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線香花火のような恋をした

作者: 九重ツクモ


 頬に受ける風が生ぬるい。

 風が孕む熱に、夏の訪れを感じる。

 開け放たれた窓には、容赦ない陽射しが差し込んでいる。

 教室の一番後ろ。その窓際に座る私は、バーベキューのウインナーよろしく二の腕がじりじりと焼かれるのを、ひたすら我慢していた。

 二の腕をさすりながら、黒板の前を行ったり来たりしている教師をぼおっと眺める。

 毎時間日焼け止めを塗ってはいるけれど、こうも毎日陽射しを浴びていれば、どうしたって日焼けは免れない。

 

(だから窓際の席は嫌なんだよなあ)


 五時限目。古文。

 古文の田中の声はただでさえ眠くなるのに、五時限目なんてだるすぎる。

 はあと小さく息を吐く。この退屈も、一緒に外に吐き出せればいいのに。

 明るい茶髪の毛先をくるくると指に巻きつけながら、気怠い午後の空気に、あくびを噛み殺した。

 ふと、爪に違和感を感じる。一か月以上前にやったきりのジェルネイルに、髪が引っかかったのだ。

 そろそろ替え時なのは分かっているけれど、今月はDioourのファンデと下地を買い替えたから、あまりお金がない。

 来週入る予定のバイト代を頭の中で計算して、寂しい懐事情に、また鬱々とした気分になった。

 はあともう一度大きく息を吐き出してから、右斜め前の背中に目をやる。

 隣の列の二つ前にある、薄くも厚くもない、ごくありふれた男子高校生の背中。

 竜崎りゅうざきは、今日も背中を丸めて、何やら本を読んでいた。

 

(今日も本読んでる。ほんと器用だな)


 お経のような田中のダミ声など一切聴こえていないように、ただひたすら本に集中している。

 それでいて、田中が板書をやめこちらに振り返れば、瞬時に栞を挟んで本を閉じる。

 とんだ早業だ。

 

(なんなのあれ。頭のてっぺんに目でもあんの?)


 ふっと小さく笑って、私は今日も竜崎の後頭部を眺める。

 いつもほんの少しはねている襟足が、愛しくして仕方がない。

 竜崎達弥(りゅうざきたつや)。それが彼の名前だ。

 竜で「たつ」なんて、両親は洒落好きなのか、何も考えていないのか。

 そんな名前すらも、可愛いと感じてしまう。

 私は気付けばいつも、竜崎を視線で追っている。

 見惚れてしまうほどのイケメン……という訳ではない。むしろ、かなり地味で冴えないと思う。

 不細工な訳ではないし、オタクとも違う気がする。

 ただ、とにかく影が薄い。

 中途半端な短髪で、高くも低くもない身長。

 さして強くもない剣道部に所属していて、熱心に練習はしているようだけれど、何かの大会で勝っただとか、そんな話はとんと聞いたことがない。

 交友関係も広いとは言えず、たまに二組の津田と廊下で話をしているのを見かけるくらいだ。

 なんの面白みも特徴もない、まるで背景みたいな男。

 女子からは一切興味を持たれていないだろう。

 きっと、あいつを見てるのは、私だけだ。

 

(栞が外れて慌ててる。ウケんだけど)


 人知れずくすくす笑う。

 窓際は嫌だけれど、席替えでこの席になって本当に良かった。

 思う存分、竜崎を見つめていられるから。

 


「見てほらさっきのTikTakめっちゃ映えてね? 『いいね』めちゃ来るんだけど」

「ま? つか実紗(みさ)のフォロワーやば」

「インフルエンサーじゃん! 花鈴(かりん)のアカ見てよ、フォロワー二桁しかいないんだけど」

「花鈴は投稿してるからいいよ。私なんて投稿0だよ」

「ほんと梨那(りな)って潔癖だよねー。アカウント作ったのだって、うちらがタグ付けするためだけだもんね」


 友人の実紗と花鈴と一緒に、制服のまま駅前のカフェでだべる。

 各々がスマホをいじりながら、話のネタはもっぱら、毎日のように教室で撮っては投稿しているショート動画のことばかりだ。

 このだらりとした無意味な時間は、ただただ楽しい。

 二人とは高校からの仲だけれど、高一の時にクラスが一緒になってから、クラスが分かれた今も仲が良い。

 実紗も花鈴も彼氏持ちだが、週に二日はこうやってたわいもない話をして過ごしている。

 私はもう三か月彼氏がいないし、部活もしていないから、二人と過ごす以外はバイトに明け暮れる毎日だ。

 

