勘違いだったみたいです
「放課後の生徒会室で、私と婚約破棄すると殿下が仰ったのを聞いてしまったんです」
セラフィーナの言葉にグレイルが考え込むように片手を顎にやり、首を傾げる。
「私がセラフィーナとの婚約を破棄するって? そんなこと言った覚えはないけど? いつの話?」
「10日前のことです」
「10日前? ……もしかしてアレか? 私がセラフィーナといつも一緒にいたくて無理を言った時に、側近に独占欲が強いと婚約破棄されますよって言われたのを、オウム返しで聞いた時のことかな?」
「オウム返し?」
キョトンとするセラフィーナに、グレイルが溜息を吐く。
「セラフィーナとの婚約を破棄する? 有り得ない! って続いていたはずなんだけど、そこまで聞いてた?」
「有り得ない?」
フルフルとセラフィーナが首を横に振ると、グレイルが苦笑する。
「有り得ないんだよ。……でも、そうか。だからあの日、君は生徒会室に来なかったのか。セラフィーナの作る差し入れのお菓子を毎日楽しみにして、生徒会の仕事をしてたのに」
「え? でも私は生徒会メンバーではありませんでしたから、毎日行くのはお邪魔だったのでは?」
「何で? セラフィーナと私が一緒にいるのは、婚約者なんだから当たり前でしょ? でもセラフィーナまで生徒会なんて入ったら、私に構う時間が無くなってしまうじゃないか。君は真面目だから、面倒な仕事とか進んでやってしまうだろうしね。ただ生徒会という名目で、放課後や休み時間に君と一緒に過ごせるのは魅力的だったから、私は会長になる条件としてセラフィーナを生徒会に入れないことと、君が自由に生徒会室に入れることを要求したんだ」
「ウソ」
「嘘じゃないよ? 現に私の要望は受け入れられて、毎日セラフィーナの手ずから作ったお菓子を食べられるし、一緒に過ごす時間は確保できるし幸せだった。それなのに卒業まで半年の今になって、いきなり距離を置かれた私の気持ちがわかる?」
グレイルから語られた驚愕の事実に、セラフィーナは呆然とする。
そんなセラフィーナの鉄紺色の髪を指で弄びながら、グレイルは浅葱色の瞳を薄く細めた。
「殿下なんて他人行儀な呼び方になったから問い質そうと思ったら、私と一緒にいる最中にライナスの所へ行っちゃうし」
「あれは怪我をしていたので」
「そうだけど肩なんて組んじゃって、私がどんな思いで見ていたと思う? それにセラフィーナが私を見るなり倒れた時、あの時は死ぬかと思ったんだよ? その後、保健室で君の健やかそうな可愛い寝顔を見ていたら、安堵と共にジワジワと焦りが出て、父上とスターツ公爵に頼み込んで漸く手に入れたはずなのに、もし横から掻っ攫われでもしたらどうしようって落ち込んだ。だからサプライズで作らせていた夜会でのドレスのことを言ってしまいそうになったんだけど、セラフィーナに遮られてしまうし」
「保健室? 夜会でのドレス?」
記憶の糸を辿りながら、セラフィーナは保健室での会話を思い出す。
『セラフィーナ、昨日言いそびれてしまったのだけれど、こん』
グレイルは確かに『こん』と言っていた。
てっきり『こん』に続く言葉は『婚約破棄』だと思い込んでいたので、セラフィーナは阻止した。だが『こん』に続く言葉は婚約破棄ではなく……?
「今度の夜会でのドレスは私が贈るから以前のように名前で呼んで、って言おうと思ったんだ。セラフィーナは私の婚約者なんだって、周囲に知らしめてやりたかったし」
グレイルから告げられた真相に、セラフィーナは脳内で絶叫する。
(ぎゃあああああ! 私のバカーーーーーーー!!! 『こん』違いーーーーー!!!)
