本土にて ~ その①
本土で電車やバスに乗るのなんて、修学旅行の時以来だった。そして学校はこういう時の為に修学旅行の行き先として本土を選んでいたのだろうかと思い至った。
「確かに修学旅行ででも来てなかったら、切符の買い方すらわからなかったかも……」
父の父母、私の祖父母の家は海沿いにあるバス停から近いところにあった。私は迷わずちゃんと辿り着けた。……携帯のGPS付き地図機能というものが、これほど役に立つものだとは初めて知った。正直なところ、これからかなりお世話になりそうだと思った。
「ごめんください……」
玄関の引き戸に向かってそう言ってから気が付いて、引き戸の横についている呼び鈴を押す。
「はーーい!」
引き戸の向こうから、柔らかい女の人の声が聞こえてきた。ガラガラという音と共に引き戸が引かれると、そこには髪をきれいにまとめた四十歳くらいの女性が立っていた。
「あなたが……美沙子ちゃん?」
にっこりと笑ってそう言う女の人に、私はお辞儀をしながら答える。
「はい、美沙子です。少しの間、お世話になります」
その女の人は笑顔のまま少し体を引いて、私を招き入れるように言う。
「さあ入って? こんなにかわいらしい女の子だなんて、びっくり!」
その女の人は涼子さんと名乗った。父のお兄さんの奥さん、つまり私からすると叔母にあたる人だと言う。
「うちにも子どもが一人いるんだけど、もう街で一人暮らしをしてるもんだから、寂しくなっちゃってたところだったの。だから少しの間なんて言わないで、できるだけいてくれていいのよ」
「ありがとうございます。そう言っていただけると助かります。私は島から出て生活するのは初めてなので、ご迷惑にならないように気を付けます」
私がそんなことを言うと、涼子さんが少し驚いたような顔になる。
「しっかりしてる。お爺ちゃんとお婆ちゃんに紹介するね」
私は日当たりのいい、広い部屋に案内された。居間のようだ。中央に置かれた大きなちゃぶ台を囲むように座ってテレビを見ていた二人のお年寄りに涼子さんが声を掛ける。
「お義父さん、お義母さん。美沙子ちゃんですよ」
私はまたお辞儀をして言う。
「初めまして、美沙子です。少しの間、お世話になります」
二人のお年寄りは、私を見て目を細める。
「まあまあ……、かわいらしいお嬢ちゃんねぇ。よく来てくれたね。会えてとっても嬉しいわ」
「本当に別嬪さんだ。お母さんに似たんだね。この家を自分の家だと思ってゆっくりしてね」
二人のお年寄りは、ご親切にそんな風に言ってくれた。
私がお二人にお礼を言うと、涼子さんが私に言う。
「それじゃあまずお部屋に案内するね。お掃除は済んでるけど家具が足りないから、後で街へ見に行きましょうか」
私は階段を上って二階に案内された。そして促されるまま、廊下の先にあるつきあたりの六畳間の畳部屋に入る。涼子さんが少し申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさいね。古い家だから、どうしても畳部屋になっちゃうの」
私は慌てて言う。
「いえいえ! 実家の部屋も畳ですから畳の方が落ち着きます。ありがとうございます」
私がそう言うと、涼子さんは安心したように、にっこり笑って言う。
「よかった。少し時間は過ぎてるけど、お昼食べる?」
私はこの家に到着する時間がお昼の時間帯にかからないように、港に着いた時に売店で買ったおにぎりで昼食を済ませていた。
「お昼は港で済ませてきましたから、大丈夫です」
私がそう言うと、涼子さんはにっこり笑って言う。
「そう? ちょっと残念だけど、私の作ったご飯を食べてもらうのは夕食まで待ちましょうか。よければ少し休んでから、家具を見に行かない?」
「涼子さんがいいなら、すぐでもいいです」
「あら? それならすぐに出ましょうか。早く行けば、その分早く帰って来れるし」
涼子さんは少しいたずらっぽく言った。なんだか嬉しそうだった。
私たちは涼子さんの運転する車で街へ行った。車は古い国産車で、きれいに洗車されていた。
