そう理解するより先に、公爵様が息を止めたのが分かった。
息を吸うことすら忘れたみたいに、ほんの一瞬、身体が固まっていた。
呼ばれていない。
合図も、鈴も、灯りもない。
それなのに、私は消えていなかった。
むしろ、胸の奥が、やけに重い。
空気が、私の輪郭を確かめるように、まとわりつく。
「……すまない」
謝罪にしては遅く、弁解にしては短すぎる言葉だった。
公爵様は私を見なかった。
視線を落としたまま、まるで石畳の模様を数えているみたいに、動かない。
見てしまえば、何かが決まってしまう。
そんな気配が、沈黙の中にあった。
私は一歩、下がった。
いつもなら、すぐに口にするはずの言葉が、喉に引っかかる。
「……距離を、誤りましたね」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
公爵様は、否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ一瞬、迷うように息を吸ってから――
今まで一度も使ったことのない呼び方で、私を呼んだ。
その呼び方は、名前ではなかった。
けれど、今までのどんな合図よりも、はっきりと私を捉えていた。
それが、
無口な公爵様と、気まずいまま過ごす日々の始まりだった。
*
その日から、公爵様は私を呼ばなくなった。
呼び名が落ちてこない朝は、思ったよりも静かだった。
鈴は鳴らず、灯りも点かない。
それでも私は、朝の支度をして、部屋を出る。
消えない。薄れない。
代わりに、存在が「重く」なる。
廊下を歩くと、空気がわずかに歪む。
私の足音が、いつもよりはっきりと返ってくる。
――呼ばれないのに。
それは、安心ではなかった。
むしろ、確かめられている感覚に近い。
朝食の席で、公爵様は一度もこちらを見なかった。
必要な指示は、すべて侍従を通して出される。
丁寧だ。
丁寧すぎるほどに。
その丁寧さが、距離を作る。
私はパンを一口かじりながら、唇に触れないよう意識していた。
無意識に触れてしまいそうになる自分が、少し怖かった。
「……おはようございます」
言ってから、遅かったかもしれないと思った。
公爵様は、ほんのわずかに顔を上げて、頷いた。
それだけ。
呼ばれない。
でも、無視されているわけでもない。
この距離が、いちばん扱いに困る。
*
昼過ぎ、庭で侍女のマーレに声をかけられた。
「……最近、お二人、少し静かですね」
探るようでも、責めるようでもない。
ただの観察。
私は曖昧に笑った。
「距離を……少し、誤っただけです」
マーレは一瞬だけ目を瞬かせ、それ以上は聞かなかった。
聞かない優しさは、ときどき胸に刺さる。
庭の奥で、庭師の少年が私に気づいて、頭を下げた。
「こんにちは、えっと……」
少年は言葉に詰まった。
私の名前を知らない。呼び方を迷っている。
その一拍で、空気が沈んだ。
私は息を止める。
――呼ばれない。
それでも、私は消えない。
むしろ、重くなる。
草が揺れ、土の匂いが濃くなる。
世界が、私を押し留める。
少年は慌てて言い直した。
「す、すみません……あなた、あの……」
呼び直し。
名前ではない言葉。
その瞬間、私の輪郭が、さらにくっきりした。
私は微笑んで、助け舟を出す。
「リラでいいよ」
少年がその名を口にした途端、
空気がふっと軽くなった。
――今の、何?
胸の奥がざわつく。
呼ばれない時間が、私を強くする?
そんな理屈、聞いたことがない。
私は自分の手を見た。
ちゃんと、ここにある。
*
夕方、廊下で公爵様とすれ違った。
距離は、三歩分。
それ以上近づかない。
公爵様は歩幅を少し変え、私の横を通り過ぎる。
呼び名は、落ちてこない。
でも、その時だった。
庭師の少年が、私に向かって声をかけた。
「リラ!」
その一語で、空気が揺れた。
ほんの、ほんのわずか。
けれど確かに、世界が反応した。
公爵様が、立ち止まった。
見てしまった。
私の輪郭が、呼び名で変わる瞬間を。
公爵様の視線が、私の唇に一瞬だけ落ちて、すぐに逸れる。
その速さが、余計に胸を熱くした。
何か言いかけて、やめる。
呼び名ではなく、ただの事実として。
「……冷える。上着を」
それだけ。
私は頷いた。
頷くしかなかった。
呼ばれない。
でも、見られている。
それが、今の距離だった。
*
夜。
部屋の灯りは、いつもより弱い。
鈴は鳴らない。
呼び名も落ちてこない。
それでも私は、消えない。
ベッドに腰を下ろし、息を整える。
唇に触れないよう、気をつけながら。
距離を誤ったのは、一瞬だった。
でも、その一瞬は、なかったことにはならない。
扉の向こうで、足音が止まる。
公爵様だと、分かってしまった。
一拍。
二拍。
ノックはない。
呼び名もない。
やがて、足音は遠ざかっていった。
呼ばれないまま。
それなのに、胸の奥だけが、呼ばれたみたいに疼く。
私は目を閉じた。
――明日も、気まずいままだ。
そう思いながら、
消えない自分の存在を、静かに抱えた。
呼ばれないのに消えない。その違和感が、少しずつ世界を動かし始めます。
次話、「気まずい、という距離」。




