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本土へ

「本土の会社に転職ってお前……、本気なのか?」

 驚いた顔で父が言う。それはそうだろう。正直なところ、自分でも驚いているくらいなのだから。


「あー……うん。一応、本気……」

 生まれてこの方、本気になったことなどないのではないかと自分でも思う。多分今回のようなことがなければ、この先もずっとそうだったかもしれない。今回のこととは……自分でも少々気恥ずかしいが、頑張って説明してみよう。


 私の親友(もはや結ちゃんに確かめることは困難なので、せめて自分の中ではこれで通すことにした)である結ちゃんが、私の上司であるチーフを好きになったという。それは全く構わないのだが、なんとそのチーフがどうも私のことを好きらしいとわかった。それは全くよろしくない……。

 結ちゃんの様子を見る限り、かなりチーフのことが好きなようだ。それは今の結ちゃんを見ればよくわかる。花開く乙女という表現は、今の結ちゃんにこそふさわしい。


「もう転職先の会社は決まってるのか?」

 父が現実的なことを聞いてくる。……それはそうだろうと思う。

「いや具体的なところは、まだ全然だよ。私がそうしたいって思ってるだけ」

 私は正直に私の今の状況を話す。父に隠し事をしても仕方がない。


「言いにくいかもしれないが……。この島の生活に不満があるのか?」

 父はストレートにそんなことを聞いてくる。私は父らしいと苦笑してしまう。


「不満が全くないわけじゃないけど……。別にこの島での生活が嫌になったとかじゃないよ。ただ本土での生活に興味があって、それを実行することを考えたら早い方がいいのかなって思っているだけ」

 言葉にしてみると、不思議なくらい自然な理由に聞こえるようなことを私は言った。そうか……。きっと私は、ずっと本土で生活してみたいと思っていたのだ。


「そうか……、そうだな。お前はこの島での生活しか知らないんだから、そう思うのが当たり前なのかもしれないな。……悪かったな、わかってやれてなくて」

 私は申し訳なさそうにそんなことを言う父に慌てて言う。

「お父ちゃんが謝るようなことじゃないでしょ。お父ちゃんが私のために色々頑張ってくれてたことくらいわかってるって。そんな風に言わないでよ」


 私は父を心配させてしまったことに少々罪悪感を感じて言ったのだが、父は目に涙を浮かべて言う。

「……そうだな。そうやっていつもお前は俺のことを気遣ってくれてたんだよな。悪いと思ってたんだ、小さい頃から妙に大人びた気遣いをするお前を見る度にな。でも俺もお母ちゃんが死んじまってから、色々と余裕がなくってな……」


「お父ちゃん……」

 父の涙を見るのは初めてのことだったので、私は少し動揺してしまった。そんな私に父が言う。

「ぎゅっとしていいか?」

「え……? そりゃいいけど」

 父に抱きしめられることなど何年ぶりだろう。父は私を抱きしめようとするとき、こうやって私に聞いてから抱きしめるのだ。どうも照れ臭いらしい。それとも女の子だと思って気を使っているのだろうか。


 私は父にぎゅうっと抱きしめられて、随分忘れていたような安心感を感じて、何だか涙が出てきた。

「痛いよ……。もう少しお手柔らかに」

 口ではそんなことを言ってしまう。

「……悪いな。もっとお前を抱きしめてやっていれば、今だってうまくやれるんだよな。俺は悪いお父ちゃんだな」

 ふっと力を緩めて父がそんなことを言った。私は父に抱きしめられたまま首を振って言う。

「ううん、そんなことないって。まあ確かに前にこんな風にしてもらったのって覚えてないくらいだけど……。こうしてもらうのっていいね。何だか安心する」


 私がそんなことを言ったので、父が鼻を啜り始める。……しまった、また父を泣かせてしまったらしい。どうも今日は色々とうまくいかない。

「お父ちゃん、気にしないでよ。お母ちゃんが死んじゃって一番悲しかったのはお父ちゃんでしょ? そんなに悲しい思いをしてたのに、あたしのことを一生懸命大事にしてくれてたのだって、ちゃんとわかってるんだから。お父ちゃんは、いいお父ちゃんだよ」


 私はお父ちゃんが泣き止むようにと思って言ったのだが、お父ちゃんは声を潜めて泣き出してしまった。やっぱり今日は……とも思ったが、これまでお父ちゃんとこんな風に話したことなどあっただろうかということに思い至った。

「俺は……、俺はお母ちゃんからお前のことを頼むって言われてたのに……」

 お父ちゃんはむせび泣きながらそんなことを言った。


 もう私はお父ちゃんが泣き止むようにすることは諦めて、私がお父ちゃんを抱きしめてあげようと思った。

「しようがないなぁ、おっきな大人がこんなに泣いて……。いいよいいよ。今日はあたしがお父ちゃんをぎゅっとしてあげるから、いっぱい泣きな」

 そうしてあたしは、お父ちゃんをぎゅっとしてあげた。そうしたらお父ちゃんは、ふう、と息をついて落ち着いたみたいだった。

「気持ちはうれしいが、まだお前に甘えるわけにはいかないよ。俺はお前が甘えられるように頑張らんとな」

 お父ちゃんは私を離して、腕で涙をぬぐいながらそんなことを言った。私はそんなことを言うお父ちゃんには、もう甘えられる人がいないのだと気が付いて、胸がきゅうっと苦しくなった。