 私はいわゆるギャルだとか言われる女子だと思う。

 そう言われるのは好きじゃない。なんかダサいから。自分で言うなんてもってのほか。

 でもまあ、事実としてはそうなんだろう。

 中学から彼氏もほとんど途切れたことがなく、今まさにフリー期間記録を更新し続けている。

 何人か声をかけてくる男はいるけれど、今のところは彼氏を作る気はない。

 正確には、彼氏になってほしい人はいるんだけど。


「私そろそろ帰るわ」

「えー梨那帰っちゃうの? 花鈴さみしい!」

「その妙なぶりっ子さむいんだけど!」

「なに? バイト?」


 胸の前で両手をぎゅっと結んでいる花鈴の顔を、実紗が手のひらで押しやって聞いてくる。

 内心ぎくりとしたのを、私は無理やり笑顔を作って隠した。


「そうだよー」

「ていうか梨那なんのバイトしてんの? 全然教えてくんないじゃん」

「いやだって教えたらさ、あんたら店に来そうでやだもん」

「ダメなの? カフェなんでしょ?」

「そうだけど、知り合いが来るのなんか恥ずい」


 私は動揺がバレないよう、必死に笑顔をキープする。

 実紗はそんな私の真意を見定めるように、じっと見つめてくる。

 実紗は勘がいい。まるで全てを見透かされそうで、背中に冷たい汗が流れた。


「……変なことしてんじゃないよね? パパ活とか」

「まさか‼︎ してないしてない! そんな危ないことしないって!」


 私はギャルではあるだろうが、健全なギャルなのだ。

 そんなことは、しようと思ったこともない。


「でもちょっと分かるよー。花鈴も二人が来たらなんかいやぁー」

「それはあんたが彼氏といちゃつきたいからっしょ!」

「せーかーい! てか聞いてよ! ピがこの前さあ!」


 花鈴のおかげで話が流れ、内心ほっとする。

 案外、花鈴はそういうところがある。

 相手の深くまで踏み込まない、ヤバいと思ったら上手く引き返す。

 花鈴のフォローに感謝しつつ、どさくさに紛れて、私は二人に別れを告げた。

 気付けば、バイトの時間までもう四十分もない。

 遅刻ぎりぎりだ。

 私は全力で駅まで駆けると、コンコースの人混みをするする抜けて、ちょうどやってきた電車に滑り込んだ。

 はあはあと肩で息をしながら、電車の扉に寄りかかる。

 今すぐ座りたいところだけれど、生憎この時間帯はかなり混んでいる。

 床に座り込むような下品なギャルではないため、仕方なくこのまま寄りかかり続けるしかない。

 でも、なんとかバイトには間に合いそうだ。

 目的地まで、あと十二駅。

 家と学校は徒歩圏内なのに、わざわざこの距離のバイト先を選んだことを、毎回行きだけ後悔している。

 けれど、仕方ない。

 ばったり知り合いに会うなんて、死んでも嫌だから。

 

(でも……竜崎は別だけど)

 

 ふとそう考えて、顔に血が集まるのを感じる。

 赤い顔が人から見えないよう、慌てて窓の外に顔を向けた。



「お疲れ岸谷(きしや)さん。今日はもうあがっていいよ」

 

 店長に声をかけられ、私はほうと息を吐いた。

 白髪混じりの巨漢で、見た目は五十路かと思うほどに老けている店長。

 けれど、案外まだ四十を少し出たところらしい。

 何にせよ、おぢには違いないだろうが、妙に口調や態度が若造りなのが玉に瑕だ。

 ……体のフォルムがまさしく玉のようなので、言い得て妙である。

 

「なんか今日は暇だったね〜。まあいつも暇だけど。岸谷さん走ってきたのに悪かったね」

「いえ別に。お給料さえちゃんと貰えればOKっす」

「はぁーーちゃっかりしてるねぇ梨那ちゃん」

「名前呼びキモい。それセクハラだから」

 

「世知辛ぇなぁー」と嘆く店長を横目に、私は擦り切れた紺色のエプロンを外した。

 そしてレジの後ろに取っておいた、今日の戦利品をどんどんレジに積んでいく。

 

「店長、今日も本買っていい?」

「ってもう積んでるじゃない! でもまあいいよー。お買い上げありがとうございまぁす。あ、麻根重次あさねじゅうじの新刊じゃん。今日発売の! 僕も後で買お」


 ピッピッとリズミカルな音を立てながら、店長が次々と本をレジに通していく。

 バーコードを読み取ったものから順次、私は本にカバーをかける。見事な流れ作業だ。

 本屋のバイトを始めて一月。かなり様になって来たと思う。

 個人経営ではないけれど、同じ地域に店舗が三つしかないような小さな本屋。

 当然、私の住んでいる町には存在しない。そんな店だ。

 ここなら、クラスメイトに出会う心配もない。

 私は昔から本が好きだ。

 毎日何かしら読まないと気が済まないくらい。

 だから私の部屋の本棚はもう底が抜けそうで、リビングや親の部屋にも進出させている。

 給料がほぼ最低賃金しかないこのバイト先を選んだのも、社割で安く本が買えるからだ。

 それだけ本が好きでも、絶対に学校には持っていかない。

 だって、いつも他人(ひと)の反応は同じだから。


「本当、見た目的にさあ、全く本なんて読まなそうなのに、読書家だよね岸谷さん。あと読むのめちゃくちゃ早い」

「……だよねー」


 私はすっと心が冷えていくのを感じる。

 そう、いつだって、他人はそう言う。

 

「あーごめんごめん! 嫌な意味じゃないよ? むしろいい意味!」

『岸谷さあ、やめなよそれ。似合わないって』

 

 店長の声に、別の声が重なって聞こえる。

 こんなのただの幻聴だ。早く忘れろ。

 

