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南の島にて

 南の海に浮かぶこの小さな島には、不思議な話が一つある。南東の岬にぽつんと建っている朽ちかけた木造の小屋、そこから夜な夜な歌が聞こえてくるという。


 私は美沙子。その岬からほど近いところに住んでいる漁師の一人娘だ。両親は元々本土の人だったと聞くが、私は母のことを覚えていない。もの心つくころには、既に父と二人暮らしだった。


 寂しい子ども時代だったかもしれないが、父の漁師仲間のお家と家族ぐるみの付き合いがあったので、随分助けられていたと思う。近所のおばちゃん、おじちゃんは優しかったし、お姉ちゃんやお兄ちゃんたちも小さかった私とよく遊んでくれた。近所に同世代の友達はいなかった。そもそも島から若い夫婦が少なくなってきていたのだと思う。父も漁師仲間の中では若手の方だったようだ。


 母が早くに亡くなっていたせいか、よくご近所のお家に食事によばれていた。ご近所のお家は子どもの多いご家庭ばかりだったので、どのお家によばれても食事風景は賑やかだった。


 一番上のお姉ちゃんは、おかずの魚に文句を言っておばちゃんにお小言を言われたりする。

「あたしムラジー(タカサゴ)()だ。もう食べ飽きちゃったよ」

「何言ってんの! お父ちゃんたちが頑張って採ってきたんだから感謝して食べな」

「あたしは今日はポテサラだけでいいや……」

「これ! ちゃんと魚も食べな!」


 二番目のお兄ちゃんは、それをからかって叱られたりする。

「姉ちゃんは好き嫌い多いよな。嫁の貰い手が心配だってお父ちゃん言ってたぞ」

「そんなこと言うわけないでしょ! お前も余計な事言わんで黙って食べな!」

「うわ、俺が怒られんの? お父ちゃん言ってたよね? ねぇって!」

 三番目のお兄ちゃんは、にやにやしてたりする。

「へへへ……、兄ちゃん焦ってら」


 おじちゃんは、早々とお酒が入っていたりする。

「あん? 俺そんなこと言ったがな」

 おじちゃんは、お酒でお婆ちゃんに文句を言われたりする。

「お前はまた酒飲みてぃ! 昨日もその前も呑みてぃ飲み過ぎやーどぅ!」

「うへ……」


 おばちゃんは、お得意料理をもっともっとと勧めてきたりする。

「うるさくってごめんねぇ、美沙子ちゃん。ほら、どんどん食べて? お魚の唐揚げ好きでしょ?」

「うん、ありがとおばちゃん。唐揚げおいしいね」

 一番下のお姉ちゃんは、ちょっと生意気だったりする。

「無理に褒めなくっていいよ、美沙子ちゃん。お母ちゃん調子に乗っちゃうし」

「これ!」


 お爺ちゃんは、わいわいやってる家族を見ては笑っていたりする。

「わははははは……」

 私はご近所のお家に食事によばれるのが大好きだった。ひととき賑やかなそれらのお家の子になれたような気持ちになれたからだ。


 でも食事も終わってテレビを見たりゲームをしたりして、夜も遅くなったのでよくお礼を言ってそのお家を後にして、父と二人で自宅の暗い玄関に帰ってきたときの何とも言い難いもの寂しい気持ちも忘れることはできない。


 そんな時はお風呂もさっさとすませて布団に潜り込み、ぎゅっと目を閉じて眠くなってくるのをひたすら待ったりした。そうして思うのだ、ああなんで私には兄姉も弟妹もいないのだろうと。でもそれを父の前で口にしたことはなかった。仕事のない日に家の縁側に座っている父の寂しそうな後ろ姿を見たりして、子ども心に父こそそう思っているだろうと感じていたからだ。


 私は寂しいと思った時、お日様が出て天気のよい日であれば、よく島の南東にある岬の小屋に行ったりした。父からは近づかないようにと言われていたその小屋には、幽霊が出るという噂があった。小屋は古くて崩れてしまう危険があったことから父は娘に小屋への出入りを禁じていたのだが、私はその幽霊に会ってみたいと思ったのだ。


 お婆ちゃんお爺ちゃんの、そのお婆ちゃんお爺ちゃんが若かったころ……だったと思う。その小屋には若い夫婦が住んでいたのだが、ある嵐の日、しばらく不漁が続いていたので無理をして漁に出た夫が帰って来なくなってしまった。まだ年若かった妻は帰って来なくなってしまった夫に操を立て、他に所帯を持とうとはしなかった。そうして妻は、今も夫が好きだったという島に古くから伝わる唄を歌いながら夫の帰りを待っているという。


