本土にて ~ その④
私は初出勤の日の夜、自分の部屋の布団で横になっていたが眠れずにいた。
夕食の時もぼうっとしていたらしく、涼子さんを心配させてしまった。
「どうしたの? 何だか食が進まないみたい」
「え? ああ、すみません。少し考え事を……」
私は会社の給湯室から聞こえたベテランOL二人の話がずっと頭の中でぐるぐるしていたのだ。折角の夕ご飯の味もろくにわからないでいた。
涼子さんが心配そうな顔をする。
「会社で何かあった?」
叔父さんやお婆さん、お爺さんまで心配そうな顔を私に向ける。でもまさか涼子さんに折角作ってもらったお弁当のことで嫌味を言われたとはとても言えない。
「いえいえ! 慣れないことで少し疲れただけです」
私が慌てて言い訳をすると、涼子さんは少し納得しかねたような顔をするが、しつこくは聞かないでいてくれる。
「そうなの? それならいいけど」
夕食の後もお風呂を先に譲ってくれた。私が言い出したことではあるが、いつもは私が最後に入り、お風呂掃除をしてからあがるようにしていたのだ。
「今日は疲れているだろうから、先にお風呂に入っていらっしゃい。ゆっくり入って、できるだけ疲れが取れるようにね。お掃除は私がやるから遠慮しないで」
私は涙が出て来るのを我慢して言う。
「ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えます」
涼子さんのお気遣いに甘えて、私はゆっくりと湯船に浸かった。でも湯船に体を沈めている間もずっと昼間のことが頭をぐるぐる回っていた。そうしてお風呂からあがって涼子さんたちにおやすみを言って部屋にひっこんで布団を敷き、体がほこほこしている間に布団に潜り込んだのだが、いつもなら数分で寝入ってしまうはずが今日ばかりはいつまでたっても寝入ることができなかった。
ふと思いついて起き上がり、壁掛け時計を見ると思ったより時間が遅くなかったので、携帯をひっぱりだして番号リストから結ちゃんの番号を表示させる。
私はしばらく携帯に表示された結ちゃんの番号を見つめながら、島でのことを思い出していたりした。島での生活も色々と大変なことはあったが、こんなに心がざわついたことはなかった。よくよく考えてみれば、あのベテランOL達は私をイジメていたわけでもない。ただ陰口を叩いてただけだった。それにもかかわらず、私の心はこんなにかき乱されている。私は自分が情けなかった。ふと中学の修学旅行で私を見て『島から来た人たちか』と蔑んだ学生の声が頭をよぎる。どうやら私はそうした事がひどく苦手なようだ。今更ながら自分の弱い面を目の前に突き付けられているような気分だった。
そんな情けない気持ちでいると結ちゃんに電話をしてみようかと思い立った気持ちが鈍る。結ちゃんは私のこんな情けない様子を見て何と思うだろうか? やっぱりと思うだろうか、それとも意外だと思うだろうか……。でも私は思い出す。島を出るときに結ちゃんが私に言ってくれた言葉を。
「何かあったらメールか電話してね。何時でもいいから」
その言葉に背中を押してもらって、私は結ちゃんの番号が表示された携帯のコールボタンを押した。
RuRuRuRuRuRu……
コール音が聞こえる。私の心臓はコール音に同調するようにどきどきしていた。二回、三回、四回……。コール音は鳴り続ける。私の心臓も鳴り続ける……。
「もしもし美沙子ちゃん? 元気だったー?」
まるで暖かい春風のような結ちゃんの声が耳に飛び込んでくる。私はその声を聞いただけで泣いてしまいそうだった。
「うん……。元気だよ。結ちゃんは?」
私はなんとか泣き出さずに言葉を口にできたが、声は少し震えていたと思う。
わずかに間をおいてから、結ちゃんは言葉を続ける。
「……元気元気! まあ今は少し大変ではあるけど。美沙子ちゃんが本土に行ってすぐ後くらいに生産計画作成部門に移動になったんだよね。でもやっぱりまだ慣れてなくって……」
私の心は結ちゃんの言葉を聞くたびに少しずつ元気を取り戻していくようだった。
私は結ちゃんに聞く。
「チーフはちゃんと教えてくれてる?」
「うんうん! ちゃんと丁寧に教えてくれてるよ! ……っていうか、ちょっと丁寧すぎる感じかもしれない。もしかして美沙子ちゃんチーフさんに何か言ったりした?」
恋する乙女は勘も鋭いらしい。でも私は誓って結ちゃんが困るようなことは言っていない。
「結ちゃんは私の親友だから、大事にしてくださいねって言っただけだよ? 結ちゃんの気持ちは結ちゃんがちゃんと伝えないとって思ってたから」
結ちゃんはくすりと笑って言う。
「うふふ、まあそうかなとは思ってたけど。うぅ……美沙子ちゃんがそんなこと言うから思い出しちゃった。私、翔次さんにちゃんと言えるかなぁ……。うわー、すごいプレッシャーだよー……」
「頑張ってね。私は結ちゃんができる子だって思ってるから」