引き攣った顔で脳内絶叫大会を繰り広げるセラフィーナの輪郭をなぞりながら、グレイルは拗ねたように言葉を続けた。
「結局言えないままセラフィーナは教室に戻ってしまったけれど、私も当日までのお楽しみにすればいいかと考えてた。でも平気そうに見えたのに、その後、学園を休んだからすごく心配した。それなのにお見舞も断られるし、返事も素っ気なくて気が気じゃなかった。週末にくれてた手紙も来ないし……ずっと門の前で待っていたのに」
「ずっと門の前で? え? それ王子としてどうなんです? 執務は?」
セラフィーナが思わずツッコミを入れると、グレイルが口を尖らせる。
「王城の門前で執務してた。青空教室ならぬ青空執務」
「側近の方、ごめんなさいーーーーー!!!」
脳内ではなく声に出してセラフィーナが叫ぶ。
幸い王城の庭園には人影がなかったが、淑女としては失格である。
しかしグレイルはそんなセラフィーナを気にする素振りもなく、また彼女の髪を指に絡ませる。
「今日の学園でのお茶会だって、毎年誘いに来てくれてたのに全然来てくれなくて、我慢できずに私から行ったら教室にはいないし。慌てて中庭へ向かったらライナスと仲良さそうにしているし。なんとかセラフィーナを取り戻したものの、あんまり可愛い表情をするから君を食べたいのを我慢するために、なるべく遠くを見るようにしてた。それなのに今夜の夜会用にドレスを贈ったことを言おうと思ったら“あ~ん”なんてするから、理性が吹っ飛びそうだった」
“あ~ん”は、無理やり婚約破棄と言われるのを阻止しただけなんです……とは言えずに、渇いた笑みを浮かべたセラフィーナの脳裏にグレイルの言葉が甦る。
『そういえばセラフィーナ、こんやムグっ!』
ここの『こんや』はそのまんま『今夜』であって『婚約破棄』ではなかったらしい。
またしても『こん』違いをしていたようだ。
自分の失態に気づいて最早呆然自失となるセラフィーナだったが、その後の出来事を思い出して、我に返る。
「で、でも、お茶会から帰る時グレイル様は仰いました」
「何て?」
「セラフィーナ、もう終わりだねって! 仕方がないよって! もう、どうしようもないのでしょうか? って伺ったらこればかりはねって!」
あの時の辛い気持ちを思い出して、じわっと涙を浮かべたセラフィーナの瞳へグレイルがそっと手を伸ばす。
「終わりだねって言ったのは茶会のことだし、仕方がないのは帰る時間だったからだけど? 今日は夜会もあったから早く帰らないといけなかったしね。私だってセラフィーナと一緒にいたかったけど、あのまま王宮へ連れ去ったら君の父上であるスターツ公爵に殺されるだろうから、どうしようもなかった。
セラフィーナが煽るようなことを言うから大変だったんだよ? 引き下がられた時は安堵したのに残念で、でも夜会で私が贈ったドレスを着たセラフィーナを想像したら嬉しくなった」
セラフィーナの下瞼を親指の腹で擦ったグレイルは小さく溜息を一つ吐くと、にっこりと微笑んだ。
「それで? 凄く楽しみにしていたのに、私の贈ったドレスを着てこなかったのはどうして?」
がっちりとセラフィーナの腰を抱いて至近距離から見つめてくるグレイルの瞳から、逃れるようにセラフィーナは視線を外す。
「そ、それは……お茶会でレイラ様に見惚れているグレイル様を見て、私は、てっきり婚約破棄はもう覆せないのだとばかり思いまして……。グレイル様の気持ちを考えずに、婚約破棄を阻止しようとしている自分が浅ましく思えて、グレイル様の色で作られたあの清廉なドレスに相応しくないと考えたから、です」
一連のグレイルとの会話で、ようやく自分の勘違いに気づいたセラフィーナがあわあわしながら説明をすると、何故か彼は嬉しそうに口角を上げた。
「なるほどね。セラフィーナのここ最近の奇行は全部勘違いで、私から婚約破棄を言わせないための行動だったんだ。そっか、そっか。でも、あんなに私を追いかけてくれていたセラフィーナが自ら身を引こうとするなんて、私と婚約破棄をするのがそんなに嫌だったってことだよね」
鼻歌でも歌いそうな位に上機嫌になったグレイルが、真っ赤になったセラフィーナの顔を覗き込み己の顔を近づけたその時、背後から衣擦れの音が聞こえた。