 小さかった私には夫の身に降りかかった不幸も、一人残された妻の悲哀もよくわかってはいなかったが、私は小屋に入り込んでは崩れずに残っていた小さな椅子に腰をかけて目を閉じ、幽霊になった妻が現れ出てくるのをじっと待っていたりした。

 そうして静かに椅子に座っていると、もの悲しい顔をした妻が明り取りの窓のそばに立っているような、夫の姿を求めて海の向こうをじっと見つめているような、そんな気配を感じたように思っていた。


 夜になると小屋から幽霊になった妻の歌声が聞こえてくるというような噂もあって、島の人達はほとんど小屋には近づかなかった。洗骨の風習が近年まで残っていたこともあり、幽霊を怖がるような風土でもないのだが、この世に未練を残した妻の幽霊は怨霊になっているとでも思われたのかもしれない。

 私は夜寝る前に窓から岬に向かって耳を澄ませると歌が聞こえるような気もしたのだが、父に聞いてみると『そんなものは聞こえたこともない』とすげなく言われてしまうのだった。


 私の両親は結婚して私が生まれる前にこの島に移り住んできたのだという。気のいいこの島の人達は本土からきた若い夫婦を歓迎し、漁師になりたいという父を色々と助けてくれたそうだ。元々体の強くなかった母は私を生んですぐに亡くなってしまったので、私は母のことを覚えていない。


 一度父になぜこの島に移り住んで来たのか聞いたことがあった。

「お母ちゃんは体が丈夫な方ではなかったから、空気のきれいなところに引っ越そうって話をしてたんだ。それで丁度この島で島外の人を招致する試みを色々やってたから、母さんと相談してこの島で暮らしてみようって話になったんだ」

「お父ちゃんは元々漁師だったの?」

「俺の家では漁師をやってたが、俺は町で背広を着て働いてたよ。お母ちゃんともそこで知り合ったんだ」


 私はそこまで聞いて父母の家族のことが気になった。

「お父ちゃんとお母ちゃんの家は、まだ本土にあるの?」

「ああ、お母ちゃんにも兄弟がいたし俺にも兄がいるから、それぞれの兄弟が家を継いでいるだろう。ただこの島に移り住むにあたっては、それぞれの家から反対されていてな。お母ちゃんのお葬式の時には、お母ちゃんのお父ちゃんに怒鳴られたりしたもんだよ」

「怖い……」

「……悪い、言い方がまずかったかな。向こうの家にしてみれば、俺がお母ちゃんをさらって島につれてきて、結局死なせてしまったように見えたんだろう。お母ちゃんを大切に思っていたからこそ俺に辛く当たっただけなんだ。怖い人たちではないんだよ」

 私にしてみれば、母を失って一番悲しかったのは父だという思いがあったので、母の実家の人達にはよい印象を持たなくなった。また同時に父がこれまで本土に足を運ぼうとしなかった理由がわかったようにも思った。


 両親は本土での生活を捨ててこの島に移り住んだわけだが、私は大きくなるにつれ、この島が本土に比べて色々と不自由なことを強いられる場合があるということにも考えが及ぶようになった。

 この島は離島というには比較的大きな島だったので、他の離島の人達に比べればかなり恵まれていたとは思う。数は少なかったけれどコンビニだってあったし、数軒だけれどレストランだってあった。……とはいえ島の面積のほぼ半分を農地が占め、主産業も農業という環境だったし、本土の人達から見れば大した違いはないのかもしれない。


 両親の出身地であるということの他、小さかった頃の私にとっての本土は、定期船が運んでくる食料品、衣料品などの物資だった。普段はそれ程意識しないのだが、台風の時期に定期便が欠航になったりすると途端に状況が変わる。乳製品やパン、芋類を除く野菜などの生鮮食品が手に入らなくなってしまうのだ。


 野菜も? 島の半分が農地なのに? と思われただろうか。……補足させていただこう。確かに島の半分ほどが農地なのだが、その半分ほどがサトウキビ畑、さらにその半分ほどが芋類や豆類、残りのほとんどは畜産向けの飼料作物という割合なので、芋類以外の野菜はほとんど島外からの移入品なのだ。


 小学校高学年くらいになると、少しずつではあるが島の外の世界として本土を意識するようになった。特に移入品でしか手に入らない雑誌や本などを通してだ。

 この本や雑誌で書かれているのは、私の育った小さな島のことではないという感覚があった。もっと広くて大きい土地のどこかについて書かれた物語や事件なのだと。そうした感覚は、密かではあったが私の中に本土への憧れを持たせるのに充分だった。心のどこかでは、そうした場所ならこのどうしようもない孤独感を癒せるかもしれないという期待感もあったのだと思う。大げさに言えば、昔の人が天国(グソー)に対して持っていた憧れに近かったかのもしれない。