「無理しちゃって。まあいいよ。気が向いたら、いつでもあたしに甘えていいからね」

 私は強がる父を健気だと思った。そんな風に父のことを考えたことは初めてだった。そして私のお母ちゃんは、そんな父のことを好きになったのかもしれないとも思った。


 父は大きな掌で私の頭をくしゃくしゃと撫でまわしながら言う。

「お前はもう充分過ぎるくらい大人だって言ったろう。俺を追い越すようなことまで考えなくっていいんだよ」

「……うん、わかった」

 私は健気な父の気持ちを尊重することにした。


「お前が本土で生活したいと言うなら」

 そうしてお父ちゃんは、私の本土での生活について話し出した。

「差し当たり俺の実家に相談してみるといいだろう。お前のお爺ちゃんとお婆ちゃんの家だ。今どうなっているかはわからんが、少しの間なら泊めてもらうことだってできるんじゃないかな」


「ありがとう……」

 私は私の言ったことを真摯に受け止めて解決してくれようとする父に感謝した。あいまいだった私の願望は、父の助力を得て現実的な形になってきたのだ。

 私は改めて父に抱き着いて言う。

「頼りになるね」

 私は父を抱きしめていたので顔はわからなかったが、間違いなく父は満足そうに笑っていた。

「そうだろう?」


 私が結ちゃんに『本土の会社に転職を考えている』と伝えてからというもの、結ちゃんは仕事中でも考え事をしているように見えることが増え、ヘルプ先である受注発送部署の人に注意されているところをよく見かけるようになった。

 私はそんな様子を見て初めは首をひねっていたのだが、なんとなく思いついてこっそりと結ちゃんに声を掛けた。

「あのね、私別にチーフのこと好きじゃないからね」


 結ちゃんは、ハッとしたような顔をして少し顔を赤らめたと思ったら、落ち着いて仕事をこなせるようになったようだ。お昼休みの時間になったとき、いつものように結ちゃんと一緒になった。

「ごめんね。美沙子ちゃんが私に気を使って本土に行こうとしてるのかとか思っちゃったから……」


 私はぎくりとして答える。

「そうだよね。いきなりそんなこと言われたらそう思ったりもするよね。でもあたし、ずっと本土で生活してみたいと思ってて、それなら早い方がいいかなって思っただけだから」

 結ちゃんのことがきっかけではあるが、それだけではないことも確かなのだ。


「美沙子ちゃん、ずっと前にもそんなこと言ってたよね。本当に本土に行っちゃうの?」

 結ちゃんが少し寂しそうな顔をする。私は見慣れた結ちゃんの顔を見るようで、正直少しほっとしながら言う。

「ずっとじゃないよ、きっとね。そもそも本土でちゃんと就職できるかもわからないしね」

 結ちゃんは意外そうな顔をする。

「まだどこの会社に行くかって決まってないの?」

 私は正直に話す。

「うん。まだ具体的なところは全然」


「……美沙子ちゃんのことだから、もう決まってるのかと思った。そんなに急いで本土に行かなくてもいいんじゃない?」

 結ちゃんは寂しいような、困ったような複雑な顔でにっこりと笑った。

 私は内心、寂しがってくれる結ちゃんに感謝しながら言う。

「……そうだね。でもお父ちゃんの実家に連絡したら、いつでも来ていいって言ってくれたから、まずはお世話になるつもりなんだ。チーフにはちゃんと聞いておくから安心してね」

 結ちゃんが慌てて口を挟む。

「私は別に……」

「わかってるよ、ごめん。でも一応ね」


 すこし気まずい沈黙が続いた後、結ちゃんが言う。

「美沙子ちゃんのお父さんのご実家って、本土にあるんだっけ?」

「うん。私は行ったことないんだけど、まだお爺ちゃんお婆ちゃんもお元気みたい」

 私は父に言われてから何度か父の実家と手紙でやり取りをしていた。


「私もお母ちゃんが本土の人だから何度も本土に行ってるけど……、本土ってあんまり好きじゃないんだよね。何だか色々怖くって……。そういえば修学旅行の時……」

 美沙子ちゃんがそんなことを言いかけたので、私は慌てて言う。

「あー、ごめん! そのことは勘弁して」


 中学と高校の修学旅行の行き先は本土だったのだが、どちらも私にはいい思い出がなかった。

 中学の時はテンション上がりっぱなしで修学旅行中ずっとはしゃいでいたのだが、旅行の最終日に本土の学生らしい男の子が私を見て薄ら笑いを浮かべながらこんなことを言った。

「ああ島から来た人たちかぁ。こっちじゃそりゃ、はしゃいじゃうよねぇ」

 私は頭から冷水を浴びせられたような気持ちになり、それからはずっと静かにしていた。高校の時もその時に聞いた言葉が忘れられず、旅行中ずっと静かにしていた。騒がないように、はしゃがないように、浮かれないように……。そんな修学旅行が楽しいはずはない。


