寡黙な愛を貴方へ
ベアトリスは平凡は伯爵家に生まれ、周囲に愛されながら育った生粋の貴族子女だ。
悪意を知らず、貧しさを知らず、温かい光に満ちた柔らかな世界しか知らない。
季節の花を愛で、茶会を楽しみ、兄や姉の真似事をし、父や母の教えを守る。
そんなありふれた令嬢のひとり。
「私は貴女を選んだが、貴女を愛することはできない」
だから、ローランは泣いてしまうかもしれないと思いつつ、自分の心を曝け出して彼女に伝えた。
実際彼には愛する女性がおり、身分の差ゆえに娶れない恋人が存在する。
しかし貴族として生まれてきた以上、特別な事情がない限り結婚とは無縁でいられない。
それは領地のためでもあるし、何より男社会では結婚してようやく紳士の仲間入り、というように周囲の対応も変わっていくからである。
といっても、それを初夜の日に口にするのだからこの男もなかなか悪どい。
月の光がスゥと差し込み、妖艶な姿で寝台に腰を下ろすベアトリスの睫毛が震えた。
彼女は膝の上に組んだ指先を緩ませ、上目遣いでローランを見上げてきた。
濡れた瞳にどきりとしながら、ローランは彼女の言葉を待つ。
「……でも、お子はくださるでしょう?」
不安に眉を下げる彼女は泣きも喚きもせず、そっと指先を腕に撫で付け、我が身を寄せるように肩を抱いた。
胸もとの開いたネグリジェから豊満な胸がこぼれだす。
色を知らない無垢な少女は無自覚に男を誘う仕草をする。
ローランは掠れた声で「ああ」と返事をし、ゆっくりとベアトリスを寝台へ押し倒した。
首筋に唇を寄せる男の髪を梳きながら、女は淡く光り輝く月を仰ぐ。
「――――――」
声なき言葉は暗闇へ消え、女は瞼を閉じる。
この熱も、息苦しさも、体の芯を貫く痛さも、快楽も、女にとっては流れゆく日々の一つでしかなかった。
ベアトリスは過度な浪費を好まず夫に従順で、また女主人としても申し分ないほど出来のいい妻だった。
ローランの母は「私が彼女を見つけたのよ!」と誇らしげに語り、義理の娘を誘い出しては『花々の宴』という婦人会へ連れて行く。
そこには社交会の華と呼ばれる公爵夫人や傾国の美女として名高い王妃様も名を連ねている。
王妃様からの覚えもよく、ベアトリスは婦人会の中でも妻としていい働きをしてくれた。
交流のなかった大臣に政治について意見を交わしたいと話し掛けられたり、若手の中で一番注目していると王自らお声がけをくださったのだ。
毎日のように通っていた恋人を囲っている屋敷に帰る日が一日、二日と遠のき、ついには週一になってしまった。
平凡な令嬢だと思っていたベアトリスは母に振り回されてか、息子を産んで強くなったのか、以前とは比べ物にならないほど話術に富んだ社交性を身に付けていた。
彼女の口から溢れる話はときに重要な情報となり、出世の糸口を掴むような感覚だった。
女の話はつまらないと思っていたローランにとってまさに青天の霹靂。
自分の父親に対してよく母の話を聞いていられるな、と呆れていたが、女性の情報網は侮れない。
最近では他人の口からベアトリスを褒められると自分まで嬉しくなり、母のように誇らしげに思っていた。
そんな彼女の趣味は、絵画鑑賞だ。
特に年代物の絵画を好み、暇をみては美術館に足を運び、作家問わず展示会が開かれるとすぐさま飛んでいく。
子供は家に残し、お供は侍女ひとりだけ。
それは幼少の頃から変わりないようで、義理の両親が苦笑いをして謝ってきた。
妻として充分役目を果たしているので今更口出ししないが、何が彼女の心を射止めるのだろう。
そう心に引っかかったが、芸術にさして興味のないローランはすぐにそのことを忘れてしまった。
ベアトリスが第一子を産んで三年。第二子を授かった頃にはすでに恋人と破局しており、ローランは理想的な家族像がここにあると自負していた。
剣術の稽古に夢中な息子、妖精のように愛らしい娘、夫に寄り添うように期待に応える妻。
周りから愛妻家だねえと微笑まれるほど、ローランの帰る家は居心地がよく、幸福に包まれたものだった。
