本土にて ~ その②
「忘れ物はない?」
朝ご飯を済ませて、玄関を出ようとする私に涼子さんが声を掛けた。
「筆記用具と身分証明書と印鑑と携帯と……。大丈夫です」
私は面接に来るように連絡してきてくれた会社から電話で言われたことを思い出しながら答えた。
涼子さんがハンドタオルを渡してくれながら言う。
「ハンカチの他にハンドタオルもあった方がいいよ? 今日は暖かいから。それとお化粧セットは持ってる? お化粧がくずれた時でも慌てないように」
「ハンドタオルお借りします。化粧ポーチは一応あります。ありがとうございます」
どんな時でも化粧ポーチを持ち歩くように言ってくれたのは結ちゃんだ。なんでも「乙女の嗜み」なのだとか。結ちゃんのお母さんからよく言われるのだそうだ。
「だってご飯の後とかでリップ付け直したりするでしょ? そうでなくても私は汗っかきだから、乳液とかは欠かせないの」
工場に就職してからではあったが、お化粧については結ちゃんと結ちゃんのお母さんに随分お世話になった。さすがにお父ちゃんにお化粧のやり方までは教われなかったのだ。……男の人はお化粧しなくてよくて少し羨ましいとは思ったりした。
「いってきます」
私がそう言うと、涼子さんがにっこり笑って送り出してくれる。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
私は少しお辞儀をしてから、くるりと振り向いてバス停へ向かう。涼子さんが車で駅まで送ってくれると言ってくれたのだが、私は街での生活に慣れるためにと、丁重にその申し出を断った。
バスは時間通りに来た。ラッシュの時間帯を過ぎていたので、バスも電車も比較的空いていたと思う。電車の乗り換えには少し苦戦したが、涼子さんが教えてくれた通り、乗り換えが必要になる度に駅員さんに聞くようにしたので迷わないで目的の駅まで辿り着くことができた。落ち着いて見回して駅構内の案内板を見つけられさえすれば、一人でも大丈夫のように思えた。……案内板がちゃんと見つけられればではあるが。
私は目的の駅まで辿り付けた。あとは携帯のGPS機能が頼りではあったが、私はこの機能にも大分慣れてきていたので、迷わず目的の会社の入っているビルに辿り着くことができた。まずは上々というところだろう。
「時間になったら用紙を回収しに来ますので」
私は小さな会議室の一つに案内され、まずは筆記試験を受けるように言われた。筆記試験はそれほど難しいものではなかった。筆記試験の後、採点の為の時間をおいて私は面接を受けることになった。
「島のご出身ということですが、どのようなお仕事を?」
「今のお住まいはどちらに? 通勤時間はどのくらいですか?」
「月締めや年度締めの時期には残業もありますが、大丈夫ですか?」
噂に聞いた「アッパク面接」とやらではなかったと思う。私は思ったほど緊張していない自分に気が付いた。今の自分のこと、自分にできることをそのまま話せばいいと思っていたからだ。父や涼子さんのお陰だと思う。
面接が終わって会議室から出ると、会議室前の通路で私と同年代くらいの男の人とすれ違った。すれ違いざまに会釈してきたので私も会釈を返す。その時、「ああ落ちた」と直感した。この人は私と同じこの会社への転職希望者で、私よりもこの会社の求める能力を持っている人だと感じたのだ。
私は帰り道、ゆっくりと面接でのやり取りを反芻していたりしたが、ビルから出るときにすれ違った人のことが頭から離れなかった。落胆を感じざるを得なかったが、やれることはやったという割り切る気持ちもあった。正直自分でも少し意外だった。涼子さんが島育ちの私を肯定してくれたことで、私の自尊心は自分でも驚くほど揺らがなくなっていたのだ。
「涼子さんってすごい人だな……」
私の中で涼子さんに対する信頼感が高まっているのを感じた。父から離れて本土で生活している私にとって、これはとてもありがたいことだと思った。
