表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

本土にて ~ その③

 涼子さんたちに転職先が決まったことのお祝いをしてもらった日の翌週から、私は新しい働き先の会社に出勤することになっていた。

 月曜日の朝食の後、歯を磨いてもう一度顔を洗ってから髪をとかして纏め、スーツに着替えた。私はお化粧にあまり時間をかけない方だと思う。……というより時間をかけるほど念入りにお化粧ができないのだ(マスカラとかアイライナーとかチークとか、しっかり用のメイクも持つだけは持っている……が使ったことはない)。そういうわけでいつものナチュラルメイク(便利な言葉だ!)をしてから出勤するための持ち物を確認して、鏡の前で身支度をチェックする。

「うん。大丈夫そう」

 そうして私は階下へ降り、台所で朝ごはんの後片付けをしている涼子さんに声を掛けた。

「それじゃいってきますね」

 涼子さんは洗い物をしている手を止めて私に言う。

「もう出るのね。あ、ちょっと待って」


 涼子さんはテーブルの上に置いてあったお弁当の包みを渡してくれながら言う。

「持って行って? あまり豪華なお弁当じゃないけれど、節約にはなるでしょ?」

 いつの間にお弁当など作っていたのか……。本当に涼子さんのお心遣いには頭が下がる。

「ありがとうございます。とても助かります」

 私は感謝の気持ちを込めて、笑顔でおじぎをして言った。

 涼子さんも笑顔になって言う。

「思ったより緊張していなさそうでよかった。いってらっしゃい」

「いってきます」

 私はまたぺこりと頭を下げてから、台所を出て叔父さんの家を後にした。


 バス停のところまで来てぎょっとする。バス停には二十人くらいの人がずらりと並んで行列を作っていた。通勤時間帯に人が多くなることは涼子さんから聞いていたが、実際に目にして少し驚いてしまった。勿論島でもバス停に人が並ぶことはあるが、いいところ三、四人といったところだ。

「やっぱり本土って人が多いんだな……」

 私はこっそりそんな独り言を言ってしまった。


 私が初出勤で驚いたのはバス停だけではなかった。ぎっしり人が乗っているバスの車内、人で溢れかえる駅構内、ホーム、ぎゅうぎゅうに詰め込まれる通勤電車……。本土の人達は毎日こんなことをしているのか……。ううん、他人ごとではない。これからは私も毎日こんなことをするのだ。何とか慣れなければと思いつつ、こんなことなら面接ついでに朝のラッシュも経験しておけばよかったと思った。

 私は会社に着くまでに結構消耗してしまっていたが、会社の入っているビルの前まで来て頬をぴしゃりと叩いて気を引き締めた。


「おはようございます。美沙子さんですね。こちらへどうぞ」

 受付に行くと面接の時と同じ女の人が案内してくれた。結構広いオフィスの中を通って会議室の一つに通される。途中、何人かの社員の人と目が合ったので、私はちょこちょこと頭を下げながら女の人の後について行った。

「すみません。美沙子さんの席を用意しているところなので、少しここで待っていてください」

 年齢は私よりいくつか上らしいその女の人がそんなことを言ってくれたので、私もおじぎをしながら言う。

「承知しました。よろしくお願いします」


「少し落ち着く時間があってよかったな……」

 その女の人が会議室から出て行ったあと、私は新しい仕事に入る前に少し時間がもらえたことにこっそり感謝しながらそんなことを思った。ラッシュで消耗した気持ちや体力を回復する時間があるのはありがたかった。

 少し落ち着いてから会議室の中を見回してみる。面接の時に使われた会議室とは別の会議室だった。製糖工場にも勿論会議室はあったが、私は入ったことがなかったので、少し不思議な感じがした。工場の会議室には縁がなかったけど、本土の会議室には縁があるんだななんて思うと少しおかしかった。

 会議室の扉をノックする音がして、さっきの女の人が顔を出した。

「お待たせしました。美沙子さん? 席に案内します」


 私はまた先程の女の人の後について会議室を出た。

「ここを使ってください。もう少ししたら部署ごとに朝礼をやりますので、それまで座って待っていてください」

 席は会議室近くのシマの端っこだった。先程の女の人が向かい側の席に座る。

「私の席はここなの。申し遅れましたけど、私は遥香(はるか)と言います。わからないことがあったら何でも聞いてね」

 私は運がいいと思った。聞きやすそうで頼りになりそうな人が近くにいるのはとても心強い。

「はい。ありがとうございます」


 私が割り当てられた席に座って筆記用具やらを広げていると、向かいに座っていた女の人……遥香さんが何枚かの書類を持って私のそばに来た。

「初日は大体使ってもらうパソコンのセットアップで終わっちゃうと思うけど、手順書を見ながらこのノートパソコンのセットアップをしてね。あ、もう朝礼が始まるから、あっちの会議室へ行きましょうか」


 それほど広くはない会議室に私が配属された総務部の人達、男性二人、女性四人の六人が集まった。とはいえ全員で会議机を囲むように立ったままだ。そういえば朝礼って立ったままやるんだっけ。私は遥香さんの隣に立っていた。

 遥香さんが私の方をちらりと見てから言う。

「本日から総務部に配属された美沙子さんです。美沙子さん? 簡単でいいので自己紹介をお願いします」

 私に何か言わせるのなら先に言っておいて欲しかったと思わなくもなかったが、新しく配属された人間が何か挨拶の言葉を言わされるのはごく当たり前のことなのかもしれないとも思い直して、急いで頭を回転させて当たり障りのない事だけ言うことにした。