 そうした私の孤独感を少しでも癒してくれていたのは、岬の小屋の妻の幽霊だった。子どもの頃の私は、暇を見ては岬の小屋に足を運んでいた。私は幽霊となった妻と孤独感を共有していたような気になっていたのかもしれない。


「美沙子ちゃんは高校を卒業したらどうするの?」

 私が高校二年生くらいのころ、教室で授業が終わった後の帰り支度をしていた私に(ゆい)ちゃん……、クラスメイトの女の子がそんなことを聞いた。

「結ちゃんはどうするの?」

 私が聞き返すと、結ちゃんは考え込んだ顔をして言った。

「うーん……。私は役場か工場で事務のお仕事ができるといいかな……。まだお嫁には行きたくないし」

 この場合の工場とは製糖工場のこと。製糖工場はサトウキビ農業と並ぶ島の主産業だ。


 製糖工場の事務職は、確かに島役場とならんで島では割と花形職業の一つと言えると思う。一番目は観光客向けのホテル、二番目は島役場、三番目は製糖工場の事務職といったところだろう。……まあ農家やお店をやってるお家を継ぐとか本土へ行くとかいうのでなければ、実際には高校を卒業したあとの女の子は、しばらくお家の家事手伝いをしてから他の農家か漁師を継いだ男の子のところへお嫁に行くというのがほとんどだと思うから、まだお嫁にいきたくないから事務職に就きたいと言う結ちゃんは、充分今風の女の子なのだ。


「私もそうしようかな……」

 正直なところ、私はあまり将来のことについてあまり熱心に考える方ではなかった。父の面倒を見ないといけないとも思っていたし、まだお嫁には行きたくないという気持ちはあったものの、具体的に何かをしたいという前向きな気持ちのようなものには欠けていた。

「本土で就職なんてできたら、カッコいいんだろうな……」

 本土で働く展望など全くないのに、そんなことを言ってみる。


「美沙子ちゃん頭いいし美人なんだから、本土に行ってもお仕事に困らないんじゃない?」

 結ちゃんはそんなことを言ってくれるのだが、クラスメイトの褒め言葉をそのまま受け入れるほど私はお人よしでもなかった。

「ありがと。でも本土に行くのはちょっと怖いかな。結ちゃんだって本土イケるんじゃない? 結ちゃんすごくかわいいし」

「ええーー、そう? ありがと!」

 にっこり笑ってそんなことを言う結ちゃんは、私と違ってお人よしなのだ……。


 私は高校生の時、島に数軒しかない喫茶店で給仕のアルバイトをしていた。これはかなり運が良かったと思う。何しろ飲食店の数そのものが少なかった上にどこも家族経営だったので、アルバイトの口などないに等しかったのだ。しかし父の漁師仲間のお家の親戚筋に軽食を出す喫茶店をやっているお家があって、そのお家の子がお嫁に行ってしまうからお店の手が足りなくなるとかで、父の漁師仲間のお家を通してアルバイトの話をもらえたのだ。


 喫茶店は洋風だったが、島の人の口に合わせて和食も少し出していた。まあそういう柔軟さが、この島の飲食店には必要なのだと思う。後から考えれば、切り身魚の西京焼き定食を出す喫茶店なんてなかなかないだろうとは思ったのだが……。お値段も手ごろだった。


 私は高校の制服の上着を脱いだ上にエプロンをつけてお店に出ていたのだが、お店に来るお客さんからは若い女の子が注文を取ったりするだけでお店の雰囲気がよくなるとか言われたものだ。

「かわいいウェイトレスさんが来てくれてよかったねぇ、ご主人!」

 私は『ウェイトレスなんてガラじゃない』とか言いながら、こっそり得意になったりしていた。


 お店ではよくご主人がコーヒーの淹れ方などの他に、店で出す料理、魚の唐揚げとかヒルアギ(にんにくの葉を使った肉野菜炒め)、ソーメンチャンプルーなんかの作り方も教えてくれた。私は復習がてら教わった料理を家で作って父に食べてもらったりしたが、父は私の作った料理なら何でもおいしいと言って食べてくれたので、本当においしいのかは正直のところわからないと思っていた。


 学校に行ったりアルバイトに通ったりで、その頃の私は忙しかった。家に帰れば父の食事の用意もしなくてはいけなかった。よいことなのか悪い事なのかはわからないが、岬の小屋には随分足が遠のいていた。