「……別に。慣れてるし」

「いやめっちゃ気にしてるじゃん! ごめんって!」


 金に近い茶髪、派手なメイク、短い制服のスカート。

 自分の見た目が人にどういう印象を与えているか、よく分かっている。

「本を読む」なんて普通な行為も、私みたいなのがやると、驚かれることなのだ。

 別に無理をして本を読んでいる訳でも、無理をして派手な格好をしている訳じゃない。

 オシャレをするのは好きだし、友人たちと馬鹿な話をするのも、本当に好き。

 けれど、本を読むのも同じように好き。

 ただそれだけなのに。


『岸谷さあ、やめなよそれ。似合わないって』


 そうやって嘲るように吐き捨てた、あの顔が忘れられない。

 ――あれは、中二の夏。

 当時付き合っていた彼氏との待ち合わせで、珍しく私の方が早く着いた時のことだ。

 改札前の柱に寄りかかりながら、私は文庫本を読んでいた。

 クロップド丈の黒いトップスに白のシアーシャツ、切りっぱなしのショートジーンズ。

 中学の頃から髪は染めていたし、ジェルネイルはしていなかったものの、チップは付けていた。

 今と同じ、派手な装い。

 必然、寄ってくる男も似たようなもので、当時の彼氏は、軽薄が服を着て歩いているような奴だった。

 そんな彼氏が改札を抜け、私を見つけて開口一番、言ったのだ。


『岸谷さあ、やめなよそれ。似合わないって』


 それまでも、彼の前で何度か本を出したことがあった。

 当時は積極的に開示しないまでも、本好きであることを隠してはいなかったし、隠す必要性も感じていなかったのだ。

 彼は確かに、私の趣味に何の興味も示していなかった。

 にもかかわらず、その時は何故か私から本を取り上げて、馬鹿にしたように、ひらひらとそれを顔の前で弄んだ。


『前から思ってたんだけどさ、無理してるのが痛々しいっていうか。見てるこっちが恥ずいわ』


 そう吐き捨てながら、彼はぽんと私の胸に本を放って寄越して、「着いてこい」とばかりにすたすたと歩いていった。

 私は、しばし足が動かすことができなかった。

 まるで脳天をハンマーで殴られたような衝撃だった。

 確かにこの見た目で本好きなのは、ギャップがあると自分でも理解している。

 けれど、まさか『恥ずい』と言われるほどとは、つゆとも思わなかったのだ。

 ……その後、私はどうしたんだったか。

 たぶん、適当に笑って誤魔化したんだろう。

 その後、一週間後にはそいつと別れた。

 浮気癖のあるしょうもない奴だったから、悲しくもなんともなかったけれど、あいつの放ったあの言葉が——。

 あの言葉だけが、まるで呪いのように、こびり付いて離れなくなった。

 本を手放せば良いのか。

 もっと真面目な装いにすれば良いのか。

 悩んだけれど、それはなんだか違う気がした。

 派手な格好をすることも、本が好きなことも、全て、そのままの私なのだ。

 何故、それを変えなければいけないのか。

 だからもう忘れようと何度も思った。

 けれど、その度にあの言葉が頭の中でリフレインして、私を蝕んだ。

 人前で本を読むのが怖い。

 誰かが私を嘲笑っているかもしれない。

 そんな強迫観念に囚われて、私はそれ以来、外で本を読むことをやめた。


「はいじゃあ7,860円ね。こんなにあったら重たいでしょ。大丈夫?」


 レジを打ち終わった店長が、気にした様子で私の顔色を窺ってくる。

 店長が悪い訳じゃない。当たり前のことなのだ。

 けれど、真っ直ぐに顔が見られなかった。


「へーき。慣れてるから。じゃ、お先失礼しまーす」

「うん……。また明日、よろしくね」


 いつもはウザいぐらい絡んでくるのに、今日はまるで借りてきた猫のようだ。

 でかい図体で軽口ばかり言っているけれど、案外繊細な人であることは知っている。

 些か申し訳ないと思いつつも、私は店を出て、駅までの道のりを歩いた。

 日が長くなったとはいえ、流石に夜七時を回ると日が落ちて暗くなり始める。

 さすがに本屋のバイト代だけでは小遣いが足りないが、両親が過保護だから夜のバイトは許してもらえない。

 まあ、父親にねだればある程度融通してくれるから、それでどうにかなっている。

 流石に一度に買いすぎたかもしれない。トートバッグがずっしりと肩に食い込んでくる。

 けれど気になる作家の新刊は、すぐに読みたくなるから仕方がない。

 駅前の交差点に差し掛かると、プー、プー、と腑抜けた警告音を響かせて、信号が赤に変わる。

 私は横断歩道で立ち止まり、通り過ぎる車をぼんやり眺めた。

 

(そういえば竜崎に会ったのも、本屋の帰りだったな)


 ふと、あの日のことを思い出す。

 三か月ほど前のこと。

 当時バイトしていたカフェの先輩おぢからのセクハラが酷くて、辞めた直後のことだった。

 おぢに対する苛立ちから、いつも以上に本を大量に買った帰り道。私はむしゃくしゃしながら、脇目も振らずに歩いていた。

 だからだろう。前から人が来ていることに気づかず、思い切りぶつかってしまった。


『わっ! すみません余所見をしていたもんだから……』


 私が悪いにもかかわらず、相手は散らばった大量の本を慌てて拾い集めてくれた。

 本を全て拾って初めて、相手はやっと視線を上げ、目が合った。


『あれ、岸谷さん……?』


 それが、竜崎だった。

 ……あんなに近くで竜崎の顔を見たのは、後にも先にも、この一度きりだ。

 竜崎の目を丸くして驚いたその顔が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。


『いやごめん……。私もちゃんと見てなかったから』


 私は顔を逸らし、竜崎に集めてもらった本を急いでトートバッグに仕舞っていった。

 しかし量が多くてなかなか上手く仕舞えず、体中の血が顔に集まるの感覚を、今でもよく覚えている。

 ――クラスメイトに本を見られた。

 そのことが、死ぬほど恥ずかしかった。


 『あ、麻根重次だ。面白いよね、これ』


 竜崎は最後の文庫本を手に取って、へらっと笑いながら私に手渡した。

 その時の顔に浮かんでいたのは、本当にただ純粋に、自分と同じ趣味の人間に対する、一種の親しみのようなもの。

 少なくとも、私にはそう見えた。


 『あ……ごめん馴れ馴れしく。俺、本が好きだから、つい』

 『別に……』


 下を向きながら文庫本を受け取った私は、その時どんな顔をしていたんだろう。

 たぶん、変な顔だったと思う。

 驚きと喜びと恥ずかしさがぐちゃぐちゃに混じり合ったような、そんな表情だったに違いない。

 私はどうしていいか分からず、感謝の言葉もそこそこに、その場から走り去った。

 竜崎は、一言も「似合わない」と言わなかった。

 意外だと、見た目とイメージが違うなんて、一言も言わなかった。

 それが、ただただ嬉しかった。

 翌日。

 もしかしたらクラスで私の話をされているんじゃないかと、私は気が気じゃなかった。

 けれど、拍子抜けなほどいつも通りで。

 竜崎は、私の趣味を茶化したり、言いふらしたりしなかったのだ。

 そう考え至ると、震えるほどの感情が溢れ出し、もう止まらなかった。

 私が恋に落ちるには、十分すぎるほどの出来事だった。

 私はその週のうちに、学校から離れたちょうどいい規模の本屋をいくつか探して、今の書店でバイトすることに決めた。

 竜崎が、私に勇気をくれたのだ。

 まるで私そのものを全て受け入れてくれたような、そんな初めての感覚だった。

 

 ピポピポと軽快な音が響き、過去から意識が呼び戻される。

 青信号を渡りながら、先ほど店長との会話で沈んだ気持ちが、すでに浮上しているのを感じた。

 