「駅の周りにも少しお店はあるけど、家具を扱ってるようなお店のあるところまでは少し距離があるの。この辺りは漁に出るには便利だけど、大きな買い物をするときには少し不便ね」
車は街道を少し南下して街に入った。本土の光景は修学旅行でも見ていたはずだったが、それでも私はわくわくが止まらなかった。
涼子さんは商店街の外にある駐車場に車を止めた。私たちは車を降りて商店街に入った。すごい……お店がずうっと奥まで並んでる……。私はできるだけ浮かれないように気をつけながら歩いていた。それでも随分きょろきょろしていたと思う。
涼子さんがそんな私を見つつ、にっこり笑ってから言う。
「あー……、あのね? 私も漁師町生まれだからわかるんだけど……、もっとはしゃいじゃっていいと思うよ?」
以前感じた冷水を浴びせられたような感じこそしなかったが、私は顔が赤くなるのを感じたので下を向いた。
「でも私イナカモノだし……、そういうのマルダシっていうのはちょっと……」
私がそういうと涼子さんが私の顔を覗き込むようにして言う。
「美沙子ちゃん?」
私がその声に応えて顔を上げると、涼子さんはゆっくりと私を抱きしめた。
「……涼子さん?」
「……あのね、美沙子ちゃん。イナカモノっていうのは相対的な言葉なの。ここは大きな街だけど、首都から見たら地方都市の一つだから、人によってはイナカマチって言うかもしれない。だからそんなあいまいな基準で人を貶めたりするのはよくないことね? だから私たちとしては、そんなことは気にしないで堂々としていることがそんな人たちにとってもいいことなの。わかってもらえる?」
私は涼子さんに抱きしめられながらこっそり周りを見てみると、行き交う人たちが何事かと私たちを見ながら通り過ぎていったが、涼子さんは一向に気にしていないようだった。
私は涼子さんを抱きしめ返しながら言う。
「わかりました……、わかったと思います」
涼子さんは私を離してからウィンクして言う。
「うん! それじゃ行きましょ? この先に大きな家具屋さんがあるの」
私たちは商店街の一角にある大きな家具店に入った。
「どれでもってわけにはいかないけど……、これなんかどう? 大きさも丁度よさそうだし」
涼子さんは白褐色の少し装飾の入ったハンガーラック付きのタワーチェストを指さして言う。とてもかわいい……。派手過ぎず地味過ぎず、洋間でも和室でもどちらにでも合いそうに見えた。ただ私の知っている家具の価格帯から考えると少し金額が高いように思った。
「……ええ、素敵です。でも少し大きいかも……」
私はそう言いながら、その家具から目が離せないでいた。そんな私を見て涼子さんは、くすりと笑って言う。
「デザインはどう?」
「いいですね、すごくかわいい……」
「それなら決まりね。店員さん呼んでくる」
「あ……でも……」
涼子さんは私にウィンクして言う。
「ちょっとくらい大きいくらいの方がいいのよ? それより物を買う時のポイントの一つはね、できるだけ自分がホレたものを選ぶこと。人付き合いとちょっと似てるかも」
その日の夜、私は夕食のときに叔父さんと一緒になった。
「初めまして、美沙子ちゃん。よく来てくれたね、嬉しいよ。うちの奥さんは魚料理がとても上手なんだ。漁師町の女だからね。是非ゆっくりしていって」
叔父さんは優しそうな人だった。確かにどこか父に似ている。
夕食はアジの魚すしにマグロのお刺身、それと魚のもつ煮のようなものとさつま揚げらしきもの、千切り大根の煮物っぽいもの、そしてあら汁というメニュー。とても豪華だ。特におすしは島にいた時はほとんど食べたことがなかったので、とても新鮮に感じた。
涼子さんがにっこり笑って言う。
「今日は美沙子ちゃんが来る日だから、普段より少し豪華なのよ」
「すごく豪華でびっくりしました。……これ全部、涼子さんお一人で作ったんですか?」
家具屋さんから帰ってきてそれ程時間が経っていないというのに、食卓上の料理が多彩過ぎる……。