「で、どうだったの? 初めての面接は?」
夕食の時、涼子さんからそんなことを聞かれた。私は正直に答える。
「やれることはやりましたけど、難しいですね。同じ日に面接したらしい人がいたんですけど、どうもその人の方が受かりそうに感じました」
「謙虚ね。でも落ち込んでなさそう? そういうのはとても大事だと思うよ。頼もしいね」
涼子さんは、にっこり笑ってそんなことを言った。
叔父さんも小アジの南蛮漬けを頬張りながら言う。
「すごいねぇ。俺が初めて面接してた頃は、とてもそんな余裕なかったなぁ」
「面接初めてではないですけど……、でもこっちの会社で普通に話せるのは涼子さんのお陰だと思ってます。涼子さんに色々元気づけてもらったから……」
私がそう言うと、涼子さんがにっこり笑って言う。
「あら嬉しい。美沙子ちゃんの力になれてるのならよかった」
次の会社の面接は二日後だった。私は今度も準備は充分にして、時間にも余裕をもってその会社に向かった。
「島のご出身ということですが……」
筆記試験の後は面接だったが、された質問は先の会社と概ね同じだったし、私は落ち着いて答えられたと思う。ただ一つ違うところは、帰りに誰ともすれ違わなかったことだった。
そうして私は二つ目に面接した会社に入社することになった。
涼子さんたちは、私の転職先が決まったことをとても喜んでくれた。
涼子さんが私に聞く。
「お祝いしないとね! 食べたいものとかある?」
叔父さんも、にこにこしながら乗っかってくる。
「お祝いというと、やっぱりマグロかな。どう? マグロ?」
マグロを嫌いな人など、この世におられるだろうか? いやおられまい……多分。
「嬉しいです。マグロ」
私は多分、かなりにやけていたと思う……。アジやカツオが悪いわけでは勿論ないが、やはりマグロは別格だ。
お祖母ちゃんが、ふと気が付いたように言う。
「そうだ! 本当は主役にやってもらうことではないけれど、ちょうどいいから美沙子ちゃんも一緒に作りましょうか。マグロのご馳走」
涼子さんも、にっこり笑って私に聞く。
「そうね、いいかも。どう? やってみる?」
私も笑顔で答える。
「はい! 是非お願いします!」
そうしてその週の週末、私はお昼過ぎからお婆ちゃんと涼子さんと一緒に台所に入った。
珍しく涼子さんが得意げに言う。
「ほらこれ、今朝うちの人が市場で買ってきてくれたのよ」
お婆ちゃんも嬉しそうに言う。
「あら! 一塊買ったのね。それにカマが二つも。おいしそうね、でも五人で食べきれるかしら」
「コロ……?」
私が不思議そうな顔をしているとお婆ちゃんが教えてくれる。
「塊っていうのはブロックのこと。これは小さめに切り分けられたものではあるけれど、普通はこの単位で買ったりしないから聞き慣れないよね」
涼子さんは流しの下の開きから包丁を出したり、奥から大きめのまな板やらボウルやらを出して、私たちが料理を始めるための準備をしてくれながら言う。
「食べきれなさそうなら冷凍しちゃいますよ。私は先に血合いと赤身を外しちゃいますから、お義母さんは美沙子ちゃんとカマの方から始めててもらえますか?」
普段食事に使っている大きなテーブルの上に大ぶりのまな板が三枚と何本もの包丁が並ぶ。
お婆ちゃんがガスオーブンを予熱させてから言う。
「カマは塩焼きでいいわよね? オーブンを少し予熱させておいて……まずはカマの余分なとこ取っちゃいましょうか。外側の固いところを剝がしてっちゃいましょう」
お婆ちゃんはそう言いながら、マグロのカマのウロコが付いた皮の辺りを手際よく包丁で削る様に切り始めた。
「美沙子ちゃんもできそう? できそうならやってみて。くれぐれも手を切らないように気を付けてね」
お婆ちゃんに言われて私ももう一つの方のカマの外側の固い皮のところを包丁で削る様に切り始めた……のだが、とてもではないがお婆ちゃんのように手際よくはいかない。ただ包丁はよく手入れがされているようで切れ味が素晴らしかったこともあり、思ったより難しくはなかった。