(竜崎、もう麻根重次の新作読んだかな。話しかけたら、駄目かな……)


 そのまま電車に乗り、最寄駅を出る。

 自宅までの暗い道のりを歩きながらも、気分はふわふわと浮ついたままだ。

 竜崎のことを思えば、肩に食い込むバッグの重さなど、まるで無いもののように感じる。

 私はこれまで、片思いの経験なんてしたことがない。

 いつもなんとなくそういう流れになって付き合うだけで、もしかすると、まだ恋もしたことがないのかもしれない。

 一応、これまでの彼氏のことも、好きだと思っていた。

 けれどこんなに悩んだり、苦しい思いをしたことは、一度もない。

 少しでもいいから、私のことを見てくれないだろうか。

 ほんの一言でもいいから、また言葉を交わしたい。

 そんな欲望が、次から次へと湧き出て、止まるところを知らない。


(何て話しかければいいの? 『何読んでるの?』とか……それは無理か)

 

 そんなことを考えながら、ぼおっと歩いていたからだろう。

 家の前に人が立っていることに気づかず、門の取手に手をかけた。


「梨那!」

「わっ⁉︎」


 すぐ近くから声をかけられて、私は文字通り飛び上がった。

 本でずっしりと重たくなったトートバッグが、重力でぐっと肩にめり込む。


「びっくりしたー!」

「ごめんごめん。でも梨那、全然既読になんないんだもん」


 そこでようやく、スマホのメッセージアプリに花鈴たちからの連絡が入っていることに気がついた。


「あ、ごめんずっとスマホ見てなかった」

「梨那ってほんとJKなん? 花鈴なんて十分に一回はスマホ見ないと不安なんだけど。ってそれはよくてー! これから花火やりに行こ!」


 唐突な花鈴の提案に、思わずぽかんと口を開ける。

 にこにこと屈託のない笑顔で笑ってから、花鈴は眉を下げて顔を近づけてきた。


「実紗、さっきちょっと言いすぎたって思ってるみたい。悠馬くんと一緒にコアラ公園で待ってるから、行こ?」


 どこかこちらの様子を窺うように、上目遣いで花鈴が言う。

 花鈴は小柄で可愛らしい顔立ちだから、そんな仕草がよく似合うのだ。


(……実紗、気にしてたんだ)


 悠馬くんとは、実紗の彼氏のことだ。

 悠馬くんはサッカー部で、クラスは違えど同じ学年。

 学年の中でも、一二を争うほどに人気がある男子である。

 そんな悠馬くんが彼氏であることを、実紗は誇りに思っているし、実際羨望の目を向けられることも多いようだ。

 実紗は何か困ったことがあったり、落ち込んだりするとすぐに悠馬くんを呼ぶ。

 悠馬くんも悠馬くんで、そんな実紗が可愛くて仕方ないようで、なかなかに仕上がったカップルである。

 花鈴はまだ制服のままだから、あの後悠馬くんを呼び出したのかもしれない。

 ということは、実紗なりにさっきのことを気に病んでいたのだろう。

 喧嘩というほどではないけれど、何となくぎくしゃくしてしまったのは確かだ。

 二人で相談したのか、悠馬くんが言い出したのかは分からないが、あえてイベントを作って誘ってくれたのだと思う。

 隠し事をしているのは私の方なのに、気まずいような、申し訳ないような気持ちになる。

 私も、この気持ちをすっきりさせたいと思った。


「分かった。荷物置いてくるから待ってて」

「よかった! ていうかすごい荷物。何が入ってるの?」


 頷いた私に、花鈴は目に見えて顔を明るくした。

 そんな花鈴の純粋な疑問を聞こえなかったふりをして、私はいったん玄関に荷物を置いた。

 母親に止められる前にと、そそくさと家を後にし、花鈴と共にコアラ公園に向かう。

 コアラ公園という名前は、昔コアラのスプリング遊具があったからそう呼ばれている。

 現在それは撤去されており、ブランコと滑り台、砂場といくつかのベンチがあるだけの小さな公園だ。

 学校の近くにあって、位置的に放課後立ち寄るのにちょうど良く、たまにコンビニで買ったアイスなんかをベンチに座って食べたりする。

 私の家からは、歩いて十分程度だ。


「ていうか、コアラ公園って花火禁止じゃなかったっけ」

「えーそういうの気にする? 大丈夫っしょ」


「梨那ってやっぱまじめだよねー」と軽く笑う花鈴に着いて、公園に足を踏み入れる。

 すると公園の中央に、制服のままの実紗と、Tシャツに黒いスラックスといったラフな私服の悠馬くんが、何やらしゃがみ込んでいた。


「あっ! 梨那来た! 花火準備できてるよ!」


 実紗が笑顔で立ち上がり、こちらに手を振って来る。

 地面を見れば、手持ち花火の大袋のセットが一つに、噴出花火が五セットほど既に並べられている。


「えっめっちゃあるじゃん。こんなに買ったの?」

「やっぱ夏と言えば花火っしょ! 悠馬とドソキで買って来たんだよ!」


 どこかわざとらしさを感じる明るい声。

 それも仲良くしたいという実紗の気持ちの表れなのだと思えば、つい顔が綻んでしまう。

 そもそも、別に喧嘩をした訳でも怒っているわけでもない。

 私は笑顔で、手持ち花火を手に取った。

 

「いいじゃん! やろやろ! 悠馬くんもありがとうね」

「いや。実紗がどうしてもたりたいっていうからさ」

「ねー花鈴は⁉︎ 花鈴も花火運んだんだけど!」

「あんたは手持ち花火のセットをそこに置いただけじゃん!」


 実紗と花鈴が軽口を交わしてじゃれ合う。

 ちらりと悠馬くんの方を見れば、実紗を微笑みながら見つめていた。

 その横顔は、ハッとするほど格好いい。女子たちに人気な理由も頷ける。

 きっと実紗は、誇らしいと同時に気苦労が絶えないだろう。


(その点、竜崎はそんな心配ないしね)