驚いた顔をしている私を見て、涼子さんがくすりと笑って言う。
「勿論お義母さんに手伝ってもらってるわよ。帰ってきてから私が作ったのはお寿司とお刺身とあら汁だけ。ごんぐり煮は朝のうちにつくったものだし、おび天とまだか漬けはお義母さんのお手製よ」
「ごんぐり煮? おび天? まだか漬け?」
どれがどれやら……。
「ごんぐり煮はマグロの胃袋の煮つけ、おび天は魚の白身のあげもの、まだか漬けは千切り大根の煮物よ」
涼子さんが一つ一つ指さしながら教えてくれる。
「この辺りにはおいしい料理がたくさんあるのよ。できるだけたくさん食べてほしいところね。作り方知りたい?」
「ええ是非」
私がそう言うとお婆ちゃんが口を挟んで言う。
「それなら私と涼子さんでお料理を教えてあげましょうか。嬉しいわ、娘が一人増えたみたい」
お婆ちゃんが嬉しそうに言った。今度は涼子さんが、にやっと笑って口を挟む。
「増えたも何も孫なんですから、もっと喜んでいいと思いますよ、お義母さん?」
「あらやだ、ホント」
お婆ちゃんは嬉しそうに笑って言った。
翌朝から早速私は就職活動を始めた。
昨日街に行った時に買った就職情報誌に載っている会社のうち、自分の条件に合いそうな会社に片っ端から電話していった。
父から教わった会社選びのポイントは欲張り過ぎないこと、その会社に入った後の自分の姿が想像できること、できるだけ立地が便利なところ、などなど。その会社に入った後の自分の姿などは社会人経験の少ない自分には難しかったので、差し当たり求人条件として書いてあることがなんとかなりそうだと思ったところで、他と比べて明らかにお給料が高くないところを探していった。
「給料が格別にいいと謳っているところは、まあ怪しいと思った方がいい。高収入を得るために普通じゃない無理をしている会社だってことだ。そして大抵その無理は会社の弱い立場の連中が担ってるものだからな」
どうも父は本土にいた頃に色々苦労していたようだ。
ご年齢は? 事務のご経験は? どんな資格をお持ちですか?
電話を掛けた先の会社で、人事担当の人に変わってもらうたびにそんなことを聞かれる。私は転職を考える年齢としては若い方だと思う。事務の経験といっても私の持っている製糖工場での経験は少し変わっていると思うから、あまりその他の事務職で生かせる経験ではないかもしれない。資格? ……そういや高校の時に先生がしきりにそんなこと言ってたっけ。
「いいかい? 就職することを考えているのなら資格は取っておいた方がいい。必要なものをちゃんと選んで取得するならけして無駄になることはないよ。特に本土で働こうと思っている人には、必ず助けになるだろう」
私はそんな金言を受け入れるほど賢くはなかった。
それでもいくつかの会社は履歴書と職務経歴書を送るように言ってくれたので、私はお礼を言って電話を切った後、涼子さんに相談してまた涼子さんの車で街へ行った。履歴書を買うためと履歴書に貼る写真を撮るためだ。
涼子さんが車を運転しながら私に声を掛ける。
「それリクルートスーツね。よく似合ってる、凛々しい」
「ありがとうございます!」
私は褒めてくれた涼子さんに、つい力の入った返事をした。涼子さんが苦笑して言う。
「少し力み過ぎじゃない? 今からそれじゃ疲れちゃう」
「……はい、でも……」
「そうね、力んじゃうのは仕方ない。でもね、よく考えて? あなたが入りたいと思う会社と、あなたの間には上下関係なんてないの。組織上の上下関係ができるのは会社に入った後の話。それでも会社そのものとあなたの間に上下関係はないのよ。お互いの利益が噛み合えば縁ができるし、そうでなければ縁もなし。それだけのことなの。わかってもらえる?」
私は涼子さんから聞いたことを理解しようと反芻した。
「私と会社との間には上下関係なんてない……」
「そう」
「利益が噛み合えば縁ができる……」
「そうね」
「それだけのこと……」
「それだけのことよ」
私たちの車は、また商店街の駐車場まで来た。