「今夜はうちにご飯食べに来ない? 美沙子ちゃんの好きなアボガドカツオ丼だよ!」

 ご近所のおばちゃんがそんなことを言ってくれるのだが、私は少し困り顔になって答える。

「ありがと、おばちゃん。あたしは今日もバイトだから無理かも。お父ちゃんだけお邪魔してもいい?」

「もちろんいいさ! バイト頑張ってるんだねぇ、エライエライ。でも体を壊さないくらいにしときなよ!」

 気のいいおばちゃんは、そんなことを言ってくれる。

「ありがと! あたしは大丈夫、お夕飯のことはお父ちゃんに伝えとくね!」

 私はおばちゃんに手を振って、その日は食事の準備をしなくて済んだことに感謝しながら、バタバタと家を後にしてアルバイトに出かけていったりした。


 アルバイトに出かける時間までに食事の用意が間に合わなかった時などは、父が食事の用意をしてくれることもあった。島の男性としては、父は料理が上手い方だったと思う。まあ男手一つで子どもを育てるにあたっては、色々とできるようになる必要があったのかもしれない。


 そんなこんなで私も高校を卒業する頃になった。

 私は結局製糖工場で働くことになり、結ちゃんとは同期の職場仲間になった。

「嬉しい……。美沙子ちゃんと一緒だと心強いよ、頑張ろうね」

 相変わらず結ちゃんは、にっこり笑ってそんなことを言ってくれた。


 ここで製糖工場というものについて、少し説明させていただこう。

 製糖工場とはサトウキビから砂糖を作る工場……と思われるだろうが、大まかに言えば原料糖をつくる工場と、原料糖から精製糖を作る工場の二つに分けられる。ところによっては含蜜糖と言われる黒糖や赤糖などを作るところもあるが、原料糖を作る工場に比べれば大抵小規模で家族経営でやっていたりする。私が就職したのは原料糖を作る工場の方だ。


 原料糖を作る製糖工場は、繁忙期と閑散期で大きく業務内容が変わる。サトウキビの収穫時期は決まっているので、工場での製糖工程もそれに合わせたものになるのだ。繁忙期、つまり製糖工程は十二月中頃から始まり、翌年二月の中頃まで続く。繁忙期に入ると次々に工場に運び込まれるサトウキビの選別などから工場の人手が必要になるので、季節工の人も雇って二交代制で二十四時間、工場の機械をフル稼働させて原料糖製造をする。サトウキビは痛みやすく鮮度も重要なので、収穫後にできるだけ時間をおかないで製糖工程に入る必要があるのだ。


 繁忙期の事務は人事庶務の他、サトウキビの圧搾工程で排出されるサトウキビかす(燃料になる)の量と製糖工程に必要な蒸気、電力を計算して無駄のない生産計画を作成したりする。ここの計算がちゃんとしてないと製糖工程で無駄な燃料コストがかかってしまうのだ。

 繁忙期が終わって閑散期になると工場の方は工場施設の保守業務、つまり機械メンテナンスが主な業務になり、事務の方は人事庶務や原料糖の受注発送手続きなどが主な業務になる。


 工場で働き始めた頃は、二人とも機械メンテナンスをやっている人にくっついて機械の管理資料整理の補助なんかをやっていたのだが、繁忙期を前にして私は生産計画作成部門の方に移り、結ちゃんは製品検査、分析の方に移ったので仕事中に顔を合わせる機会はほとんどなくなってしまった。残念ながらその時の結ちゃんは事務の仕事には就けなかったのだが、自分より先に事務仕事に就いた私に対しても変わらずに接してくれた結ちゃんは、やっぱり優しい子なのだと思う。


 私は事務仕事に就くまでは何となくそれを楽そうだと思っていたのだが、実際に働いてみると楽どころではなかった。製糖の各工程に必要な蒸気、電力を管理するための生産計画は重要ではあるのだが、直接製糖に関わらないこともあり、最低限の人数で業務を回していたのだ。定時で帰宅できることなどなかったが、残業に関しては製糖の方も似たようなものだったらしい。


 結ちゃんとは仕事中に顔を合わせることはなくなったが、お昼時は一緒だったのでこっそりお互いの仕事の愚痴なんて言い合ったりした。結ちゃん曰く、製品検査や分析を担当している部署も最低限の人数で業務を回しており、やらなければいけないことがそれはたくさんあるのだそうだ。


 結ちゃんは口を尖らせて言う。

「私と一緒に検査やってる人が色々教えてくれるんだけど、説明が分かりにくいことが多くって……。こうかなって思ってやってても、横から違う! って怒られたりするの。わからなかったら聞いてって言ってるでしょ? とか言うんだけど、私は何がわからないかもわからないんだから質問なんてできないんだよね……」