「ほら……こことここ。ここも取っちゃっていいわ。……あら、これカマトロが結構取れそうだわ」
お婆ちゃんはカマの外側の固い皮と格闘する私にそんなことを言いながら、自分の方は早々と皮を切り終えてカマトロの部位を切り取り始めた。
私がようやくカマの固い皮を切り終えると、お婆ちゃんがカマの一部を指でなぞりながら言う。
「カマトロはね……この辺りにあるから、ここから刃を入れてこの辺りをこんな感じに切り取るの。慌てなくていいから、ゆっくりね」
私がたどたどしい手つきでカマトロを切り取り終えると、お婆ちゃんに教えてもらいながら残ったカマの部位に塩を振って予熱しておいたオーブンに入れる。
「このまま百八十℃で三十分。今のうちにご飯も炊いちゃいましょうか」
お婆ちゃんがそう言いいながら米櫃からお米をボウルに出し始めたので、私は慌てて口を挟んだ。
「私が研ぎます。炊飯器の使い方だけ教えてください」
このお家の炊飯器はガス式なので、私は使い方がわからなかったのだ。
お婆ちゃんがにっこり笑って言う。
「じゃお願い。そうね、うちのガス炊飯器は少し古いから点火も手でやらないといけないの」
父と二人で暮らしていた時に炊いていたご飯は一度に一合半位だったが、このお家では三合半位は炊くらしい。息子さんが一緒だった頃は五合位は炊いていたとか。今は私の分を入れて四合というところだ。
「美沙子ちゃんは丁寧にお米を研ぐのね。気持ちがいいわ。それじゃ研ぎ終わったらお釜に入れてね。水加減は線の通りでいいから」
お婆ちゃんに褒められて私も嬉しい。お米の研ぎ方は父に教わったのだが、考えてみればこのお家のやり方が元なのだろうと思った。
「そっちのレバーをお米の量に合わせて……、そうそう。それからガス栓を開いて、点火レバーをぐっと下に押して……、そのままそのまま……。はい、いいわ」
ガス炊飯器の使い方は中々に新鮮だった。確かにガス炊飯器の方がご飯がおいしい気がするのだが、島ではあまり使う気になれないと思った。島のプロパンガスはイマイチ供給に不安を感じてしまう。
涼子さんは既に塊から血合いと赤身部分を切り取って血合いの下処理を終え、赤身とトロを冊に切り分け終えていた。
涼子さんが言う。
「赤身もトロもたくさんあるから、マグロカツとねぎま汁とカルパッチョと……あとはお刺身にしましょうか。ああカマトロはお寿司の方がいいかな。血合いは下処理だけして今日のところは冷凍しちゃいますね」
お婆ちゃんが口を挟む。
「それでも五人でこの量は多そうね。赤身とトロも少し冷凍しちゃいましょうか」
涼子さんも、にっこり笑って同意する。
「そうですね。それじゃこのくらいは冷凍するとして、後はカツの分を残して全部切り身にしちゃいましょう」
そうして私たちは三人で涼子さんが冊にしたマグロに包丁を入れて切り身にしていく。私が一つの冊を切り身にし終える間に二人は残りの冊を全て切り身にし終わっていた。
「マグロカツは赤身と中トロと一冊ずつ作りましょうか。私は血合いの下処理とカルパッチョの方やってますから、お義母さんと美沙子ちゃんはカツの方やっててください」
涼子さんがそう言いながら冷蔵庫から調味料やトマトやクレソンなどの野菜、レモン、ショウガなどを取り出す。
「美沙子ちゃん? そこの棚から小麦粉とパン粉を取ってくれる?」
お婆ちゃんがボウルを並べ始めたので、私は棚から出してきた小麦粉をボウルに出そうとした。
「ううん。今日は揚げるのが少しだけだから、小麦粉はまな板の上でまぶしちゃうの。ボウルには玉子とパン粉を入れるのよ」
お婆ちゃんはそう言いながらまな板に置いた赤身と中トロの切り身に小麦粉をまぶしだした。私はその間にボウルの一つに玉子を入れてよく混ぜ、もう一つのボウルにパン粉を出した。お婆ちゃんが小麦粉をまぶした冊を玉子にくぐらせてから、丁寧にパン粉をつけていく。
