気になるけど伝えられないもどかしさ、切なさ
物語の始まりは、静かな夜の街から。
深夜の静寂の中、かすかに響くピアノの旋律。それは哀愁を帯びながらも、どこか優しく、まるで誰かの記憶を紡ぐかのように流れていた。
奏多は毎晩、この旋律を耳にしていた。けれど、演奏者の姿を見たことはない。ただ、その音に導かれるように、気づけば足が動いていた。
やがて彼は、一軒の古びた劇場の前に立つ。長らく使われていないかのような扉を押し開けると、そこには一人の少女がいた。月明かりが照らす舞台の上、彼女は静かにピアノを奏でていた。
奏多は息をのむ。その旋律は、言葉では表せないほどの切なさと、どこか懐かしさに満ちていた。
「君は……?」
思わず声をかけると、少女はそっと手を止め、奏多を見つめた。淡い微笑みが浮かぶ。
「これは、届かないシンフォニーだから——」
劇場の静寂の中、彼女の言葉はまるで音楽の一部のように響く。
奏多と響の出会いが、静かに、しかし確かに、新たな物語の幕を開けた。
その日から、奏多は夜ごとに劇場へ足を運ぶようになった。
響が奏でる旋律を聴きながら、彼は少しずつ彼女のことを知っていった。
響は、かつて天才ピアニストと呼ばれながらも、ある日突然、人々の前から姿を消した少女だった。彼女の音楽は「誰にも届かない」運命を背負っていた。
「それでも、君の音楽は美しいよ。」
そう伝えるたびに、響の演奏は少しずつ変わっていった。
劇場の舞台で、響はいつも一人きりだった。その旋律は、まるで過去の何かを抱えたまま、外の世界へと旅立つことを拒んでいるようだった。
しかし、奏多の存在が、彼女の音を少しずつ変えていった。
ある夜、響はそっと言った。
「奏多君、私の最後の曲、聴いてくれる?」
静寂を切り裂くように、劇場に満ちる旋律——それは、彼女の心そのものだった。
この旋律は、届かないはずだった。
けれど、奏多の心には、確かに響いていた。
そして、その旋律が終わるとともに、響はゆっくりと奏多を見つめ、微笑んだ。
「ありがとう。これで、やっと——」
彼女の言葉は夜に溶けていった。
翌日、奏多が劇場を訪れたとき、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、ピアノの上に、一枚の楽譜が置かれていた。
それは、彼女が最後に奏でた「届かないシンフォニー」だった。
楽譜の端には、かすかに書き残されたメッセージがあった。
『奏多君へ。私の音を、あなたが受け取ってくれてありがとう。』
涙が、楽譜の上に落ちた。
劇場の静寂の中、奏多はそっとピアノの椅子に腰を下ろし、鍵盤に指を添えた。
そして、響の旋律を、もう一度この世界に響かせるために——。
彼は、静かに弾き始めた。
その音色は、夜の空に溶けていくようだった。
まるで、遠くにいる響に届くことを願うかのように——。