 私も頷きながら答える。

「わかる! あたしもね、こないだずっとデータ入力やってて、やっと終わり近くまで来たってところでチーフから『あー、ここ違ってる。ここが違うってことは、この辺から解析結果が変わってきちゃってるってことだから、この辺りから全部やり直しだね』って……。結局ほぼ全部やり直しだよ! そのことがあってからチーフから説明受けたら、必ず聞いたことを自分の言葉で聞き返すようにしてる。チーフからは少しうるさがられるけど、チーフは自分の説明であたしが全部理解できたと思ってるから、絶対聞き返して確かめないとだめなんだって学んだよ……」


「あ、そっか! 説明してもらったら私の方からその人に聞き返して確認すればいいんだ。さすが美沙子ちゃん……。私も今度そうするよ」

 結ちゃんが、ハッとしたような顔でそんなことを言った。そして私たちは顔を見合わせて、くすくす笑ったりするのだ。私たちはお互いに高校生の時よりも心の距離が近くなったように感じていたと思う。


 そうして二年程、製糖工場での勤労の日々を過ごした私と結ちゃんは、ニ十歳(はたち)になった。成人式では、私は母のお古だという着物を着た。

 父が感慨深そうに言う。

「お前もニ十歳(はたち)になったのか……、早いもんだな。お母ちゃんの着物が着れる年齢(とし)になったんだな。きっとお母ちゃんも喜んでるだろう」

「似合う?」

 くるりと回る私を見て、父が目を細める。

「似合うとも……。ところでお前、いい人なんかいないのか? 遠慮しないで家に連れてきていいんだぞ」

「何それ? いないよ、そんな人」


 少しほっとしたような、そうでもないような複雑な表情で父が言う。

「お前はお母ちゃん似だからモテるだろうに。今まで苦労させすぎちまったかな……。もしお前を好きだっていう男が出てきたら、簡単に袖にしないでどんな男かちゃんと見てやるんだぞ。いい男ってのは、ぱっと見でわかるもんじゃないからな」


 私は高校の時にフッた男の子のことが頭をよぎり、少しどきりとして言う。

「いい男の見分け方くらい、わかるもーん!」

「ほんとか? そりゃ頼もしいな」

 父が笑って言った。それからは時々父の晩酌に付き合いながら、父の思い出話なんかを聞くようになった。


「お母ちゃんと付き合うようになるまでは大変でな……」

 私は初めて聞く両親の恋話を聞くのが嬉しくて聞く。

「へえ? どっちから付き合おうって言ったの?」

「そりゃ、お父ちゃんの方からだよ。お母ちゃんは自分から『付き合って欲しい』なんて言うタイプじゃなかったからな」

「お父ちゃんはお母ちゃんになんて言ったの?」

「……なんだったかな。確かまずご飯に誘って、港とか大きな公園とか、景色のいいところに一緒に行こうって誘ったりして……」

「うんうん」


 父は少し遠い目をして、昔のことを丁寧に思い出しながら話してくれる。

「初めのうちはお母ちゃんもそっけなかったんだが、大きな公園に行ったとき、お母ちゃんがコスモスのたくさん咲いてるのを見てすごく喜んでたから、ある時コスモスの花束を買ってお母ちゃんに渡したんだ。そうしたら何て言うか……すごく優しいきれいな顔で笑ってくれてな」