「美沙子です。ご迷惑をおかけすることもあるかと存じますが、よろしくお願いいたします」

 そう言って私がぺこりと頭を下げると、総務部の人達がパチパチと手を叩いた。


「ありがとうございました。それでは、お一人ずつ今日の予定業務を教えてください」

 遥香さんがそう言うと、私の向い側に立っていた男性が口を開いた。

「それでは私から。昨日に引き続き先月分売上集計と分析を進めます。昨日までで集計の方は概ね終わったので午後辺りからは……」

 年齢は私とそう変わらないように見えたが、今日の予定業務として話している内容はとてもしっかりしているもののように聞こえた。正直少し焦りを感じてしまう。


「私は先月分の全社員分勤務表のチェックを進めます」

「私はチェックの終わった勤務表から勤務時間集計と給与計算を進めるようにします」

 男の人の隣とその隣に立っていた女の人二人がそんなことを言った。二人とも年齢は遥香さんと同じか少し上くらいに見えた。ベテランOLと言った感じだ。


「それでは今日もよろしくお願いします」

 最後に部長らしい人が締めくくって朝礼は終わった。私を含めた総務部の人達は、部長を先頭にぞろぞろと会議室を出て自分たちの席に戻って行ったが、途中先程の女の人二人は何やら親し気に言葉を交わしていた。どうやら仲がいいらしい。


 まだ自分の席という実感の湧かない椅子に座った私に遥香さんが言う。

「パソコンのセットアップでわからないことが出て来るようなら言ってね」

「はい。ありがとうございます」

 私は親切に私の世話を焼いてくれようとする遥香さんに感謝して言った。パソコンの性能はそう悪くないと思うのだが、会社で使うことが決まっているセキュリティソフトやら経理アプリやらをインストールしたり手順書通りに設定したりするのには、やはりとても時間がかかった。


 もうお昼になるという時間になってから、遥香さんが私に声を掛ける。

「そろそろお昼になるから、切りのいいところでお昼休みにしてね。外に食べに行くなら近くに色々お店があるから案内するよ?」

「ありがとうございます。でも私はお弁当を持ってきていますので……」

 私がそう言うと、遥香さんは感心したように言う。

「あら手弁当とはすごいね。私はそんなにマメじゃないから尊敬しちゃう」

 私は慌てて言葉を返す。

「いえいえ。私が作ったんじゃないんです。今お世話になっているお家の奥さんが作ってくれたんです」

「そうなの? それはちょっと羨ましいかな。外食も続くと飽きちゃうからね。給湯室にポットが置いてあるからお湯が必要なら使っていいし、飲み物の自動販売機も給湯室のそばにあるから」

 そう言ってから遥香さんはオフィスの外へ向かって歩いて行った。遥香さんは外食ということなのだろう。ふと気が付いて見回してみると、オフィスのほとんどの人は外食らしく。席に残っている人はほとんどいなかった。


 セキュリティソフトのセットアップが終わると、ソフトがハードディスクのウィルススキャンを始めたのだが、これが結構時間がかかるらしい。私は様子を見ながらお昼にすることにした。

 涼子さんが持たせてくれたお弁当包みを机の上に出して広げると、小ぶりのお弁当箱が入っていた。息子さんが使っていたものしては小さすぎるから、涼子さんが使っていたものなのかもしれない。 


 お弁当のふたを開けると、彩のきれいなおかずと丁寧に海苔が敷き詰められたご飯が顔を出した。一口カツに根菜の煮物、玉子焼き、ミニトマトに茹でたブロッコリー。とてもおいしそうだ。食べ始めてわかったが、海苔の下に昆布の佃煮が敷き詰めてあった。なんとマメなお心遣いだろう。私は涼子さんに感謝しながらお弁当を食べ始めた。

 食べ始めてから気が付いたが、朝に食卓に出たおかずと被っているのは根菜の煮物だけで、一口カツと茹でたブロッコリー、玉子焼きはお弁当のためだけに用意されたものだった。


 私が島にいた時、父が漁に出るときは大抵早朝だったが、私が学校に行くために起きてくるとだいたい簡単な朝ご飯が用意してあったので、もしかしたら父はお弁当も作っていたかもしれない。少なくとも私は父のお弁当の心配をしたことがなかったことに気が付いた。そうして私はこのまま涼子さんに甘えていてはマズい気がすると思ったのだ。

「頃合いをみて朝ご飯の手伝いくらいはしないとな……」

 そんなことを思いながら、私は涼子さんの作ってくれたお弁当をおいしくいただいてから(いい具合にソースの染みた一口カツ、ほんのり甘い玉子焼き、テッパンの根菜の煮物、いい具合にマヨのかかったミニトマトにブロッコリー、……昆布の佃煮ってなんでこんなにご飯に合うの?)、私はリップを付け直すためにトイレに行くことにした。


 私がトイレでリップを付けなおしてからオフィスに戻る途中、給湯室から声が聞えて来た。私と同じ総務部の二人の女の人の声らしい。

「ねえ、今日入った女の子、どう思う?」

「顔はちょっとかわいいんじゃない? ちょっとね」

「ちょっとね、ちょっと。あと島出身なんだって? 話合わなそーー」

「んねーー! それとお弁当持って来てんの見た? アタシ料理デキるのアピール、ウッザ!」

「あーー! 思った思った。ウザいよねーー」


 私は二人に気付かれないようにそっと自分の席に戻った。パソコンを見るとウィルススキャンは終わっている様だった。次は何だっけ……、ええとパソコンのセットアップの手順書? 手順書は……。

「美沙子さん? 大丈夫? 顔色がよくないみたい」

 遥香さんが私に声を掛けてくれた。

「そうですか? ご心配をおかけしてすみません。大丈夫です」

 そう言いながら、私は頭がぐるぐるして手順書の内容が頭に入って来ないことに四苦八苦していた。



to be continued...

読んでくださってありがとうございます!

皆様に幸多からんことを!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