参.転換地点ー後篇ー
リューク・ムリフェインは野山を駆ける。火事の根元である、自宅へ向かって。
黒煙を見た時、嫌な予感を抱いた。
昔から異様に優れていた勘が、今までにない程に警鐘を鳴らし続けている。こんなこと、今まで一度たりともなかった。
「(師範…!)」
木々の間を通り抜け、窪みや小川を飛び越え、生きてきた中で出せうる限りの全速力を以って駆けると、徐々に火元へと近付いてきているのが目視で分かる。
いつも使っている道に出ては、道に沿って走る。
茂みを抜ければ、家はすぐそこだ。
リュークは茂みを飛び出す。
そこには───見知らぬ黒いローブを羽織った男が、両刃の剣を父の胸に突き刺している光景だった。
リュークは言葉を失った。
父が剣で負けた事。そして……殺されそうに、なっていること。
「あ……ッ、師範ィ!!」
リンウェルと目が合った。
何故来た、と言いたげな眼差しでリュークを見据える。よく見ると口元が動いていて、何かを話そうとしている様だった。
しかし。ローブの男がリンウェルの胸から剣を引き抜く。
父は───リンウェルは、糸が切れた人形のように倒れ伏した。
「……ぁ」
か細い声が、リュークの喉から漏れる。十六年ほど生きてきて、出した事のない声だった。
「なるほど。貴様がリンウェル・ムリフェインの子供か」
男…イグナスの問いに、リュークは答えない。気付けばリュークは虚ろな目で刀の柄に手を掛けて……
「顔を見られた以上、貴様も生かしてはおけん。案ずるな。すぐに父親の元に送「───す」あ?」
死の風が吹き荒れる。
リンウェルが駆けた際のそれを遥かに上回る速度で地を駆けたリュークが、居合の体勢と共にイグナスの意識外に潜り込んでいた。
「ブッ殺す…!」
憤怒。憎悪。殺意。
ありとあらゆる負の感情がリュークの内に渦巻き、彼自身も自覚しないまま、自身の臨界点を超えていた。
避けられぬ死の気配を感じたイグナスは、殺気に対して硬直する中で、なんとか先のリンウェルの斬撃を無効化した魔法を行使する。
イグナスは安堵する。
同じだ。さっきと同じように、敵の攻撃を避けた後に仕留めればいい。それだけだ。
リュークの斬撃がひどく遅い。そう認識しているだけだ。実際は有り得ぬほどに速いのだ。
大丈夫。大丈夫だ。すり抜け、刀身を溶かせば勝てる。
───その驕りが、仇となった。
嫌な音がした。肉が、斬り裂かれる音。
イグナスは遅れて気付く。自身の腹が斬られた。
「届いてんぞ」
血のような深紅の瞳を向けた剣豪は、不意に呟く。
その意味を、イグナスは理解する。理解してしまう。
「オレの剣は、テメェに」
腹を斬ってもなお、リュークはその目に宿る殺意の炎を昂らせている。
振り抜いた剣を、逆袈裟斬りという形で再度振るう。
イグナスは腹の傷を片手で抑えながらその斬撃を間一髪で避ける。汗腺を持たぬ筈の龍人であるというのに、冷や汗が伝う感触を覚えた。
「(何故だ…!? 何故、炎の輪郭を掴んで…いや、俺の魔法が……魔法そのものを斬ったのか!?)」
有り得ぬ話だ。かのリンウェル・ムリフェインですら、イグナスの防御を見抜くどころか破る事すら出来なかったというのに。
この剣豪は違う。全てがリンウェルという剣豪とは違う。リンウェルという剣豪を相手にするやり方は、一切通じない。
「(逃げねば。逃げねば……殺される…!)」
イグナスは恐れ慄く。
目の前にいる黒い剣豪は、自身やリンウェルと同じ龍人には見えなかった。龍人の姿をした、化け物。
「逃げンな」
イグナスという“敵”が逃げ出す事を察した剣豪は地を駆ける。イグナスが認識するよりも速く、剣豪は剣の間合い入り込み、剣を振りかぶっていた。
一瞬で、懐に入り込む。
「ひっ!? う、うわあああ!?」
情けない悲鳴を上げながら、イグナスは炎の魔法を放つ。
それを察知していたリュークは、イグナスが魔法を放つ動きを取る頃には、既に剣を構え直している。