だから、それを思い出したのは、ある絵画の前で足を止めるベアトリスを振り返ったときだった。
娘の社交界デビューという晴れ晴れしい日。
今年は建国500周年を迎えるためか、舞台に選ばれたのは国民も大切にしているヴィクトワール宮殿だ。
数百年前に建てられたこの宮殿は、普段公開されていない。
大広間には色彩豊かな天使たちが今にも動き出しそうに天井を走り、神話を描いたステンドガラスが目を楽しませる。
白い柱が点在した先には赤い絨毯の敷かれた中央階段があり、踊り場には当時在位していた王族の肖像画が飾られていた。
――アドルフ一世。
建国後、最も栄え、のちに黄金期と呼ばれる時代を築き上げた偉大なる父王。
死後数百年経つ今でもその人気は衰えず。
絵に残された彼は目を瞠る美丈夫で、とくに女性の支持が熱い。
当時の記録から王妃をただ唯一の国母としており、そこもまた支持される所以だ。
そしてこの宮殿は、その愛した王妃のために造ったと文献に記されている。
神にも等しい偉大な王に寵愛された真紅の薔薇――ヴィクトワール王妃。
彼女に纏わる逸話は決していいものではない。
妖艶な眼差しで心を揺さぶり、視線や指先一つで人を操ったとされる。
偉大なる王の膝下で猫のように気儘に振る舞い、その心を掴んで離さない。
アドルフ一世に関連するもので、このような手紙がある。
少女のように無垢な笑みを見せたと思えば、濡れた瞳でじっと私を求めてくる。
彼女の唇から紡がれる声は心地が良く、影を落とす睫毛に隠された紫水晶の瞳は真実を映す。
私の一番の功績は彼女を見つけ、この腕の中に収めたことである。
彼女が蝶のように飛び回ろうと、私という蜜に帰ってきてくれる。
あぁっ!それがどんなに喜ばしいことか、君にわかるだろうか。
彼女の心は未来永劫、私のものなのだ。
神に愛された容姿を誇る私だけの。私だけのヴィクトワール!
だから残念なことに、君が彼女と逢瀬を重ねようと決して叶うことのない愛だ。
鏡を見るまでもないだろう。
即刻諦めたまえ。
つまり、この手紙から読み取れるようにヴィクトワール王妃は奔放なお方だったらしい。
このようなアドルフ一世の手紙は数多く残っており、ヴィクトワールへの愛と執着、優越感すら滲ませる文面が綴られ、締めくくりは『諦めたまえ』で終わっている。
だが、そう。この手紙からはもう一つ読み取れることがある。
アドルフ一世が自己陶酔するように、彼の容姿は並外れた美丈夫なのだ。
世界三大美丈夫の中でも圧倒的な存在感で、彼をモデルにした神話の絵や銅像などが芸術家たちの手によって満ち溢れている。
そしてヴィクトワール王妃はその容姿を愛していると。
裏を返せば顔の良し悪しで心惹かれる女、と捉えられる文面に、後世で顰蹙を買った。
歌劇では当たり前のように悪女として登場するヴィクトワール王妃。
彼女の姿絵は、この宮殿にしか残されていない。
年頃の子女たちが緊張した面持ちで、けれど浮き足立つような期待感を滲ませつつ王家に挨拶をしていく。
ローラン夫妻も挨拶を済ませ、エスコートの役目を担う長男に妹を任せると、回廊へ行くという妻の後を何の気まぐれかローランも付いていった。
この宮殿の回廊には黄金期時代の絵画がずらりと飾られている。
アドルフ一世とその子供たち、風景、またヴィクトワール王妃の肖像画も。
この国が暗黒期に突入したとき、アドルフ一世の血縁が途切れてしまったため、今の王朝とは何のゆかりもない。
だが、やはり黄金期への憧れか、はたまた崇拝か、この宮殿は王家に大切に保護されており、当時の面影が窺える。
花畑で両手を広げる麦わら帽子の女性。
薔薇園の生垣から顔を覗かせ、照れたように微笑む女性。
暖かい陽だまりの下で眠る男の子と女の子。
アーチ状の薔薇から見える噴水で腰掛けた女性に膝枕をされている男性。
女性に跪き、新たな生命を宿したお腹にキスを贈る男性。
赤子を胸に、新たな家族の誕生を祝う五人の姿。