私がそう言うと、結ちゃんは笑って言う。
「ええー……、それは買いかぶりすぎだよ……。でも頑張る」
「うん、頑張って」
私たちはお互いにくすくすと笑い合った。
私たちは小一時間も他愛もない話をした。私はこの家に来てからのことを話した。涼子さんのこと、叔父さんのこと、お婆ちゃんお爺ちゃんのこと、一緒にマグロのご馳走を作ったこと……。
そうしてふと会話が途切れた時に時計を見て気が付いた私は言う。
「……もういい時間だね。結ちゃん明日も仕事でしょ? 今日はこのくらいにしようか」
結ちゃんはまた少し間をおいて言う。
「……うん、そうだね。美沙子ちゃんもだよね。ちゃんと寝ないとね」
「今日は嬉しかった。結ちゃんと話せて」
「うん、私もだよ。美沙子ちゃんと話せて嬉しかった。また電話してね」
「うん。また電話する」
「……美沙子ちゃん?」
結ちゃんが少し間を空けて言ったので、私は結ちゃんに聞き返す。
「ん? 何?」
「……辛かったら、いつでも帰って来てね。待ってるから」
もう私は我慢ができずに泣き出してしまった。
「うん……。ありがとう……結ちゃん……」
「美沙子ちゃん……。私の親友の美沙子ちゃん。無理はしないでね」
「うん……ありがとう……」
そうして私は改めて結ちゃんにおやすみを言って電話を切った。
私は部屋の灯りも点けていなかったことに気が付いた。私は涙を拭いて携帯を枕元に置いてからノソノソと布団に潜り込み、そのまま朝までぐっすりと眠ることができたのだった。
翌朝は早くに目が覚めた。私はこれ幸いと飛び起きてから階下へ行って顔を洗い、台所に顔を出した。
「おはようございます」
私がそう言うと朝ご飯の支度をしていた涼子さんが振り返りつつ驚いた顔になる。
「おはよう。随分早いのね、まだ寝てていいのに」
そんな涼子さんに私は笑顔になって言う。
「ありがとうございます。でもできれば私、涼子さんにお弁当の作り方を教わりたくて……」
涼子さんは一瞬きょとんとした顔をしたあと、安心したように笑顔を浮かべて言う。
「……そうなの? お安い御用だけど。それじゃ玉子焼きからいきましょうか」
そうして私は涼子さんに教わりながらお弁当を作って、そのまま朝ご飯の支度も手伝った。叔父さんやお爺ちゃん、お婆ちゃんも起きてきて言う。
「おや今日は美沙子ちゃんも朝ご飯を作ってくれたんだね。ありがとう」
「いえ居候ですから、これくらいはしないと」
私がにっこり笑ってそんなことを言うと、叔父さんも笑顔で言う。
「そんなこと気にしなくていいのに。でも美沙子ちゃんは、いい嫁さんになりそうだね」
昨日の夜に夕ご飯の味がわからなかった私は、今日の朝ごはんはおいしく食べることができた。
私はまた朝のラッシュに揉まれながら出勤した。朝礼の時、私の向かいの男性(貴久さんという方だと後から紹介された)が今日の業務について話した後、遥香さんが私の業務について説明する。
「美沙子さんには今日からアルバイトの勤務データ入力をやって頂こうと思っています。香織さんと沙織さんは入力のやり方を教えてあげてください」
何だ全部遥香さんが教えてくれるわけじゃないのか……。私は例のベテランOLと直接口を聞く機会があるとわかって少し緊張したが、思ったより動揺していなかった。我が親友、結ちゃんとお喋りして元気づけてもらったお陰だろうと思った。
ベテランOLの一人、香織さんから紙の束を渡される。
「経理アプリ起動できる? うんそれ。こっちが紙データだから、アプリのフォーマットに合わせて入力していくだけだけど、量が多いから気を抜かない方がいいよ。あまり急いで無理して誤入力するよりいいけど。わからないことが出てくるようなら声を掛けて」
「はい。ありがとうございます」
香織さんは意外にちゃんと説明をしてくれたので驚いた。私はこの女の人が仕事の上ではきちんと接してくれたので安心した。さすがに仕事上のことでいじわるをするような子どもっぽいことはないらしい。
私は紙データの内容を経理アプリで入力していきながら、頭の片隅では二人のベテランOLについて考えていた。個人的な好みで私の陰口を叩くのは仕方のないことなのだろう。でもそれを仕事に持ち込まないのは、この人たちなりの矜持なのかもしれないと思った。私は慣れない陰口を聞いてすっかり動揺してしまっていたが、仕事上のやり取りがきちんとされるのならそれなりに筋が通っているようにも思えた。
「きっかけさえあれば、仲良くなれるのかもしいれないな……」
私は結ちゃんに助けてもらってひどい動揺から立ち直り、多少なりとも心に余裕を持つことができていたらしい。私は手を動かしながら、こっそりと結ちゃんに感謝していた。
そうしてお昼の時間になった。私がお弁当包みを広げていると、香織さんと沙織さんが私をちらりと見てからオフィスを出て行くのが見えた。