イグナスを斬る構えから、魔法を斬る構えに。
「“虚龍一刀流”───“虚火華”」
円を描く様に振るわれた刀は、全ての炎を切断していた。
リュークの衣服、鬣、鱗を一切焦がす事も焼く事もなく、最初から存在しなかったように霧散する。
炎が完全に消えると、先程までイグナスがいた筈の場所には、もう誰もいなかった。
「あの野郎ォ! ……ッ! 師範…!」
イグナスを逃がした事に悔しさを顕にする中、我に返ったリュークはリンウェルが未だ瀕死である事を思い出し、駆け寄った。
「師範、師範…!」
「リュー……ク…はは……強く、なったな……あいつを、退ける…とは……」
「喋ンな! 傷が広がンだろ! 待ッてろ、今手当を───」
怪我の治療をする道具を取りに行こうとするリュークだが、それをリンウェルが腕を掴んで止める。
「いい……どのみち…もう長く、ない」
「なに…言ッて……」
「心臓を……突かれたんだ……たとえ…龍人、でも…ごふっ……死ぬ事に…変わりはない…から」
リンウェルは既に、己の死を受け入れていた。
龍人という種族は総じて強い生命力を有しており、また寿命も長い。死ぬ時は死ぬ、という感性を抱いており自己の死に対してもすんなり受け入れてしまう節がある。
リンウェルもその枠に当てはまる人物だった。
最期の最期に、息子の成長を垣間見た事もあり、満足している所も大きい。
「……だめだ。死ぬな…死なないでくれ…師範…!」
リュークは、どうしても受け入れられなかった。
敬愛する父の命が尽きようとしている事。それを、リンウェル本人が受け入れている事。
「まだ…まだ、師範に……なにも返せてないんだよ…オレを、拾ってくれて。剣を、生き方を……誰かを大切にして、される事の喜びを…教えてもらったのに……ずっと、面倒見てくれたのに……その、恩も…何ひとつ返せてない」
リュークは泣いていた。それほどまでに、リンウェル・ムリフェインという男を、父として慕っていたから。
「だから…死なないでくれ……“父さん”…!」
「ッ! リュー……ク……」
リンウェルに拾われて十年と数年。リュークが、初めて師範ではなく、父と呼んだ。
その時、リンウェルの目頭から熱いものが込み上げてきた。
「…………ああ」
今日に至るまでずっと、リュークは自分を、師弟以上の認識を抱いてはいないと、勝手に思っていた。
「……死にたく…ないなあ…………」
だが、違った。リュークはずっと、リンウェルを父として慕っていたことに、今更気付いてしまって。
初めて、リンウェルは死に対する恐怖を覚えた。
たったひとりの、血の繋がりのない息子を置いて行ってしまうことや、もっと、リュークに愛情を───
「……リュー、ク。あの日…交わした約束を……果たせそうに、ない」
「ンなの……どうでも、いい。だから…」
「……だから…最後の……約束だ」
リンウェルは力を振り絞って懐のポケットに手を入れると、何かを取り出してリュークの手に握らせる。
「……私の…部屋の中に、ある……ある場所に使う、鍵だ。……お前に、これを渡す。捨てるも…使うも……お前に、任せよう」
「なんで、今更こんなの……」
「それを見て……お前が、どうするのかも……お前の自由だ。ただ……」
焦点の合わぬ目を、リュークの紅の瞳にしっかりと向ける。強い強い、信念を抱いて。
「どうか……どうか、いたずらに人を、斬らないでほしい……私の様に、ならないでほしい……」
「なにを……」
「……リューク」
最後の力だ。リンウェルは、残る全てを腕に集中させて、たったひとりの、息子を抱き留める。
「…愛して、いるぞ……私の、子に…なって、くれて……ありが…………」
涙を流した白龍の腕から力が抜ける。自分を抱き締めた大きな腕が、地面へと落ちた。
「…………父、さん?」
雨が降った。
先の戦闘で燃え広がった火が、消えていく。
雨が降る音。
黒い龍の嗚咽が響き渡った。