重苦しい雰囲気の中、凛々しい姿で剣を掲げる男性。
活気に満ちた城下を凱旋する男性。
成長した男の子に、風格を表し出した男の子と女の子。
柩の中で眠るように目を閉じる美しき女性。
ヴィクトワール王妃は25という若さで亡くなった。
死因は不明。誰かに殺されたのか、流行病か。
数々の学者が解明に勤しんでいるが、彼女がいつ死んだのか、どこに埋葬されたのか、知っているものはすでにいない。
ヴィクトワール王妃の死が描かれた絵画を通り抜けようとしたとき、ローランはもう一つの足音がないことに気付いた。
どうしたんだと振り返れば、彼の妻ベアトリスは凱旋するアドルフ一世の絵画の前で跪き、祈りを捧げるように両手を組んでいた。
普段は凡庸な妻だ。社交性が身に付いても茶褐色の髪と瞳は特長の一つになりえない。
愛嬌はあるが美人なら他に沢山いる。
地味ではないが派手でもない。
話せば印象に残るが、その他大勢の中では埋没してしまう。
だが、気品に溢れたその姿はまるで絵画のようだった。
何人たりとも犯してはならぬ空気が漂い、息を吸うのさえ忘れてしまう神聖さがあった。
君もアドルフ一世のファンかい?なんて聞けない。
そこにあったのは歴史を振り返って偶像する子女とは違う、もっと別の、そう、寡黙な愛があった。
この衝撃をどう表現しようか。
言葉を失うほどのショックだった。
目の前が真っ暗になった。
吐き気がした。
血の気が引いた。
手が震えた。
思考が低下する。
どれも、陳腐だ。
だが、ローランはそこに佇むしかなかった。
それしか出来なかった。足が床に縫い付けられたように、視線だけをベアトリスに向けた。
早くこっちを向いてくれ。
忙しない心臓の音が耳の奥で鳴り響く。
そして何処からともなく、知らない男の声が耳元で囁く。
――彼女の心は未来永劫、私のものだ
馬鹿な、と一笑に付すことはできなかった。
ベアトリスは年代物の絵画が好きだ。それを鑑賞するためなら子を残してまで飛んでいく。
特に、そう、黄金期の絵画には目がないと義理の両親は口にしていた。
それは年頃の娘ならよくある話だった。一度アドルフ一世を見たならば夢中になってしまう。
ありふれた、どこにでもある話。
「ローラン様、どうなさったの? 顔色が良くないわ」
客間を借りて休みましょう、といつの間にか目の前に現れたベアトリスを見下ろす。
そこには心配そうに眉を下げる妻の姿がある。
先程の気品に溢れた姿が嘘のように、もしかしたら見間違いかもしれないと疑うほど、普段通りの凡庸な妻の姿だ。
「……君は、私を愛してるかい?」
言葉にするつもりはなかった。だが胸から込み上げてくる思いを抑えられない。
ローランは口にした瞬間、後悔した。
ベアトリスは何を急にと瞬きをし、少し首を傾げてから、ふふっと笑んだ。
「おかしな旦那様ね」
濡れた瞳を細めると、ローランの首に両手を回し、その耳もとに吐息をかける。
「ええ、勿論。愛してるわ」
軽やかな声で、少女のようにクスクスと笑う。
なんて陳腐な言葉だ。
望んだ答えが返ってきた筈なのに、ローランの心は重苦しさが増すばかり。
彼女の「愛してる」は羽根のような軽さだ。
初夜で不誠実な言葉を浴びせた男を恨むでもなく、帰ってこない男を罵倒することもなく。
日常を受け入れ、妻として役目を果たし、夫が毎日のように帰ってきても彼女は笑顔で出迎えてくれた。
「私が、君を愛さなくても?」
いつかの日のように、だがあの時とは違う想いを胸に。
「ええ。貴方に愛を伝えるわ」
ああ、そうか。
ローランはようやくその答えがわかった。
口ではいくらでも嘘が付ける。
とうに気持ちが離れていったというのに、元恋人と破局するまで、彼は愛してるの言葉を贈っていた。
だからわかってしまう。
彼はただ、先のような寡黙な愛が欲しかったのだ。
簡単に口にできない言葉を。
伝えられない想いを。
『――私の心は未来永劫、貴方のものよ』
彼女の瞳に映っているのは、誰なのか。
寡黙な愛を、貴方へ