 内心そう思ったところで、また竜崎のことを考えてしまったと恥ずかしくなる。


「とにかくやろやろ! 人に見つかると厄介だし!」


 私は気恥ずかしさを振り払うように努めて明るくそう言うと、手持ち花火のセットを解体しながら、種類ごとに並べ始めた。

 少しでも手を動かしていないと、また竜崎のことを考えてしまいそうだ。


「梨那ってこういうとこ几帳面だよね。あっ! 線香花火やりたい!」

「ちょっと花鈴! 線香花火は最後でしょ」

「えー梨那厳しい! だめー⁉︎」

「いいじゃん線香花火。むしろ最後は連続噴出花火でどうよ」


 悠馬くんはそう言いながら、楽しげに手持ち花火を物色する。そして妙に太い花火を左手に三本持つと、次々にチャッカマンで火を点けた。


「ちょっと悠馬あぶない!」

 

 実紗の言葉を聞かず、「ひょーーっ!」という謎の奇声を発しながら悠馬くんは公園を走り回る。

 クールそうに見えるけれど、やはり十代男子だ。

 そんな悠馬くんを実紗は呆れながらも愛しそうに眺めてから、自分も手持ち花火の一つに火を点けて、悠馬くんを追いかけ回す。


「結局実紗もはしゃいでんじゃん。あの二人、仲良いよね」

「だねー。でも花鈴だって彼氏と仲良いでしょ」

「んーそうだけど。向こうが大学生だから、あんま時間合わないんだもん。バイトはいつも一緒だけどさあ」

「はいはいノロケー。寂しいぼっちは一人で線香花火でもしまーす」


 一番端に並べた線香花火を一本取り、火を点ける。

 まるで小さな太陽のような火の玉が、心許ない紙縒(こより)の先にぶら下がった。

 ジジジという小さな音を立てかと思うと、やがてぱちぱちと太陽が弾け始める。


「なんか線香花火ってさあ、切ないよね」


 私は思ったことを、そのまま唇に乗せる。


「あーなんかわかる。エモいよね」

「そう。なんかこうさ、他の花火みたいに激しく燃える訳でもなく、ただ静かに燃えて、ぽとっと落ちた瞬間、すごく寂しい気持ちになる」


 ぱちぱちぱち。

 じっと、はぜる火の玉から視線を外さないまま、私は言った。

 なぜだか、どうしても目を離すことができない。


「なんかさ」


 ぱちぱちぱち。

 徐々に勢いが弱まってくる。

 ああ、お願い消えないで。

 花鈴の言葉を上の空で聞きながら、私は願った。


「秘密の片想いみたいだよね。線香花火って」

「え?」


 一瞬、ぎくりとする。

 花鈴は私の想いを知らないはずなのに。

 その動揺がよくなかった。

 私の小さな太陽は、成す術もなく、ぽとりと、地面に消えた。


「いやほら、誰にも言えない片想いってさ、自分の中で静かにぱちぱち燃え上がってく感じしない?」


 花鈴は花火を物色しながら、何ともないような声色で、さらりと言う。

 視線が合わないからか、真意が分からずもやもやと不安が胸に広がった。


「……そう?」

「うーん、なんかそう思ったんだー。実はさあ、昔の彼ピと付き合ってる時、別に好きになっちゃった人が居て。でもその人、既婚者だったんだよね」

「え⁉︎」

「昔の話! それに何もなかったよ。昔のバイト先の店長だったんだけど、完全に対象外って感じだったし。ただの片想い」


 花鈴は線香花火を一つ選び取り、火を点ける。

 私のものより少し小ぶりな火の玉が、紙縒の先にぶら下がった。

 