「それじゃ揚げちゃいましょうか。今日は少しだけだから深めのフライパンでやっちゃいましょう」
そうしてお婆ちゃんは深めのフライパンにサラダ油を注いでから火にかける。
「マグロカツは気をつけないと火を入れ過ぎちゃうから気をつけないとね。大体百八十度くらい。美沙子ちゃん揚げた後のマグロを置いておくバットを出しておいてくれる? そっちの棚の開きに入ってるから」
そう言いながらお婆ちゃんは熱した油にパン粉をまぶしたカツを滑り込ませたのだが、二分も待たずに取り出してしまう。
「そんなに早くていいんですか?」
不思議な顔をする私にお婆ちゃんが言う。
「余熱でまだ少し火が通るしね。これ以上揚げるとレアじゃなくなっちゃうのよ。次はねぎま汁をやっちゃいましょうか」
お婆ちゃんは台所の隅にある棚から大きめの人参二本と大根と長ネギを数本出してくる。
「私は大根切るから、美沙子ちゃんは人参をお願いね」
お婆ちゃんはそう言って大根を洗って皮を剥きだす。私も続いて人参を洗ってまずは皮をむく。お婆ちゃんは半分くらいの大根をラップして冷蔵庫にしまってしまうと、残りをザクザク切って流しの下から出してきた大きなお鍋にどんどん放り込んでいく。私も続いて人参をザクザク切ってお鍋に入れていった。
お婆ちゃんが言う。
「それじゃこれを下茹でしている間に、少し酢飯を作りましょうか」
さっき火を入れたガス炊飯器は、もうご飯を炊きあげていた。
「もう炊けたんですか。ガス炊飯器って炊けるの早いんですね」
驚いた顔をする私にお婆ちゃんが言う。
「電気炊飯器よりはね。ガス栓締めちゃってくれる? そっちのガス栓は炊飯器でしか使ってないから」
私がボウルに半合分くらいのご飯を取ると、お婆ちゃんが寿司酢を作ってご飯にかけて混ぜ始める。
「じゃ私はこれとカマトロでお寿司にしちゃうから、美沙子ちゃんは大根と人参を下茹でしたお鍋におネギと一冊分のマグロの切り身とお味噌を入れて一煮立ちさせてくれる? それでねぎま汁は仕上げ。おネギは斜め切りがいいかな」
私たちがそうしている間に涼子さんはマグロカツを切り分けてからテーブルの上を片付けて、ドレッシングに和えたカルパッチョを大きなお皿二つに分けて盛り付けていた。マグロカツも切り分けられてお皿に盛りつけられ、私がねぎま汁を仕上げている間にお婆ちゃんも手伝ってお刺身やお寿司をお皿に並べていた。
涼子さんが言う。
「あとはご飯とねぎま汁ね。あら時間も丁度いいわ。美沙子ちゃん、うちの人とお義父さんを呼んできてくれる?」
「おお! こりゃすごい! 奮発して一塊買ってきた甲斐があったな。すごいご馳走だ」
叔父さんが満面の笑みを浮かべて言う。
「マグロのご馳走なんて久しぶりだね。考えてみたらお祝い事なんて久しぶりだものね」
お爺ちゃんも嬉しそうに言う。
「今日は美沙子ちゃんも頑張ったんですよ。よく味わって食べてくださいね」
涼子さんもにっこり笑ってそんなことを言った。
そうして私たちは、テーブルの上一杯のマグロのご馳走を楽しんだ。
カマトロのお寿司の何とも言えない濃厚な旨味……。
「カマトロって食べるの初めてです。おいしいですねぇ」
そんなことを言う私にお婆ちゃんもにっこり笑って言う。
「でしょう? ほら大トロのお刺身もどうぞ? 私はこの年になるとカマトロや大トロは少しくどく感じちゃうから、赤身の方がありがたいの。遠慮なく食べてね」
マグロのカマの塩焼きもマグロカツも、勿論カルパッチョやお刺身も、どれも素晴らしくおいしかった。私は私の新しい生活を応援してくれる本土の家族の気持ちに感謝しながら、マグロのご馳走を楽しんだ。そうしてひと時新しい仕事生活に対する不安を少しだけ忘れることができた。
本土での仕事には不安が大きいけれど、きっと私は大丈夫、頑張れる。そう思った。
to be continued...
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