弐.転換地点ー前篇ー
自宅の周辺は広大な森に囲われている。
リューク・ムリフェインは野山を刀ひとつ携えて駆け抜ける。その速度は、一般的な龍人のそれよりなお速い。
不安定である筈の足場を、平地と大差ない速度で駆けるなど、果たして可能であろうか。
するとリュークは足を止めると、木々のあいだの茂みに身を隠す。
目線の先には、一頭の牡鹿。
群れからはぐれたらしいその個体は、周囲を見渡しながら呑気に草を食んでいる。
リュークは刀の柄に手を掛けると、一息に駆け出した。
牡鹿はリュークの存在に気付くが、もう遅い。
刹那の間に鞘走ると、銀閃が閃き……気付けば、牡鹿の首を刎ねていた。
首から下は、斬られた事を自覚していない様に棒立ちしたままだ。
「このデカさなら、干し肉にすりゃ数日はどうにかなるだろ」
そう告げながらリュークは狩った牡鹿を引き摺りながら近くの小川に移動し、さっさと血抜き作業に移る。
首をバッサリ落としたので、そのまま放血し肉の部位ごとに刀で捌いていく。
解体後、肉を小川で洗っては持ち込んでいた袋の中に放り込み、鞄の中に収めては背負う。
「さて、帰っか。師範の方も下拵えくらい、終わらせてンだろ」
今日は鹿肉をふんだんに使うらしい。
鹿肉が好物であるリュークからすれば、ご馳走の山だ。並べられる料理の数々を思い浮かべては涎を垂らす中……黒煙が昇っているのに気が付いた。
最初は山火事かと思った。
だが、違った。
黒煙の元が、自身らが住まう小屋からであったからだ。
「師範ッ……!」
◆◆◇◇
数刻前。
リンウェルは夕食の下拵えの為、台所でエプロンと三角巾を身に付け、調理に取り掛かっていた。
「(リュークは忘れているだろうが……今日はあの子を拾った日……つまり、あの子の誕生日だ)」
リンウェルが一際力を入れて料理するのも、リュークを狩りに行かせたのも、全てこの日の為だ。
リューク・ムリフェインとリンウェル・ムリフェインに血の繋がりはない。
十年と数年前にリュークを拾い、その日をリュークの誕生日に定めては今日まで育ててきた。
父親ではないが、少しでも親らしい事でもしようと計画してきたのだが……肝心の材料である肉が不足していた為、そこはリュークに任せてしまった。自分で狩りに行ってから料理し始めてしまうと、日を跨ぎかねない。
自分の情けなさに憤慨しそうだが、リンウェルとしては今日中に振る舞いたい。
包丁で香草や茸を切っている時。
玄関の扉が開かれる音がした。
……それが、全ての始まりの音でもあった。
「おかえりリューク……では、ないな。……誰だ」
リンウェルは玄関の方を一瞥せずに、気配だけで息子の気配ではない事を悟る。
自身と息子には無い、魔力の気配。それだけで判別するには十分だ。
「……耄碌はしていないようだな。リンウェル・ムリフェイン」
「…なんだ、君か。すまないが、後にしてくれ。今日は可愛い愛息子の誕生日なんだ。その準備をしなくちゃいけない。どうか出直してほしい」
「貴様の事情など興味無い。俺はただ、俺の仕事を済ませるためにここに来た」
黒いローブを羽織った男は、リンウェルとは知り合いのようだ。外套に取り付けられた帽子を目深く被っているが、紅の鱗に覆われた口元が飛び出ている。
リンウェルやリュークと同じ、龍人。
「……私を殺しに来たのだろう。誰の差し金だ? 陛下…ではないな」
「優しすぎる陛下が、貴様を殺す訳ないだろう。“あの方”は貴様の事を危険視している。恨むなら、過ぎた技能を身に付けた己を恨め」
男が吐き捨てると、その周囲を紅蓮の炎が燃え盛る。
魔法。詠唱と呼ばれる言葉を紡ぎ、自身や大気にある魔力を媒介に様々な現象を引き起こす技術だ。
本気で、リンウェルを殺す気でいる。
その様子にリンウェルは男の方に意識を向けながら、ため息をひとつ零す。
「……全く。私は───」
風切り音。遅れて、強く床を踏み付ける音。
そのふたつを認識した男は、反射的に頭を後方に逸らす。
しかし、回避が遅れた。喉から微かに血が噴き出す。反応が更に遅れた場合、頸動脈を掻っ切られていただろう。
「───極力、人を斬りたくないのだがね」
リンウェルの手にあったのは、先程まで調理に使っていた包丁だった。
一息で距離を詰め、その短い間合いでありながら剣豪が振るえば必殺となる包丁の刃を、龍の鱗と鱗の隙間に正確無比に差し込んだのだ。