「でもさ、その人、バイトの先輩と不倫してさ。三十代が大学生と不倫とか、きもっ! ってなって」

「それはそうだけど……花鈴も好きだったんでしょ?」

「そうなんだよー不思議だよねー! でもとにかくきもって思ってさ、さっぱり気持ちが消えちゃったんだよね」


 花鈴の線香花火は、あまり質が良くなかったようだ。

 ぱちぱちと最期の力を振り絞ったかと思うと、ぽとりと、あっという間にその生を終えた。


「それでなんか、線香花火みたいだなーって」

「……そうかな」


 私の竜崎への想いも、いつか線香花火みたいに消えてなくなるのだろうか。

 まだ何も始まっていないのに……いや、始まることすらなく、ただ消えていくのだろうか。


「ねえ! 二人で何話してんの!」


 一瞬の静寂を、実紗の明るい声が引き裂いた。

 私と花鈴の肩をバンッと叩き、間にぬっと顔を出す。


「なんでそんなしけた顔してんの⁉︎ 夏だよ! アゲてこーよ!」

「実紗が悠馬くんといちゃついてるから、花鈴たちはここで静かにしてたんですー」

「そうだよー! まーじゃあ私もその『メガパチパチ』とかいうのやりますか!」


 私は太めのスパーク花火を手に取って、意識的にテンションを上げる。

 そんな私に、実紗はにかっと笑ってみせた。


「いいね! 私はこっちにしよー!」

「じゃあ花鈴はね、このピンクのやつー」


 それぞれが花火を手に取って、火を付ける。

 シューシューと音を立て激しく燃える花火は、線香花火とは真逆の賑やかさだ。

 私たちは笑いながら、次から次へと花火に火を点けていった。


「じゃあそろそろ、こっちいくぞー!」


 ひとしきり花火を楽しみ、手持ち花火が底を付いた時。

 悠馬くんがチャッカマンを手に、並べられた噴出花火の前にしゃがみ込んだ。


「私、こういうのやったことないかも」

「花鈴は小さい時、おばあちゃんちでやったよ!」

「見てて! めっちゃアガるから!」


 実紗が興奮した様子で、悠馬くんに「つけて!」と声をかける。

 それを合図に、噴出花火の導火線に火が点いた。

 一瞬の間を開けて、シャワワワーと、まるで噴水のように火の粉が舞い上がる。


「わー‼︎ すごい! きれー!」

「悠馬! どんどんいっちゃって!」

「うぃー!」


 悠馬くんが続けて三つの花火に火を点ける。

 それを見ながら、私たちはきゃあきゃあ言って盛り上がった。


「じゃあ最後の一つ! これめっちゃすごいらしいよ!」


 悠馬くんが何かを企んでいるかのよう、にニヤリと笑う。

 私は何だか嫌な予感がして、実紗の方に振り返った。


「ねえ、あれどういうやつ?」

「鬼高く火が出んだって! 五メートル? くらい!」

「えっ待ってそれさ」


 一番端に置かれた噴出花火の横には、木があった。

 確かに距離はあるし、背も高いが、五メートルの火花なら、届いてしまうのではないかと思える。


「位置ずらした方が良くない? もっと何もないとこに」

「いっくよー!」


 私と実紗の会話が聞こえなかったのだろう。

 悠馬くんは躊躇わず、そのまま火を点けた。


「待っ」


 私の言葉を待たず、シャーと大きな火柱が上がる。

 これまでのものとは明らかに桁違いで、たしかに圧巻だった。


(あっ、良かった……。枝には届かなかったか)


 花火は予想よりもずっと、枝との距離を空けて花を咲かせている。

 ほっと息を吐いた私の肩に、実紗はぽんと手を置いた。


「ほら、平気っしょ。ちゃんと考えて置いてるわ。梨那、心配しすぎ」

「だよね……。ごめん」


 二人が言うように、私はかなり神経質なのかもしれない。

 不安を煽るようなことだけ言ってしまったことに、苦笑いが隠せない。

 シャーシャーと激しい音を立てていた花火も、徐々にその勢いを失っていく。

 夏本番はこれからだと言うのに、まるでこのまま夏が過ぎ去ってしまうような、そんな気配を感じた。


(今度の花火大会、竜崎と一緒に行きたいな……)


 毎年八月になれば、街で花火大会が開かれる。

 私は毎年、その時々の彼氏と一緒に見に行っていた。

 今年は、竜崎と一緒に花火が見たい。

 碌に話したこともないくせに、図々しくそんなことを思う。


(……決めた。夏休みに入る前に、竜崎に話しかけよう)


 まずは動き出さないと。

 ただこのままじっとしていても、何も始まらない。

 何もすぐに告白する訳じゃない。ただ、まずは何かしらの関係を始めたい。それだけだ。

 私はそう決意して、ぐっと拳を握り締めた。

 ——その時。

 私の決意を嘲笑うように、一つ風が、ぴゅうと吹いた。


「あっ」

 

 そこからは、まるで画面越しに映像を見ているような気分だった。

 弱りかけていた花火がぐらりと傾き、そのまま風に煽られ、木に向かって倒れる。

 弱っていると言っても、まだ通常の噴出花火程度の勢いは、残っていた。

 火柱は、木の幹にぽつりと生えたまだ小さな細い枝に襲いかかる。

 花火を起こそうと手を出して束の間、ぼおっと、枝の葉先に火が着いた。


「やばいやばい!」

「水! バケツどこ⁉︎」


 終わった花火を浸けているバケツを取りに、私は走った。

 重たくて簡単には持ち上がらず、もたついてしまう。

 それに気付いた実紗が駆けつけ、一緒にバケツを持ち上げて、よたよたと木の近くまで持っていった。

 火は徐々に広がり、今や枝全体を包もうとしている。

 悠馬くんは羽織っていたシャツで火を消そうしていたけれど、私たちに気付き、力任せにバケツを受け取った。

 そのままの勢いで、ばしゃりと水を枝にかける。

 一瞬、火はかなり弱まったものの、完全には消えなかった。


「もっと水‼︎ ペットボトルも使えない⁉︎」


 花鈴の声にハッとして、私と実紗は飲み掛けていたペットボトルのミルクティーや炭酸水を、枝にバシャバシャとかける。

 悠馬くんは水道まで走り、バケツを満タンにしてまた枝にばしゃりとかけた。

 そこでようやく、火は完全に消えたのだった。


「よ、良かった……」


 思わず安堵の声が漏れる。

 他の三人も同様に、安心したのかほっとした表情を見せていた。


「お前たち‼︎ 何やってるんだ‼︎」


 突如、弛緩した空気を締め付けるような声がした。

 声の主を探して見回すと、公園の入り口に、制服を着た警察官が立っていた。

 きっと火が見えていたのだろう。鬼の形相でずんずんと向かってくる。


「公園で高校生が騒いでるっていう通報を受けて来てみれば……。お前たち、ここは花火禁止だぞ! 危うく火事になるところだったじゃないか! 来い‼︎」


 少々下っ腹が出た不摂生そうな警察官が鼻息荒く怒鳴りつけ、そのまま私たちは交番に連れて行かれた。

 そこからはもう、あれよあれよという間に、最悪な方に物事は進んでいった。

 通報した人物が学校にも連絡を入れたようで、結果、私たちは三日間の謹慎処分となったのだ。

 母親には「まさか警察の厄介になるなんて」と散々に嘆かれ、父親にらキツく叱られて、本当に三日間、一歩も家から出ることが叶わなかった。

 派手な格好をしていても、これまでこういう問題は起こしたことがなかったのだから、当然といえば当然だろう。

 正直、自分でも反省している。

 ともすれば大惨事だったし、花火を始める前にもっと強く止めるべきだったと思う。

 だから三日目の夜、私は親に頭を下げた。

 もう二人を心配させるようなことはしないと。

 なんだかんだ二人は私に甘いし、私を信頼してくれている。

 きっと私の言葉を信じてくれたと思う。

 実紗には、メッセージアプリでかなり謝られた。

「私と悠馬が調子に乗りすぎた」と真剣に謝ってくれたし、結局私も楽しんだのだから、実紗と悠馬くんを責めるのは違うと思う。

 花鈴にも「梨那は花火禁止なこと気にしてたのにごめん」と謝られた。

 私たち友情には、何の問題も起きなかった。


 けれど。

 問題は、校内の雰囲気だった。

 謹慎明け。

 私たちが登校した時には、とんでもない噂が飛び交っていたのだ。


「ねー梨那さあ、パパ活してたのがバレて謹慎してたってほんと?」


 気持ち悪い校内の雰囲気をどうにか受け流して、迎えた昼休み。

 同じクラスの由優海(ゆうみ)が、わざわざ私の机までやってきて、そう言った。

 一瞬、クラス中の声が止み、しんとした静寂に包まれる。

 私たちが謹慎になったことは知っていても、その理由は知らされていないのだろう。

 由優海は私の机に右手を置いて見下ろしてくる。

 その顔には、にやにやとした嘲りが滲んで見えた。

 由優海とは、入学当初、同じグループに所属していた。

 けれどどうにもそりが合わず、実紗と花鈴とばかりつるむようになり、それ以来、何かと目の敵にしてくるのだ。

 もしかすると、由優海が好きだったという男子が、去年私に告白してきたという理由の方が大きいのかもしれないけれど。

 