「うんうん!」

「その時『今しかない』って思って、『俺と結婚してください』って言ったんだ」

「好きだっていう前に結婚してくれって言ったの?!」


 私が驚いて聞くと、父は少し照れながら答える。

「あー……、そうなるな」

「で、お母ちゃんは何て?」

「びっくりした顔してたが、ぷっと吹き出してから、にっこり笑って『はい』って」

「はぁー……、何かすごいな……」

「お母ちゃんは俺以外の男からも色々誘われてたりしたらしいから、ちょっと変わったくらいの方がよかったのかもな」


 そう言ってから、父が私に尋ねる。

「お前をご飯に誘うような男はいないのか?」

「あー、いないね。工場の人は大人の人ばっかりだから、あたしなんか子どもに見えるんじゃないかな」

「もう大人になったじゃないか」

年齢(とし)だけ大人になったって、しょうがないでしょ」


 父が苦笑して言う。

「なんだ、随分謙虚だな」

「謙虚っていうか……大人ってどういうのが大人なのか、よくわかんないし……」

「大人か……、そう言われると難しいな。どういうのが大人なのかな」

「お父ちゃん、わからないの?」

「そうだな……、多分色々うまくいかなくって苦労してたりすると、いつの間にか大人になってるんだよ、きっとな」


 私はよくわからなくて父に聞く。

「全部うまくいってたら、大人になれないの?」

「そうなるな」

「変なの!」

 私と父は、顔を見合わせて笑った。そうしてひとしきり笑ってから父が言う。

「だからお前は、きっともう充分過ぎるほど大人なんだよ」


 ニ十歳(はたち)になった私と結ちゃんが繁忙期の終わりを迎えた頃、工場の人達と工場近くのお店へお酒を飲みに行こうと誘われた。翌日は休みだったので、かなりお酒が入っても大丈夫というわけだ。

「美沙子ちゃん、お酒飲めたっけ?」

 お店に向かう道すがら、結ちゃんがそんなことを聞いてきたので私は答える。

「うん、普通くらいにはね。結ちゃんは?」

 結ちゃんのお母さんは、両親と同じで本土から来た人だ。

「私、お酒飲めないんだよね……。野菜ジュースでもいいのかな?」


 心配そうな顔をする結ちゃんがかわいかったので、私は少しからかいたくなった。

「野菜ジュースでも果物ジュースでも好きなの飲めばいいんだよ。それより悪い男には気を付けてね。結ちゃんかわいいから、あたしは心配だよ」


 私がそんなことを言ったので、結ちゃんは笑顔になって言う。

「ええ?! 私はモテたことないもん。モテてたのは美沙子ちゃんでしょ?」

「でも好みじゃなかったから全部フッちゃったし。……って、なんで知ってるの?」

「あー……えーとね……、フラれた男の子たちが言いふらしてたの……」

「うわ……よかった、フッて」

「ほんとだね!」

 私たちは顔を見合わせて、くすくす笑った。


 お店は工場からそう遠くないところにある。それほど大きくもないお店は工場の人達でいっぱいになった。

 私たちは並んで座った。私は黒糖焼酎の炭酸割り、結ちゃんはパイナップルジュースを頼んだ。残念ながら野菜ジュースはお店のメニューになかった。


「二人とも仲いいんだね。同期なんだっけ?」

 そんな風に話しかけてきたのは生産計画部門のチーフ、私の上司だ。

「何々? その子達、翔次ちゃんのチームなの? 紹介してよ!」

 知らない男の人も混ざってきた。

「こっちの子はそうですけど、そちらの子は違いますね。初めまして、生産計画部門でチーフやってる翔次って言います」

 しまった、ちゃんと紹介してなかった。

「すみません。こちらは私の元高校の同級生で今は検査、分析部門で働いている結ちゃんです」

「は……初めまして、結です」

 何だか結ちゃん、緊張してるみたい?


「俺はボイラー部門の方をやってます! 翔次ちゃんがちゃんと生産計画やってくれてるから、今期もほぼ外注燃料を使わなくて済んだんだよね。いつも助かってるよ!」

 ボイラー部門の人がそんなことを言う。あたしだって頑張ってるんですけど……。

「こいつも頑張ってますよ。まだちょっとあぶなっかしいけど」

 チーフがそんなことを言ってくれる。

「そうなんだ……。さすが美沙子ちゃんだね」

 結ちゃんも、にっこり笑ってそんなことを言ってくれた。


「結ちゃんのことも検査の人が褒めてたよ。あの子は優秀だって」

 チーフは卒なく結ちゃんのこともちゃんと褒めた。うんうん、よいぞよいぞ。……あたしは少し酔ってきたようだ。

「そんな……私なんかまだまだで……」

 んん? 結ちゃんちょっと赤くなってる? パイナップルジュースで?


「おお! 優秀な人材が多くて、うちの工場は安泰だな! がっはっは!」

 そんなことを言って笑っているボイラー部門の人。酔っているのかと思ったが、手にしているのはどう見てもウーロン茶だ。この人も飲めない人?


「いやー、今でこそ偉そうにしてるそちらのチーフさんも、工場に来たばっかりの頃はしょっちゅう怒られててね。その時のチーフの人に」

 ボイラー部門の人がそんな話を始めたので、チーフが慌てて言う。

「ちょっとぉ! そういうこと言います? 俺だって工場来た時はわかんないことだらけだったんですよ。この島にも来たばっかりだったし」

「チーフって本土の人だったんですか?」

 私は意外に思って聞いた。

「そうだよ。元々は本土で工場機械のオペレータをやってたんだけど、人が多くて上に上がれなくってね。給料も安かったし色々悩んでさ。それでこの島に来ることにしたってわけ」