その刃には血の一滴すら付いていない。血液の付着よりなお速く、刃を振るう事など、果たして可能であろうか。
とはいえ普通の刀剣以上に間合いを詰めねばならないが……それ自体、リンウェルという剣豪からすれば、些細な問題である事に変わりはない。
「……やはり貴様は恐ろしい。“虚龍一刀流”なる異能の剣術の使い手、リンウェル・ムリフェイン。予感はしていたが、何も衰えていないな…!」
「これでも、以前と比べたら大分遅いのだがね。……私も歳だな。長命種たる龍人であろうと、歳には敵わないか」
自身へ向けた嘲笑の言葉を呟きながら、手にある包丁をくるりと回して握り直す。
「それと」
刹那。先の攻撃以上の速度を以って、リンウェルは男の腹に掌底という打撃を入れる。
あまりの速さに男は反応が追い付かず、胃液を吐きながら突き飛ばされ、扉を吹き飛ばす形で外へと放り出される。
「室内で炎魔法は、やめてほしい。あの子との思い出が詰まった、大切な家なんだ」
先まで扉だった木片を蹴飛ばして家から出てきたリンウェルは、冷酷な視線を男に向けながらそう告げる。
リンウェルもまた、渋々といった様子だが……男を殺す気でいる。
「化け物め…!」
「失礼な。私は魔法が使えないだけの、ただの龍人だよ」
男からの侮蔑の言葉を、リンウェルは笑みを浮かべながら返す。しかしその目にはなんの感情もない。
どこまでも冷酷な、生命を斬る、剣士の目。
男もまた、隠し持っていた剣を抜くと、炎の魔法を剣身に纏わせる。
互いに剣を構え、静止。
静寂を破って先に仕掛けたのは、男の方。
距離を詰めながら火炎を纏う剣を、リンウェルへ向けて振り下ろす。その剣筋は、リンウェルを斬殺できる軌道だ。
「剣士相手に」
包丁の腹で剣を押す。相手の力のままに押された剣は緩やかな弧を描いてリンウェルから逸れる。
「剣を使うのは、愚策だ」
渾身の振りを難なく逸らされ、男は姿勢を崩す。
その僅かな隙に対し、剣豪は包丁を逆手に持ち直すと、その刃を首へと突き立てる。
龍鱗の間に差し込まれた刃は、肉を、血管を裂くより早く、男は首を横に振って完全に斬られる前に回避する。
「ッ、何故だ……俺は貴様より強くなった…強くなった筈なのだ!」
飛び退き、リンウェルから距離を取った男は、激情と共に叫びながら独白する。
対して、リンウェルは侮蔑する様な、冷ややかな眼差しを向ける。
「馬鹿な事を。そも、私相手に剣を使うのは愚策だと、先程も言っただろう。それとも、私に剣で勝てる事ができると、本気で思っていたのか? なぁ、イグナス」
イグナス、と呼ばれた男は顔を上げると、深い深い憎悪と怒りの感情がこもった目をリンウェルへと向けては、牙を剥き出す。
「黙れ! 俺は貴様よりも遥かに上なのだ! 魔法も使えぬ龍人風情が、思い上がるな!!」
「では」
白い剣豪が消えた。気付けば、既にイグナスの懐に入り込んでいて、手にある包丁を振りかぶっている。
「私より強いのなら、懐に入る事を許す馬鹿が……どこにいる」
人外の膂力によって振り抜かれた剣は、イグナスの胸部を切り裂く。
「馬鹿が」
事はなく。リンウェルの手にある包丁は、イグナスの身体をすり抜け……刀身はドロリと溶け落ちる。
魔法。リンウェルはそこまでは理解する。
しかし、知らない魔法だ。攻撃をすり抜け、逆に相手の武器を破壊する魔法など、リンウェルの知識にはない。
直後。リンウェルに衝撃と共に何かが突き刺さる。
「……ごふっ」
剣豪の胸には、一振の剣が突き刺さっていた。イグナスの使っていた、一般的な両刃の剣。
血を吐き、力無く膝を着いたリンウェルを、イグナスは乾いた笑みと共に見下ろす。
「は、はは……そうだ、俺は、俺は! 貴様より強いのだ! 理解したか? 調子に乗るからだ、ざまあみろ!!」
嘲笑し、リンウェル・ムリフェインという男を見下す言葉の羅列を並べるイグナス。
対してリンウェルは、刻一刻と迫る自身の死を受け入れていた。だが、受け入れきれない点も、多々あった。
たったひとりの、血の繋がりがなくとも…息子と呼んだ少年を、置き去りにしてしまう事。そして……
「(せめて……せめて、十六の誕生日くらい、祝って…やりたかったな……)」
大きな後悔があるとすれば、それだ。
それが出来ない事が心残りでもある。せめて、最期くらいは───
「師範ィ!!」
ああ。帰ってきたのか。帰ってきて…しまったのか。
たったひとりの、我が息子よ。