「は? んなことする訳ないじゃん」

「えぐー。誤魔化すわけ? みんなそう言ってっけど? じゃあなんでガッコ来なかったんだよ」


 私があまり大きな反応をしなかったのが気に入らなかったのか、由優海は口元を歪めて吐き捨てる。

 私に言っているというより、クラスのみんなに聞かせているように思えた。

 そんな由優海の作戦は、どうやら成功を収めているようだ。みんなちらちらとこちらを眺めては、私がどう答えるのか、興味津々といった様子を隠せていない。

 ちらりと、斜めの席に座る竜崎に目をやる。

 竜崎は机に突っ伏していて、聞いているのかいないのか、よく分からなかった。


「パンダ公園で花火しただけ。まじでそんだけだから」


 私はしっかりと、由優海の目を見つめて断言する。

 由優海に言っているんじゃない。

 竜崎に、私がそんなことをする女だと思われたくない。

 私は竜崎の耳に届くよう、努めて声を張った。


「つか勝手にあれこれ噂すんのやめてくんない? 誰か何か見たのかよ。私は一度だってパパ活なんてしたことないから。テキトーなこと言うなし」


 キッと由優海を睨みつける。

 由優海は鼻白らんだように、「なにそれ。だる」とだけ言うと、そのまま教室を出て行った。

 まだちらちらと私の方を見てくるクラスメイトたちを睨みつければ、みんなさっと視線を外す。

 彼らが私をどう思っているか、よく知っている。

 普段は可愛いとかメイク教えてとか寄ってくる子たちも、今は完全に見て見ぬふりだ。

 誰も、噂の真偽を考えていない。

 きっと私がそういうことをしていても、不思議じゃないと思っているに違いない。

 私は堪らず、がたりと席を立った。

 そのまま教室を抜け出して、裏庭に向かう。

 腹が立って、むしゃくしゃして、それから、とても悲しかった。


(なんであんなこと言われなきゃいけないの? 私がギャルだから? 自分の好きな格好をすることの何が悪いの?) 


 せっかく綺麗に巻けた髪をぐしゃぐしゃと握り、涙が溢れないようにぐっと顔に力を入れる。

 みんな見た目で決めつけてばかり。

 今回のことは確かに悪かったけれど、これまで目立った悪行はしていない。

 成績だって悪くないし、違法なことなどしたこともない。

 授業をサボったこともなければ、迷惑をかけたこともないはずだ。

 本が好きなことだって、何も悪いことじゃないのに。

 やがて、始業を知らせるチャイムが鳴った。

 生徒たちの騒めきが徐々に小さくなり、やがてほとんど何も聞こえなくなる。

 私はただぎゅっと、膝を抱えてうずくまった。

 何もしたくないし、何も考えたくない。

 気持ちが落ち着くまで、私はしばらくそうしていた。


(……授業、初めてサボった。帰ろ……)


 どれほどの時間が経ったのか、もう既にほとんどの生徒の気配はない。

 校庭から野球部がランニングをしている声が聞こえた。

 

(こんな風に逃げたら、噂を肯定しているみたいじゃん。やば……やっちゃった……)


 焦る気持ちはあれど、仕方なかったと諦める。

 どうしても、気持ちが落ち着かなかったのだ。

 あのまま教室にいたら、最悪泣いてしまっていた可能性が高い。

 それは流石に、プライドが許さなかった。


(カバンもスマホも教室だ。実紗たちはどうだったかな……)


 二人も同じような辱めを受けたのだろうか。

 だとしたら、もしかすると居なくなった私を心配しているかもしれない。

 私はパタパタと足早に教室に向かう。

 誰もいない教室に残されたカバンを開きスマホを取り出せば、二人からの連絡が何件も入っていた。

 

『梨那だいじょぶ?』

『なんか変な噂があるみたいだけど、あたしきっぱり否定した!』

『花鈴もだよー。マジ腹立つよね!』

『梨那どこいった?』

『おーーい!』

 

 二人のメッセージからは、重たい感情は何も受け取れない。

 でももしかしたら、二人も落ち込んでいるかも。

 ぱたたたっと素早いフリックで、二人に「ごめん大丈夫! 頭冷やしてた。今帰るわ!」と打つ。

 すぐさま、二人からスタンプで返信があった。


『むかつくから、ひさびさカラオケでも行かん?』

『いいじゃん!』

『駅前のまねきんねこ入ってるわー』

 

 実紗からの返信に、私はスタンプで返す。

 無性に二人に会いたくてたまらなかった。


 急いで荷物を片付けて、足早に教室を出る。

 階段を降りて正面の昇降口に辿り着くと、人の声が聞こえた。


(やばっ!)


 私は思わず、下駄箱の影に隠れる。

 別に隠れる必要はないと思いながらも、万一同じクラスの人だと気まずいと思ったのだ。

 少しだけ頭を出して様子を見ていると、やって来たのは、二組の津田と、竜崎だった。

 二人は同じ剣道部だ。これから部活に向かうのか、二人とも道着を着ている。


(竜崎の道着姿、久々に見た……やば……!)


