二度火入れ醤油と問屋のブランド戦略
共同事業の始動と品質管理
問屋「三川屋」の娘、佐和との提携が成立したことで、練太郎の「二度火入れ醤油」は本格的な流通に乗ることになった。練太郎は、三川屋の裏手に与えられた製造所を、彼独自の**「清潔」の基準**で徹底的に管理した。
「作業台の拭き取りは三度。火入れ鍋は使用前に熱湯殺菌。この瓶詰め作業では、埃一つ許さない!」
練太郎の異様なまでの潔癖症は、職人たちには理解不能な「武家のお坊ちゃんの奇癖」と見なされたが、佐和が提示する**「品質安定による利益増」**という明確な数字の前では、誰も文句を言えなかった。
佐和は、練太郎の醤油を**「神崎式 清浄醤油」**として、他の醤油よりも高い価格で市場に投入した。佐和の戦略は明確だった。
「神崎様の醤油は、味が良いだけではありません。『日持ちする』。これは、在庫管理が容易になり、客の『腐敗による損失』を減らせます。この**『安定した品質』**こそが、最高のブランド価値なのです」
案の定、「神崎式 清浄醤油」は評判を呼び、特に品質にこだわる料理屋や富裕層の奥方たちから、飛ぶように売れていった。
利益の最大化と新たな焦燥
数か月後、練太郎と佐和は、莫大な利益を前に三川屋の帳場で向き合っていた。
「神崎様。前月の売上は、通常の醤油の三倍。利益率は二割増です。あなたの技術は、すでに一つの経済圏を築きつつあります」
佐和は、数字の羅列を見ながらも、満足げに微笑んだ。練太郎の知識は、佐和の優秀な算術によって、最も効率的な資本へと変換されていた。
しかし、練太郎の表情は晴れない。
「佐和殿、利益は出ていますが、効率が悪すぎる」
練太郎は自身の黒く汚れた手を苛立たしげに見つめた。醤油の製造工程で、油汚れや埃がどうしても付着する。当時の**灰汁**では、この手の汚れは満足に落ちない。
「この汚れは、やがて製造工程に持ち込まれ、品質を再び不安定にしかねない。そして何より、この不潔さは、この街全体に満ちている。この手の汚れ一つ落とせないまま、本当に公衆衛生を革命できるのか!」
練太郎にとって、醤油の成功はあくまで手段であり、**「不潔の根絶」**という目的には全く近づいていなかった。
石鹸製造への化学的飛躍
練太郎は、次の投資先として、醤油で得た全ての資本を、石鹸製造に充てることを佐和に提案した。
「この油汚れを落とし、人々の清潔を担保する製品。それは、油と灰を化学反応させた石鹸しかない。当時の洗い油は高価で非効率的だ。俺の知識で、アルカリ濃度を正確に管理し、安価で効率的な石鹸を作る!」
佐和は驚いたが、すぐに練太郎の理屈が、**「病気による労働力損失の削減」**という巨大な経済効果を生むことに気づいた。
「石鹸は、この時代の富裕層の贅沢品。ですが、神崎様の技術で安価で安定した品質になれば、その需要は計り知れません。これは社会的な利益、つまり間接的な資本になります!」
佐和は即座に、石鹸製造に必要な古油と木灰の調達を請け負った。
「神崎様。あなたの**『科学』が次の扉を開いた。私は、その扉の先に『利益』の道を作ります。さあ、次は油と灰の化学反応**を、この江戸に起こしましょう」
練太郎は、愛する佐和という最高の理解者を得て、いよいよ**「清潔市場」**という未知の領域へと足を踏み出すのだった。