 結ちゃんがゆっくり言う。

「美沙子ちゃんは本土を嫌いになったのかと思ってたけど違ったんだね。勇気あるなぁ、美沙子ちゃんは」

 私は苦笑して言う。

「勇気とかっていうんじゃないよ、きっと。未練じゃないかな」

 結ちゃんは何かを吹っ切ったように、にっこり笑って言う。

「そんなに本土に行きたかったんだね。それじゃ私は応援するよ、美沙子ちゃんの親友として」

 私は不覚にも涙が出てきた。

「ありがとう、結ちゃん……。あたしの親友……」


 退職の相談をした時、チーフは少し動揺したように言った。

「転職するって本気なの? やっぱり俺が変なこと言ったからだよね……」

 まあそう思うだろうな、と思う。実際近いところではあるのだが。

「まあ全く関係なくもないですが、一番の理由ではありません。私はずっと本土で生活してみたいと思ってたんです。本土から来たチーフにはわかりにくいかもしれませんが」


 チーフはため息をついて言う。

「気持ちはわからなくはないよ。向こうの生活を知ってれば別だけど、ずっとこの島にいたら本土の生活に興味が出て来るだろうって俺でも思うよ。……寂しくなるね」

 私は気になることを聞いた。

「私がここを退職したら、私の後任って入るんですか?」

 チーフは肩をすくめて言う。

「そうだね。繁忙期になったら、とてもじゃないけど一人じゃまわらないよ。でも端末のキーパンチをちゃんとできる人材って結構希少なんだよね……」

 私はここぞとばかりに言う。

「それなら是非、結ちゃんを検査部門から引き抜いてください。私と結ちゃんは高校の選択科目で情報の授業取ってたんですから!」

 今どきは必修らしいが黙っておこう……。


「へえ……、そうなんだ。そりゃ頼もしいね。じゃあ検査の人と交渉してみようかな。こっちよりはまだ向こうの方が人がいるみたいだからね」

 そんなことを言うチーフに私は詰め寄った。

「僭越ながら申し上げておくとですね、結ちゃんは私の親友なんです。大事にしてあげてください。チーフって付き合ってる人とかいないですよね?」

 どさくさに紛れてそんなことを聞く私に、チーフは顔をしかめて答える。

「ええ?! 聞く? そういうこと。いないのわかってんじゃん! 独り者だからって誰にでもコナかけたりしないよ、ひどいなぁ。大事にしますって、ちゃんと……」


 ぶつぶつ言いながら肩を落とすチーフに、私はにっこり笑って言う。

「はい。大事にしてあげてください。とてもいい子なんですよ、どうぞよろしくお願いします」

「……? はい。承知しました……」

 チーフはきょとんとした顔で答えた。これでいい……。後は結ちゃんの頑張り次第だ。


 私は正式に製糖工場を退職し、荷物もまとめて父の実家に行く日になった。私はスーツケースに入るだけの荷物を持って定期船の港へ行った。港には父と結ちゃんが来てくれた。

 父が苦笑しながら言う。

「後の荷物は宅急便で送るからな」

「ありがとう」

「体には気をつけろよ、水が変わるから」

「そうだね、気を付ける」

「あまり夜更かしするなよ。テレビは程々にな」

「うん、程々にする」

「それとお菓子を食べすぎないように。本土には色んなお菓子があるから」

「そうだね……、気を付ける」

「あと遅い時間まで外を出歩かないようにするんだ、危ないからな」

「そっか……、早めに帰るようにするよ」

「それと……」

「お父ちゃん……」

「ああ、そうだな……。悪い……」


 父はこれまで私の生活態度についてあまり口を挟んでこなかったのだが、私が離れて生活することが余程心配らしい。ふと結ちゃんを見ると、こっそりとくすくす笑っていた。

「結ちゃん?」

 私が声を掛けると、結ちゃんはにっこり笑って言う。

「えーと……。わかります、お父さん。ご心配なんですよね」

 父は肩をすくめて言う。

「おかしいかな?」

 結ちゃんは首を振って答える。

「いいえ、私もすごく心配です。でも……心配するしかないんです、きっと」

 父が驚いたような顔になる。

「お母ちゃんみたいなことを言うんだな」


 今度は結ちゃんが私に向き直って言う。

「何かあったらメールか電話してね。何時でもいいから」

 私は結ちゃんに抱き着いて言う。

「うん。結ちゃんも」

 結ちゃんは私をぎゅっとしてくれた。

「辛くなったら、いつでも帰って来てね。我慢しないで」

 私は何だか泣けてきた。

「そっか、こういうのをお母ちゃんみたいって言うんだ」


 私はフェリーが港を離れてからも、後部甲板からずっと遠くなっていく島を見ていた。

 色々なことを思い出すうち、岬の小屋の幽霊のことに思い至った。そういえば随分岬の小屋には行っていない。最後に行ったのはいつのことだったろう。そして今度島に帰ってきたときには岬の小屋に行ってみようかとか、そんなことを思っていた。



to be continued...

読んでくださってありがとうございます!

皆様に幸多からんことを!

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