私は一つ深呼吸をしてから言う。
「……写真撮ってきます」
「待って。一緒に行く」
島にも証明写真機はあったが、本土の写真機は随分新しい感じだった。写真機のあちこちに写真写りがいいと書いてある。正直ありがたい。涼子さんに少しシャツの襟を直してもらってから写真機の中に入る。私は落ち着いて写真を撮ることができた。
私たちはそれから職務経歴書とセットになっている履歴書とそれを入れる封筒を多めに買い込んでから祖父母の家に戻った。
私は一晩かけて職務経歴書と履歴書を三通ずつ書いて写真を貼り、封筒に入れて封をした。そして翌日、涼子さんに教えてもらった郵便局へ向かった。
「お、あそこか」
私は迷わずちゃんと郵便局へ辿り着いた。携帯のGPS機能も使わずにだ。
「うん、少しは慣れたかな」
速達で封筒を郵送してもらうようにしてから郵便局を出る。……帰りはどっちだっけ。ああ、あっちだ、多分。……あれ? 携帯は? 忘れて来たらしい。
「すみません、公衆電話ってどちらでしょう?」
財布に電話番号を書いたメモを入れておいて本当に良かった……。
「どんまい」
涼子さんは、にっこり笑って私を慰めた。私は思ったより自分が落ち込んでいないことに気が付いた。それより涼子さんとお婆ちゃんが作ってくれたご飯を食べる方がずっと楽しみだった。
お婆ちゃんが私に言う。
「美沙子ちゃん? お料理を教えるって話だけど、いつ頃から始めようかしら? あまりゆっくりだと……その……アジのおいしい季節が終わっちゃうし……」
涼子さんがフォローしてくれる。
「お義母さん? 美沙子ちゃんは今転職のための大事な時期なんです。美沙子ちゃんのペースを尊重してあげてください」
「……そうね、ごめんなさい」
お婆ちゃんが肩を落とす。余程私に料理を教えることが楽しみだったらしい。
私は慌てて言う。
「あの……落ち着いたらお願いします、是非」
「ええ、そうね。楽しみにしてる」
お婆ちゃんは、にっこり笑ってそう言った。
「何社くらいに履歴書を送ったの?」
夕食のときに涼子さんが私に聞いた。私は正直に答える。
「三社です。その内の一つは望み薄な感じでしたけれど」
恰好をつけても仕方がない。叔父さんが口を挟む。
「初手から三社も声がかかるなんて大したもんさ。俺の時はもっと苦労した」
「叔父さんは最初から漁師じゃなかったんですか?」
私が聞くと叔父さんは肩をすくめて答える。
「高校卒業後にしばらく就職してたんだ。親父がまだ現役の漁師だった頃だね」
「もしかして涼子さんとは……」
私が言いかけると、今度は涼子さんが答える。
「いいえ。知り合ったのは、この人が漁師になった後よ。私もその船に乗っていたの」
「涼子さんも漁師だったんですか?!」
私が驚いて聞くと涼子さんは、にやりと笑って答える。
「ええ。少ないのよ、女の漁師は。お陰でモッテモテ」
叔父さんが口を尖らせて言う。
「そうとも。お陰でデートに誘うのには苦労したんだ」
何だかどこかで聞いた話だ……。
「あの……いえ、何でもないです」
危うく誘惑に負けてしまうところだった。涼子さんがくすりと笑って教えてくれる。
「いいのよ、昔の話しだもの。職場が同じだと仕事ぶりで相手のことがある程度わかるものなの。この人は誠実な仕事ぶりでお義父さんから仕事を学ぶことに一生懸命だった。お義父さんの仕事ぶりもプラスポイントね。頼りがいのあるいい漁師だった。この人の息子ならって思った」
お爺ちゃんが、にっこり笑って言う。
「光栄だ」
私は久しぶりに味わう大人数での食事を大いに楽しんだ。少しだけ、ここに父もいればいいのにとも思いはしたが……。
数日して電話がかかってきたのは二社。もう一つの会社からは不採用の通知が郵送されてきた。予想していた結果だったとはいえ、少しショックだった。まあ贅沢を言うのはよそう。どちらにしても私が入ることのできる会社は一つだけなのだから。
to be continued...
読んでくださってありがとうございます!
皆様に幸多からんことを!