「この島来たばっかりの頃の翔次ちゃんは、かわいかったよなー!」

 どうやらボイラー部門の人とチーフは、その頃からの付き合いだったらしい。

「ほんとお世話になりました、その頃は。今は俺がボイラー燃料の世話してるけど」

 そんなことを言いながら二人は大笑いしていた。結ちゃんは、ほんのり薄紅色の頬をして、にこにこしながら二人の会話を聞いている。社会人になって初めて参加した飲み会は、とても楽しかった。


 その日はボイラー部門の人の車で、結ちゃんと私は家まで送ってもらうことになった。そうか、ボイラー部門の人は車で来てたからお酒を飲んでなかったのか。

「今日はありがとうございました。おやすみなさい」

 そう言って手を振る結ちゃんはかわいかった。私が手を振り返しながらボイラー部門の人を見ると、何だかその人も手を振り返していた。……鼻の下を伸ばしながら。


「あのさ、結ちゃんって彼氏いるの?」

 そんなことを聞くボイラー部門の人に私は言葉を返す。

「むむ……。親友のプライバシーにはお答えしかねますね。聞いときますよ、今度でよければ」

「おお! 是非よろしくぅ!」

 ボイラーの人が緩んだ顔で笑いながらそんなことを言ったので、この人は悪い男ではなさそうだと思った。


 私は酔っていたせいか、迷いもなく結ちゃんのことを親友と言っていた。私自身、親友とはどういうものかもよくわかっていなかったのだが。何となく少し後ろめたかったので、今度結ちゃんに聞いてみようと思った。困った顔をされたらどうしよう……。


 休み明けの出勤日、私は結ちゃんと食堂で一緒に昼食を食べていた。そして結ちゃんを眺めながら『私たちって親友だよね?』なんて聞いていいものか、ぐずぐずと考えていた。

 結ちゃんが不思議そうな顔で言う。

「どうしたの? あんまり食べてないね?」


 私はどきりとして慌てて返事を返す。

「ああちょっとね、聞いていいものか迷ってたもんだから」

 しまった、口を滑らせてしまった……。

 結ちゃんは一瞬きょとんとした顔をしてから俯き、おずおずと口を開いた。

「……そういえばね。私も美沙子ちゃんに聞いていいか迷ってることがあるの……」


 おお? 結ちゃんも私を親友と呼んでいいのか迷っていたというのだろうか。

 私は少し嬉しくなって言う。

「何々ー? 結ちゃんがあたしに聞いちゃいけないことなんてないよー? なんでも聞いてぇー?」

 ……私の口調は何だか酔っぱらったおじちゃんのようだった。


 そんな私に、結ちゃんは意を決したように言う。

「あのね、あのチーフさんのことなんだけど」


 チーフ? うちの? 親友の話じゃなくて? 私はきっとポカンとした顔をしていたに違いない。結ちゃんは私の顔を見てくじけてしまいそうになったようだ。

「ごめんね、変なこと言って……。いいの忘れて」

 結ちゃんの声が少し涙ぐんでいたので、私は慌てて言った。

「いやいやいや、ごめんごめん。大丈夫だよ。ちゃんと聞くから話して? ね?」


 私がそう言ったので、結ちゃんは気を取り直して話し出す。

「あのね、あのチーフさん、左手の薬指に指輪してないから結婚はしてないと思うんだけど、お付き合いしてる女の人とかっているのかな?」


 私は頑張って聞いていたつもりだが、その努力は報われなかったようだ。どうもまたポカンとした顔をしていたらしく、結ちゃんはまた涙ぐんでしまった。

「ごめんね、やっぱり……」

「いやごめんって! ちゃんと聞いてるよ! ちょっとびっくりしたけど……」

 それはあまりに私の予想を超えていたので、もはや親友の話どころではなくなってしまった。指輪? 結婚指輪してないって意味? 私は正直なところ、チーフの左手の指が何本だったかも覚えていない。いや五本ですよ、多分……。


 私は恐らく、これまでの私の人生で一番動揺していた。

「ええと、結ちゃんがチーフの交友関係に興味があるということは……、つまり……そういうことなの?」

 結ちゃんは両手で顔を覆い、耳まで真っ赤になって頷いた。


 かわいいーー!!

 いやいやいや待て待て待て、それどころじゃないだろ。ちゃんと考えないと……。


「結ちゃん? チーフは多分いい奴だし、好きになっても悪くないと思うよ? でもチーフの個人的なことって、あたしもこないだの飲み会で聞いた以上のことって知らないんだよね。だから聞くだけ聞いてみるから、待っててくれる?」

 私はこの工場に入社するときの面接以上に頑張って言った。


 すると結ちゃんは、耳まで真っ赤にしたまま身を乗り出して言う。

「お願い……! それ私から聞いたって絶対言わないで……!!」


 かわいいーー!!