今日のお弁当は昨日のお弁当の一口カツが小アジのフライに変わったバージョンだった。根菜の煮物と玉子焼き、ブロッコリーとミニトマトは定番おかずだ。私は自分に負担をかけないようにしつつ毎日のお弁当を作るということを教わったのだと思った。慣れてくればもっと色々おかずを変えて作れるようになるかもしれない。こういうやり方は涼子さん流なのだろうか? 私は色々なところに配慮ができる涼子さんと言う人の底知れなさにほとほと関心していた。
「叔父さんは果報者だなぁ……」
私は小アジのフライをかじりながらそんなことを思って、一人でくすりと笑ってしまった(昆布の佃煮とご飯ってやっぱりすごく合う!)。
そうして私は仕事に慣れていきながら、本土での生活を送ることになった。
バスや電車の朝夕ラッシュには中々慣れないが……。本土の人達は慣れているのだろうか? そういえば一度、涼子さんに聞いてみたことがある。
「朝夕のラッシュ? あー……私は結局ラッシュってほとんど経験しないできちゃってるから、あまりわからないんだよね……。でも聞くところによると皆大変だとは思ってるらしいよ? 多少は慣れるらしいけど、平気にはならないみたい。時差出勤っていうのができるといいらしいけど、それも仕事先によるからね」
週末にはお婆ちゃんから料理を教わっていた。ごんぐり煮、まだか漬け、おび天、メヒカリのから揚げ、かつおめし、などなど。
「今日のおび天は美沙子ちゃんに作ってもらいましょうか。私の方は根菜の煮物やっちゃうから」
お婆ちゃんに見てもらいながら作り方を教えてもらった料理を一人で作ってみる。お婆ちゃん曰く、料理は一人でやってみないと身につかないのだそうだ。
「あらもう覚えちゃったのね。美沙子ちゃんは優秀ね。そういえば涼子さんもお料理教えると一度で覚えちゃうわよね。最近の人達はみんな優秀なのかしら」
お婆ちゃんはそんなことを言いながらとても楽しそうだった。
そうして夏が過ぎ、秋を迎えた。旬を迎えたウルメイワシの天ぷらは格別だった。
「天ぷらって便利な調理方よね。衣をつけて揚げるだけでとってもおいしくなるのだもの。ただね、イワシの場合は小骨が多いから少し手間がいるけれどね」
私はもう魚を三枚におろすこともできるようになっていた。これは包丁の手入れさえしていればそう難しくはなかった。ウルメイワシの頭を落としてから腹を裂き、ハラワタを掻き出してからきれいにして、三枚におろす。
お婆ちゃんが言う。
「三枚におろしたらお腹側の骨ところをこうやって削るようにこそげ取っちゃうの。衣作ってくれた? ありがとう。油の温度は……大丈夫そうね。それじゃ揚げてっちゃいましょう」
天ぷらは手際のよさがコツらしい……。私は島では天ぷらをあまり作ったことがなかったのでちょっと苦手だった。上手な人の手際を見るのはとても勉強になる。天ぷらの場合、お婆ちゃんは結構勢いよく具材を油に放り込むので少しびっくりする。
「こうやって勢いよく入れるとね、見栄えが少しよくなるのよ」
とは言えすぐ真似できるものではない。こればっかりは場数かなぁ……。
一度叔父さんが伊勢海老を買ってきてくれたことがあった。
「安くていいのが出てたからつい買っちゃったんだ。この鮮度なら刺身でもうまいと思うよ」
伊勢海老を直に見るのは初めてだった。ちょっと怖い……なんかまだ生きてるし!
「伊勢海老のお刺身は、身を取り出すだけだけど殻が固いから少しコツがいるかな……」
お婆ちゃんはそう言いながら伊勢海老の頭と胴体の間に包丁を入れて分解してから、切り離した胴体の方をひっくり返して包丁を入れていく。最後はスプーンで殻から身を引き剥がしていた。
後は身を薄切りにしてお刺身の出来上がり。頭は裏返して包丁を入れた後にお鍋に入れてお味噌汁にした。
お刺身ぷりっぷりでおいしい……! お味噌汁も風味が上品でとてもおいしかった。これは忘れられないかもしれない……。
私は月に一度くらいのペースで結ちゃんに電話をしては小一時間くらい世間話をしていた。結ちゃんとの電話は、いつも私に元気をくれた。
「ねぇ……もう言ったの? チーフに?」
私がそう聞くと、結ちゃんは決まって困ったような声を上げた。
「ええーー? そんなすぐには言えないよぉ……。中々きっかけが……」
そんなかわいらしい反応をする結ちゃんに、私はついからかうように言ってしまう。
「私も告白とかしたことないからわからないけど……。あんまりのんびりしてると他の人にとられちゃうかもよ?」
「もーー! プレッシャーかけないでぇー……」
んーー……。結ちゃんはほんっとにかわいいな……。私は恋バナなんて他人事だと思っていた。
そう、少なくともその時の私は他人事だと思っていたのだ……。
to be continued...
読んでくださってありがとうございます!
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