 制服やユニフォームといったその職業、スポーツならではの服装というのは、一種魔力が宿っていると思う。

 竜崎のことが好きな私でも、竜崎のことを『格好いい』と思うことは多くない。

 けれど今の竜崎は、本当に格好良かった。


「つか岸谷さん、結局帰って来なかったんだろー? あの噂本当なんかな」


 一人浮かれていたのも束の間、津田の発した言葉に、私は固まった。

 そうだ。

 あの時竜崎は何も聞いていないように見えたけれど、実際はどうだったのだろう。

 胸に不安と焦りが広がり、背中に冷たいものが流れる。


「岸谷さんはきっぱり否定してたよ。なんか、花火禁止の公園で花火してたとか」

「それ綾川さんも言ってたわ。てことは、やっぱパパ活はデマなんかね」


 綾川とは、花鈴のことだ。

 花鈴は津田と同じ二組。

 やはり、花鈴のクラスでも話題になっていたのだろう。


(竜崎……やっぱ聞いてたんだ。でも良かった。噂は信じてなさそう)


 そう思うと同時に、私は自分が息を止めていたことに気付く。

 慌てて息を吐き、大きく息を吸い込む。そしてもう一度、ほっと息を吐き出した。

 じんわりと、胸に熱いものが広がる。

 きっと、竜崎なら信じてくれる。

 そう期待していただけに、嬉しくて仕方がなかった。


「でも花火だけで謹慎はちょっと厳しすぎねー?」

「あー多分なんだけど、それでボヤ騒ぎがあったみたいだよ。母さんが言ってた」

「そうなん⁉︎ なら仕方ないかー」


 二人は話しながら、ちょうど私が隠れている下駄箱の横に差し掛かる。

 私は思わずしゃがみ込んだ。

 校門からは私の姿が丸見えだろうけれど、運良く校門までの道のりに人影はない。

 ドキドキと胸が早鐘を打つのを、必死に抑える。

 万一にも、盗み聞きをしていることがバレたら大変だ。


「でもさぁ」


 竜崎の声に、私は再びそっと顔を覗かせて、彼の顔を視界に入れる。

 へらっと笑った横顔は、本を拾ってくれた、あの時の顔そのままだ。

 屈託なく、純粋に私を受け入れてくれた、あの時のまま。

 竜崎のその笑顔を瞼の中に閉じ込めるように、ぎゅっと目を瞑る。

 心臓がどくんと脈を打った。


(どうしよう……。竜崎が好き。大好きだ)

 

 このまま目の前に現れて、この気持ちを伝えてしまいたい。

 けれど、今日の今日で、それは悪手としか思えない。

 冷静に、今じゃないと自分を落ち着かせる。

 暴れ出してしまいそうな心を抑えるように、胸元をぎゅっと握りしめて、私は瞼を開けた。


「岸谷さんさ」


 竜崎が私の名前を呼ぶ。

 嬉しくて、踊り出してしまいそう。


「あの感じじゃ、パパ活してるって言われても納得だよな」


「え……?」


 小さく、声が漏れる。

 頭から冷水を被せられたみたいに、思考が停止する。

 今、竜崎は、何て言ったの――?


「お前ひでーっ!」

「いや実際そうだろ!」

「ていうかなんかお前さ、前に岸谷さんと会ったとか言ってなかったけ」

「あー街中で偶然にな。なんかいっぱい本持っててさー、ぶつかった瞬間全部ぶちまけてた」

「えっ本⁉︎ なんの⁉︎」

「大量の小説! ガチ似合わなくね? なんであんなの持ってたんだろー」


 私は呆然と、さも楽しげに笑いながら去っていく二人の後ろ姿を見送る。

 まるで足が底なし沼に嵌ったように、動かすことができない。


(ダメだ。せっかく堪えたのに……)


 視界が歪む。

 我慢しようとしても、自然と涙が溢れてくる。

 教室で由優海に悪意をぶつけられた時よりも、クラスメイトから見て見ぬふりをされた時よりも、ずっとずっと心が苦しい。


(ひどい……ひどいよ……)


 竜崎は分かってくれると思っていた。

 私の趣味を馬鹿にせず、受け入れてくれたと思ってたのに。


(竜崎には……竜崎だけには言われたくなかったよ……)


 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちて、白い制服のシャツにシミを作る。

 痛覚などないはずなのに、心が痛くて仕方がない。

 あまりのショックに、このまま人間不信になりそうだ。

 まさか、あの竜崎に裏切られるなんて。

 ……そう思ったところで、はたと気付く。

 本当に、私は竜崎に裏切られたのだろうか。

 本当に、竜崎は私のことを受け入れてくれていたのだろうか。

 

『誰にも言えない片想いってさ、自分の中で静かにぱちぱち燃え上がってく感じしない?』

 

 花鈴の言葉が、頭の中でリフレインする。

 私の想いは、ただ私の中で勝手に燃え上がっていただけ。

 竜崎とは何も始まっていないし、何の関係でもない。

 私はただ、私にとって理想的な、都合の良い『竜崎』という幻影に取り憑かれていた。

 きっと、ただそれだけなのだ。


 ぽとり。

 私の中の線香花火が、最期を迎えた瞬間だった。


 想いの残滓を洗い流すように、止めどなく涙が溢れる。

 それを必死に何度も拭えば、ファンデやらマスカラやらがぐちゃぐちゃに手に付いていた。


(……化粧、直してから行こ)


 そっと立ち上がり、再び校舎の中へと向かう。

 花火が終わった時のような物悲しさが、ぽっかりと穴の空いた胸を埋め尽くしていた。



しばらく新作を書けていなかったので、リハビリとして書きました。

お読みいただきありがとうございました。

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【私はただ、私にとって理想的な、都合の良い『竜崎』という幻影に取り憑かれていた。】 この一文に全て込められているような気がしました。 片思いってそうですよね。 大人になってからのそれはもっとドロドロで…
竜崎、もうちょっと性格いい奴だと思ってたけどは恋に落ちるんじゃなくて恋心が地に落ちてなくなっちゃったね
竜崎への想いが一気に揺らぐシーンが描かれていて、読んでて胸が痛くなった。好きな人の何気ない一言が、自分を全否定されたように感じることは本当に辛いだろうなと感じた。 特に「本を受け入れてくれた」と信じて…
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