 いやいやいや、いい加減にしろよ私! ……大丈夫。私は大丈夫だ。ちゃんとできる、多分……。


「大丈夫だよ。それとなく聞くから安心して? もうお昼休み終わっちゃうから仕事戻らないとね。結ちゃん大丈夫?」

 私は耳まで真っ赤になっている結ちゃんが心配になって言った。

「うん……。ちょっとトイレで顔洗ってから戻るようにするから大丈夫……。ごめんね、美沙子ちゃん。変なことお願いして……」

 ううん、かわ………。ゴホン……。


「全然大丈夫だよ、気にしないで。でもすぐに聞けないかもしれないから、ゆっくり待っててね」

 私はできるだけ自然な笑顔になるように気をつけて言った。結ちゃんは赤い顔をしたまま、にっこり笑って手を振ってトイレの方に歩いて行った。


 何だ結ちゃん、急にかわいくなっちゃったな……。まあ元々かわいい女の子ではあったけれども。これが『ご飯三杯イケる』って奴だろうか……。私は首を振って頭を冷静にしようとしながら、あのチーフをそこまで好きになれる結ちゃんを少し遠く感じている自分に気が付いた。

「どこがいいんだろう……?」

 本土出身とか、そういうところだろうか? いや、きっと恋を知らない自分には理解できないことなんだろうな、なんてことを思いつつ、私は生産計画部門の仕事場に戻った。


「原料糖受注発送のヘルプですか?」

 仕事場に戻った私は、チーフから別部門のヘルプをするように指示された。そういえば去年の閑散期もそうだったっけ。

「うん。この時期こっちじゃ急ぎの仕事もないし、頼むよ」

「わかりました。しばらくチーフとは顔合わせなくなりますね」

 私は結ちゃんからの頼まれごとがやりにくくなることが心配になって言った。


「何? 寂しがってくれんの?」

 チーフがそんなことを言ったので、私はぎくりとして答える。

「そうですねぇ、チーフとはずっと一緒に仕事してますし……」

 適当に誤魔化そうとした私にチーフが言う。

「それじゃあさ、今度一緒にメシでもどう?」


 私は一瞬、思考が止まってしまった。

「え?」

「俺と一緒に仕事ができなくなって寂しがってくれるんなら、一緒にメシでもどうかって話だよ、嫌?」

 チーフが何だか、照れながらそんなことを言う。心なしか頬まで赤くなっているように見える。まさかこれは……。

「すみません、仕事終わったら家に帰って父の食事の用意をしないといけないので、外食はちょっと……」

 私は内心冷や汗で一杯になりながら言った。


「そうか……。悪かったね、変なこと言って。忘れてよ」

 チーフは見るからにがっくりと肩を落として、そんなことを言った。明らかに意気消沈したその姿は気の毒なくらいではあったが、私としてはそれどころではなかった。


 原料糖受注発送の部門に行くと、結ちゃんがいた。……そうだった。検査、分析の方も閑散期は必要な人手が少なくなるのだ。

「あ、美沙子ちゃん! またしばらく一緒だね!」

 そんなことを言う結ちゃんのにっこり笑った顔は、とてもかわいらしかった。恋する乙女の顔はこんなに魅力的なのに、チーフの奴はなんで私なのか……。


「あの……例のことって、まだ聞けてないよね?」

 こっそりおずおずとそんなことを聞く結ちゃんも、やっぱりとてもかわいらしい。そうだ、確かにまだ聞けてはいない。

「うん、ごめんね。いいタイミングがなくって」

 付き合っている女の人がいないらしいことはわかったけど……。


「でもこっちのヘルプに入ってると、結ちゃんも聞きづらいよね。急がなくっていいからね」

 隠しようのない失望の色をのぞかせながら、一生懸命それを隠そうとしてにっこり笑う結ちゃん。健気だよぉ……どうしよう……。


「ごめんね。美沙子ちゃんも話があるって言ってたのに、私のことばっかり話してたよね。よかったら、いつでもいいから話してね」

 結ちゃんが申し訳なさそうに俯きながら、そんなことを言った。

「うん。実はね……」

 私がそう言ったので、結ちゃんが顔を上げて私の方を見る。

「うん。なあに?」

「実は私、本土の会社に転職することを考えてて……」

 私は自分でも気が付かないうちに、そんなことを口走っていた。



to be continued...

読んでくださってありがとうございます!

皆様に幸多からんことを!

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